双頭の性 第二十三場 肉体の死を見おろす自分という存在。

<目次>
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「なんてことをっ。まさか…殺したんじゃないでしょうねっ」
駆け戻った久木野は、私の予想していたとおりの声をあげた。
「まさかね」
久木野はいちど頭を抱え込んだが、かろうじて自分の年齢を思い出し、背筋を立てた。しかし私の冷静な視線を受けると、怒ったように横を向いた。
「いいのよ、自分を責めなくたって。ソニアはあなたが電話をしに行こうと行くまいと、必ず死んだわ。すでに死んでましたからね。包丁を渡したのは私です」
「なんですって! あなたが包丁を?」久木野は私に投げられた言葉に搦められ、新たに身をよじった。「あなたが自殺に手を貸したんですかっ。あなたまでそんなっ」
私は真面目に応じた。
「久木野さん。ほんとは誰も死んじゃいませんよ」
「な、何を…ど、どういう意味です」
久木野は口を尖らせた。私は久木野に理解できるかどうかはわからなかったが、一筋の水をそそぐように話し始めた。
「あなたにとって、つまりふつうに生まれた人にとって、肉体の死はすべての終わりでしょうけど、私たちは違うの。私たちのような障害者にはね、これは、肉体という枷からの解放なのよ。やっと自由に生きていける、ずっと心を偽ってきたドレスをやっと脱ぐことができる、そういうことなのよ。生まれて初めて、心のままの人間になれる瞬間、それが肉体の死、肉体からの解放なのよ。わかるかしら」
久木野はぶすっと応えた。
「そのくらい…私にだって…なんとか想像はつきます。だけど…」
「そう。それはよかったわ」私は皮肉でなく言った。「私はね、さっき、あなたが現れる前のことだけど、死ぬための薬を飲みかかったの。そのときに、それが感じられたの。肉体が死んでも、私自身がなくなってしまうわけじゃない。それどころか、この肉体とは別に、何か生き続けていくもの…生き続けるというよりも、新しく生き始めると言った方がいいのかしら。そんな自分が生まれ出る…そう…私は、生まれて初めて私になる…その実感に貫かれたの。この肉体が死んでも、ほんとは死ぬなんてこと、ないんじゃないかしら…それが、感じでわかったの。死ぬことが少しも怖くなかったの、だから。私はやっと大館博からも薫からも解放されて自分になる…その瞬間、それが生まれて初めてわかった気がしたのよ」
私は迸り出た言霊に自ら震え、ドレスの衿をかき寄せた。

蝉の声もやんでいた。
まだ、パトカーや救急車の接近を知らせるサイレンは聞こえなかった。
久木野は敗戦の戦場に立つ、ただひとりの生き残りの兵士のようにうなだれていた。私は言った。
「あなたは誰?」
「…」
久木野が不意を打たれ、きょとんとした顔を上げた。私は久木野のおよそ刑事らしくない人格をしげしげと眺めて言った。
「いいわ、久木野さん。かわりに私が答えてあげる。あなたはアコの自殺を予知していて、それを止めなかった男。そうなんでしょう? あなたの言い方をすれば、あなたもある意味で、人の死に手を貸した男。さっきのあの取り乱し方は、それがあったからじゃないの。そうとしか思えないわ」
「そ、そんな…」久木野は反論しかかったが、途中から言葉を変えた。「登場人物はみんな死んだんだ。そんな話はもう意味がありません。するだけ無駄です」
「久木野さん。悪いけど、少しの間、私に話させてくれない。あなたは誰?」
久木野は上目づかいに私を見た。私はその久木野を目の中央でとらえた。
「事態はここまできたのよ。警察が来る前に、どうぞ、おっしゃってください」
久木野は深い呼吸をし、これから口にしようとしている言葉をいちど見下ろし、それから決心した。
「いいでしょう。言います。ヤッちゃん…電車に跳び込んだトミー、富岡靖は、私の兄です。富岡毅というのが私のほんとうの名前です。まったく似てない兄弟ですが、ヤッちゃんは年子の兄なんです」
「ああ…」
その瞬間、私を襲ったのは、驚きでも納得でもなく、話が落ちるべき所に落ちた、その脱力感だった。
「そうだったんですか、ああ。自殺した誰かとつながりがあるんじゃないか、そんな気がしないでもなかったけど。そうなの、トミーのね。そういえば、トミーの話のときの様子、ちょっと違ってましたものね」
「そう…ですか…」
「じゃあ、久木野刑事って誰?」
「…」
「誰?」
「すいませんでした。ヤッちゃんが死んだとき事情を訊きにやって来た刑事です」
「あなたの情報源はその刑事?」
「ゆうべの桜井さんの件についてはそうです。ヤッちゃんのことは、自殺ということになったあと、納得いかなくて自分で調べました。まず、勤めていた店で訊いたんです。そうしたら、まっ先に石原和彦の名前が出ました。ほかの自殺者のことも、もちろんですが。それで私は石原和彦に会いに行きました」
「アコは話をはぐらかしたでしょうね」
「ええ。そうです。けっきょく核心には触れさせてくれませんでした。で、警察なら石原和彦からトミー…ヤッちゃんにつながる話を聞き出せるのじゃないかと、久木野さんに頼みに行ったんです。が、その程度のことではまだ、そのう、警察は…。それと、久木野さんには石原和彦が死んだときにも、もういちど私なりの疑念を訴えに行ったんですが、結果は同じことでした。それで私は、警察が動いてくれるだけの情報を私なりに集めなければと思って、あなたに会いに行きました。あなたに会うとき、何かのときの連絡用にもらっていた久木野さんの名刺をつい使ったんです。もちろん使うべきでないのはわかっていますが、石原和彦も死んだ、残るはあなただけ。だから、できるだけ踏み込んだ質問をしたかったんです。アコのときのように、はぐらかされたくなかったんです。すみませんでした。でも、ちゃんと答えてくださって、ありがとうございました」
「およそ刑事らしくない態度でしたけどね」
「そうですか。うまくやってるつもりでしたが…。私はヤッちゃんの死後、何日もそのホームで、同じ時間帯に訊きまわったんです、幇助した者を誰か見てやしないかと。ほら、通勤客って、同じ時間に同じドアから乗るでしょう」
私は久木野…富岡毅の包み隠さないもの言いに導かれて、心の内にあることを告げることにした。
「私、思うんだけど、トミーの死にアコは…ほかの誰かかもしれませんけど…少なくともアコは無関係だったんじゃないかしら。だって、トミーはこの午餐に招待されていなかったんですよ。アコが教唆なり幇助をしていれば、ほかの四人と同様、招待客に入ってたんじゃないかしら」
富岡は私の言葉に目を見開き、大きく息を吸い込んだ。言われた意味を反芻したのだろう、顔をしかめた。ほんとうは呑み込みたくはない事実だろうが、やがていやいや身の内に取り込んだように見えた。下を向き、足元の石を無意識に蹴った。しばらくして、うなずいた。
「そのようですね。おっしゃるとおりだ」
「そして、もういちどくり返していいかしら、あなたは多分、アコと話をしていて、アコが自殺するつもりでいることも感じとっていた。そうなんじゃない?」
富岡が背中をかたくした。
「…いいえ」
「だけど、トミーを自殺に追いやったのはアコではないかと疑っていたので、自分自身をだまし、何も気がつかなかったことにした。でも、そうやってアコを死ぬにまかせたことが、ずっと心にひっかかっていた。だから、さっきは気がついたら、我を忘れて人が死ぬのを止めようとしていた」
「いいえっ」
「いいですよ、いいえで。もちろん、そういうことでかまいませんとも。あなたはアコに何か、一種の復讐のようなことをしたかったんでしょうからね」
「いっ、いっ、えっ」
「そんな声を出さないで。もうわかりましたから」
「じゃあ、無駄なおしゃべりはやめましょう。それより、あなたです。あなたですよっ」富岡はそれまでの話を強引に遮断するように向き直った。「私は、まだ生きているあなたに言いたい。あなたは死のうとしていたと言われましたが…」
「ええ。この人たちが現れる前。リーシの水、カルバドスを飲みながら。けっきょくアコの…違った、桜井さんの筋書きどおりに」
「死んではだめですよ、薫さん」
富岡毅は不意に断じた。別に大声を出したわけではないが、それは彼にしては珍しく、ねじ伏せるようなもの言いだった。
「死があなたにとってどういう意味を持つのか、それはさっき聞きました。それはそれでわかる気がしたのは確かです。でも、それでも、死んでは駄目ですよ!」
「どうしてそんなことが、あなたに言えるの」
「理由は…いや資格は、ありません、おそらく。だけど、私はあなたに死んでほしくない。あなたにまで死なれたら、私は、そのう…」
「この状況を…どう引き受けたら…いいのか?」
「違います。いや、いいんです。忘れてくださいっ」
富岡は自分自身を呑み込むように黙った。
(違います? どう違うというのだろうか)
しかし、それ以上詮索するだけの好奇心をいまは抱けなかった。
私は自分の空に視線を上げた。
死に向かって開かれている私の時間に意識を放した。
そこには、このまま生き続けるよりも、ずっと穏やかに過ごせる時間の厚み、その存在があるように感じられた。その襞に身を潜められたら、どんなに楽なことだろうか。私は答を求めず、つぶやいた。
「何なんでしょうね。みんなが生き続けなきゃいけない理由なんて」
そのとたん。
富岡が挑みかかるような視線を私に向けた。その目が、一瞬、ぶるっと震えた。
強ばった間ができた。
浅間山に続く太古からの森が静まりかえって、私たちを取り囲んでいた。
私は富岡の感情をやり過ごし、それからつぶやいた。
「救急車、パトカー。どうしたのかしら。遅いわね」
富岡は私の言葉に顔をそむけた。
私は富岡を離れ、テーブルの上に放置されたままの小花模様の小箱から、ジメンヒドリナートを出した。グラスにリーシの水を注いだ。オブラートに包まれた薬をひとつかみにして、すべてを口に入れた。グラスを手に取った。光に透かし、グラスに濾しとられた光を目の縁に宿した。
そうしていること自体に意識のいっていない、それは常用しているサプリメントでも飲もうとしている程度の淡々としたやり方だった。何かを決心するでもなく、何かのきっかけがあったというわけでもなく。
気負いもせず、急ぎもせず、躊躇もせず。
最初の一包みを口にしたときと同様、私の中から、これから始まる肉体の死を見下ろそうとしている、自分という存在が立ち昇った。
「ああ」
私から、吐息となって私が出た。
私は先ほど私を捉えた離脱感を探すように視線を空に泳がせた。
その瞬間だった、富岡が私に突進してきたのは。
ほんの2、3メートルの距離を100メートルのむこうから駆けて来るように富岡は突進してきた。
富岡は私の両肩をわしづかみにすると、首が肩からはずれそうなほど揺すった。私の手からはリーシの水が、唇からはジメンヒドリナートがこぼれ落ちた。
「死んではいけないと言ったでしょうっ」
私は富岡のあまりもの勢いに驚愕し、されるがままに骨を揺らせた。
「生き尽してこそ、死ぬことに意味があるんじゃありませんかっ。そうでしょうっ、あなた自身もさっきこの人たちに言ってたじゃないですかっ。わからないんですかっ。私はわかったんだ、さっき彼らを見ていて。それが、気が狂うほどにわかったんですよっ」
富岡毅は私の脳を突き抜けるほどに絶叫した。
私はこの人にこうまでさせる何をしたのか。
しかし、わからないながらも、富岡のそのあまりもの激しさに、私は、富岡が私を揺すりながら、じつは自分の人生でひきずってきた思いを揺すり落とそうとしているのではないか、そういう気が、そのときした。
揺すられているのは富岡毅自身なのだ、きっと。
富岡の泣き出しそうな目から、私はそれを直感した。