歩きスマホ根絶・公共空間安全確保法
視界の九割は、液晶画面の青白い光で埋まっていた。
限定配信のゲームイベント、残り時間はあと三分。拓海はスマホの画面を狂ったようにタップしながら、繁華街を一人歩いていた。周囲の「現実」の景色など、ただの邪魔な背景に過ぎなかった。
半年前、「歩きスマホ根絶・公共空間安全確保法」が施行された。
名目は事故防止と公共の安全。だが、その実態は容赦のない「排除」のシステムだった。街のいたるところに設置された監視カメラと、公共AI「眼(アイ)」が、下を向いて歩く人間を秒単位で検知する。
三度警告を無視すれば、その人間は社会から一時的に「隔離」され、「調律」を施されるらしい。
『警告、コード404。速やかに端末をしまい、周囲の安全を確保してください』
頭上のスピーカーから、拓海のマイナンバーと連動した指向性音声が降ってきた。耳障りな電子音が鼓膜を刺す。しかし、拓海は指を止めなかった。
「あと少し……あと一回ボスを倒せば、レア報酬が手に入るんだよ!」
『二度目の警告。あなたの歩行速度と視線移動は、公共空間安全確保法第十二条に違反しています』
すれ違う人々が、一斉に拓海から距離を取った。まるで汚物か、不発弾でも見るかのような冷たい目。
歩きスマホをする者は、ただの違反者ではない。社会の調和を乱す「バグ」として扱われるのだ。
「うるさい! 今、画面から目を離したら負けるんだ!」
拓海は吐き捨て、さらに歩を進めた。最後のコンボが決まる。画面に「VICTORY」の文字が光った。勝った。脳内に快楽物質が溢れ出る。
その瞬間……世界から音が消えた。
『三度目の警告。対象の排除を開始します』
ブツン、と手の中のスマホが真っ黒に染まった。強制シャットダウン。それだけではない。拓海が身につけているスマートウォッチも、ワイヤレスイヤホンも、すべての電子機能が凍結された。
さらには床のプレートが突如として左右に開き、拓海は地下の「強制一時退避区画」へと勢いよく滑り落ちていった。
地下の「強制一時退避区画」に落とされて数時間後、拓海は歩きスマホ常犯者のための更生施設「歩行調律センター」に移された。
ここでの生活に、スマホの持ち込みは当然許されない。拓海に与えられたのは、液晶画面が一切ないプラスチック製のダミー端末だった。
「これより歩行調律プログラムを開始します」
スピーカーからの無機質な声とともに、床にプロジェクションマッピングで赤い直線が映し出される。
プログラムの内容はシンプルだ。手元にダミー端末を保持したまま、前方の壁だけに視線を固定し、直線の上を真っ直ぐ歩く。
一歩でも視線を下に向ければ、即座に大音量の警告音が鳴り、床が激しく振動する。
「下を見るな。前を見ろ」
監視員の指示が頭に響く。
最初の三日間、拓海は禁断症状に苦しんだ。歩くたびに、ダミー端末から通知が鳴ったような錯覚に襲われる。無意識に指が動き、何もない空間をスワイプしてしまう。視線を前に固定して歩くという、かつて当たり前だった行為が、今の拓海には苦行でしかなかった。
一週間が経ち、拓海はついに警告音を鳴らさずに往復できるようになった。
「調律完了。初犯のため、社会復帰を許可します」
気がつくと、拓海は再び地上に立っていた。ポケットには、機能が大幅に制限された「安全モード」のスマホがある。歩行中は画面が強制的にブラックアウトする仕様だ。
拓海は前を向いて、ゆっくり歩き出した。視界に入る街の景色は、驚くほど鮮明だった。
ただ、周囲を歩く人々もまた、前だけを見て、機械のように正確な足取りで通り過ぎていく。監視カメラを意識してか、誰一人として笑顔はなく、すれ違う人の顔すら見ない。
自分本位の歩きスマホは、確かに「間違った行為」である。しかし、これが本当に「正しい国家」の姿なのだろうか。拓海は一人、立ち止まって灰色の空を見上げた。
