双頭の性 第二十二場 チャーという血の泣き声。 脳を濡らすその音。

その死は、性同一性障害を持つ者として生きてきたこれまでの困難さに比べれば、あまりにも呆気なさすぎたかもしれない。過酷な人生を閉じるにふさわしく、もっと重々しく鉈がふるわれるべきだ、彼らはそう言いたかったかもしれない。
しかし、であったにしても、いざとなると生というものが、いかに情こわく死に抗うものか、私はそれを粘りつくハイスピード撮影の映像のように見てとった。
最初のジメンヒドリナートを飲んだときに感じた、あの透明感はまったくなかった。
三人のトランスジェンダーたちの生は、肉体から寒天状になって搾り出され、宙にもがいて逃げようとするその裾から、ずるずると死の唇に吸い尽くされたのだった。

ソニアは、切り裂きメリーの背後を通るとき、左手を添えて耳の下あたりに刺身包丁の先端を当てがうと全体重をかけた。二秒で突き刺し、二秒でえぐり抜き、五秒目にはもう隣のジョン子に同じことをし始めていた。頸動脈の切り方を学んでいたようなことを先ほど言っていたが、いちばん生命力のか細そうなソニアがその実行者になろうとは!
死を貪るソニアの動きには、何か獣に憑かれたように生々しい精気があった。
ふたりは致命傷を与えられた肉体から脱け出ようとでもいうのか、懸命に天に向かってあえいだ。このからだとは、わたし、関係ないのよっ。まるでそう言いたげに。
しかし、肉体は容赦なく血を吐き続けた。血がレンガ敷のテラスを打っているのか、あるいは血という生きものがそもそもそのような泣き声をたてるものなのか、私はチャーッという音を聴いた。脳が濡れていくような音を聴いた。
久木野は血の噴出を目の当たりにしながらも、ソニアがいったい何をしたのか、切り裂きメリーとジョン子が何をされたのか、わかっていなかったのではないだろうか。私だってそうだったから。
映像としては見えていても、その内容に自分がどういう関係を持つのか、瞬時にはついていけなかった。それほどにこれは非現実的な出来事に感じられた。
むかい側に座っていた白雪姫にとっても、それは同様だったのだろう。
いや、白雪姫の場合には、もっと複雑だったかもしれない。この場に起こったことを認識すると、自分の身にも同じことが起こってしまうので、いつまでもわかることを拒絶していた、と言った方が正しいのかもしれない。だから、逃げたいという衝動があるだろうに、もう一方では、滑稽なほどかたくなに椅子にしがみついていた。
久木野はようやく現実に着地した。いや、惑乱した現実に同化したと言うべきか。
「ウオーッ」
吼えた。自分が吼えたことなど、もちろん知らないだろう。人間のバランスを失って両手を振り回し、それでもなんとかテーブルを回ってソニアに突き進んだ。
久木野には、自分が何をしようとしているのか、わかっているようには見えなかった。指先がもう少しでソニアに触れそうになったそのとき、気配でソニアが包丁を持つ手を振り回した。久木野はのけぞり、転びそうになりながらも叫んだ。
「死んではいけないんだっ、死んではいけないっ」
よせ、包丁を捨てろ。ふつうは、そう叫ぶ場面だろう。が、そう言わなかった。久木野はソニアを止めようとしているかに見えて、じつはソニア、切り裂きメリー、ジョン子、白雪姫、それら四人の生に…いや死に…かもしれない、そこになぜか自分を繋ぎ、まるで共に震えているかのようだった。
しかし、そんな久木野をソニアはまったく見ていなかった。いちずに白雪姫の目を捉え、折り重なった。そのときになって、白雪姫はやっと自縛を振りきり、身を翻そうと腰を浮かせた。包丁を持つソニアの手が振られたのと、白雪姫の立つ勢いとが重なった。突如、白雪姫の喉から、ポンプが壊れたような血しぶきが飛び散った。白雪姫は麻々のまとっているシーツを鮮紅色に染めて崩れ落ち、痙攣する喉からブクブクと血を噴いた。
久木野が再びウワワウッと吼え、ソニアの背に椅子を投げつけた。椅子を受けたソニアは、それでも必死に包丁を自分の喉にあてた。
「オカアサン…」
残余の命がソニアの口から洩れた。そのわずかな空隙をついて、久木野がソニアの腰にむしゃぶりついた。ソニアはよろめき、体勢をたてなおそうとする反動で、ぬめる手から包丁を落とした。それを久木野が草むらに蹴り、ソニアとともに地面に倒れ込んだ。
ソニアは自分が何をしたのか、どうなったのか、理解していないのかもしれない。その目は焦点を結ばず、太陽の光が洩れてくる樹上に放たれたていたが、突如、奇妙にからだをくねらせると、久木野の下で声のない笑い声をたて始めた。
笑ったのではないと、多分ソニアは言うだろう。決して幸せに見える状況ではないのだから。しかしその顔は、邪気のない多幸感に満たされ、そう、おそらくは、その精神をすでに幼児期にまで退行させているのだった。

「なぜなんだ、なぜこうも…」久木野はぐしゃぐしゃに顔を崩し、ソニアから身を剥がした。「なぜみんな死んでしまうんだっ」
唇を歪めて、飲んだばかりの毒を、いや、ほんとうに胃の中のものをどっと吐いた。眼前の死に抗う、おのれを吐いた。
私は目の前の出来事を肯定する気持も否定もする気持もなく、ただ心を、身の奥に止めていた。
起こったばかりの死は、そんな私をじっと眼差していた。死の眼差しというものを私は刺すように感じていた。私はその眼差しに溶け入った。溶け入ると、それは外からやって来ているのではなく、私はじつは、私の内側から眼差されているのだとわかった。死は内側から私を刺していたのだった。麻々の死によって、私はすでに死を身の内に囲っていたのだった。
目を風に吹かせながら、私はゆっくりとテラスに戻った。
久木野は大急ぎで、しかしへっぴり腰で、三つの死体を覗いて回った。覗きながら、ズボンの後ろポケットを探った。次いでテーブルを見た。そういえば、ここに来たとき久木野は、後ろポケットから出した携帯電話をテーブルに置いたのだった。そうか。助けを呼びたいのだ。しかし、携帯電話は騒ぎでどこかに落ちたのだろう。テーブルには倒れたグラスと麻々の亡骸しかなかった。
「救急車を早くっ、もう駄目だろうが早くっ…それから警察をっ」
久木野は私に助けを求めた。しかし、私の首は私が応えようとする前にもう左右に振られ始めていた。さらにいえば、私はそうする自分とさえ、他人のように距離をとっていた。私が警察とか救急車の走り回る世間の一員であったのは、そう…きのうまでの、麻々が死ぬ前までのことだった。
私は久木野を意識の外縁に押しやり、ソニアのそばにしゃがみ込んだ。
「死にたいでしょうにね」
ソニアは私の目を捉えると、あえぐように言った。オネガイ…オネガイダカラ…。
「大館さんっ。殺人事件はもうたくさんですよっ」
「落ち着きなさいな。さっきから、どうしたのよ、大きな声ばかり」私は振り返りもせずそう言って、久木野の蹴った包丁が飛んだ草むらの方に歩き始めた。「これは殺人事件じゃありませんよ。いわば無理心中のようなものです。もうすぐ何もかもが終わりますよ」
「な、な、何を言ってるんですっ、終わるって…」
ソニアが不意に、寝ぼけた子のように身を起こした。もう、やめてくれっ。久木野が反射的に叫んだ。しかし、ソニアには久木野の声など聞こえていないのだろう、痩せた肩の間に首を落とし、ひとり遊びをする子供のように血溜まりをかきまぜ始めた。
「私は電話を…」久木野は家と私の間に忙しく視線を往復させた。「警察に電話をしなければ…」
「そうですね。どうぞ、行ってらっしゃいな」私は久木野に言った。「私はずっとここにいるわ。ほんとうよ」
久木野は意を決して家の中に駆け込んだ。私は草むらから血に濡れた刺身包丁を拾いあげ、親指と人差し指とで刃先をつまむと、ソニアの前まで歩いた。
「ここから先はあなたの人生よ」
血溜まりの中から重たい視線を持ち上げて、ソニアはその目に包丁を呑み、それから瞼をめくり上げて私の目を呑んだ。
二人の間の静寂が、少しずつ一方に傾いていった。
静寂が均衡を失って崩れ落ちそうになったそのとき、ソニアは目を凝固させ、跳びつくように包丁の柄をつかんだ。
私はゆっくりと背を向けた。空を見た。日の光が私の背すじを通りぬけ、私は一瞬、激しくからだを震わせた。
「オカアサン、マッテ…」
ソニアの、それが最期の言葉だった。
私の裸のふくらはぎに、研ぎあげた金属に似た感触が走り、足首へと流れ落ちた。
またしてもチャーッという血の泣き声。脳を濡らす、その音。
唇を噛みそうになり、我慢をし。目かたく閉じそうになり、我慢をし。私はソニアを侵蝕する死の中に直立した。