双頭の性 第二十場 刑事。あなたは誰?

<目次>
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「ごめんください」
その声は誰にも受けとられず、四人の間を漂った。
いちどは私も切り裂きメリーも、ジョン子も白雪姫も、その声の方に注意を向けた。が、まだそれ以上に、切り裂きメリーの誘ったアコの死のイメージは、重たい霧のようにテーブルの四人を覆っていた。
「おじゃましま…」
こんどは私のすぐ近くで声がした。私は顔を上げようとして、そのまま背中をこわばらせた。唇をひきしめた。もう誰であるのかわかっていた。私は声の方に背中をゆっくりと反転させた。
「久木野さん…」
「突然ですが、よろしいでしょうか」
久木野が一見気弱なセールスマンに見える例の態度で、しかし視線だけはすばやく麻々の亡骸に走らせながら午餐の席に登場した。
「私がここにいると、どうしてわかったの」
「さて、どうしてでしょうね。先だってはあなたを怒らせてしまって。あとで反省しました。誠に失礼しました」
久木野はきまじめに頭を下げた。
「あら。あなたの職業でそんなこと気にしてたら、仕事にならないんじゃない?」
「ええ、まあ。だから、そうなんです、私はあまり向いていないんです」
久木野の目は再びテーブルに横たえられた麻々を捉えた。それを無視して私は言った。
「なんの用だか知らないけど、私たち、とても取り込んでるの」
「そのようですね。しかし、そう言われてすごすご帰るほど無能というわけでもありません」
久木野はようやく麻々から視線を切ると、ソニアが座っていた席に腰をおろした。ズボンの後ろポケットから携帯電話を出し、テーブルに置いた。けばけばしく女装した三人のトランスジェンダーたちと目が合っても別に驚かず、目礼らしきものを三度した。
「どうして、ここがわかったの」私は同じ質問をくり返した。「それにこの異様な状況。ふつうはもっと驚くもんじゃないかしら。どうして?」
「まあ、そのことは、いずれ」
「あなたのその粘っこさ、あいかわらずね」
久木野はハンカチを出し、額の汗をふいた。雨上がりの湿気が森からたち昇っていた。それは軟体動物のような手ざわりをもって素肌に触れていた。私も自分が汗をかいていることに、そのとき初めて気がついた。
久木野はハンカチの汚れを眺めてから、それをおもむろに上着のポケットに戻した。ともすると麻々の亡骸に引きつけられそうになる視線を無理やり私の方に向けると、まんざら口先ではなく言った。
「あなたがまだ生きていてよかったですよ」
「どういう意味、それ」
「言葉どおりの意味です。本心です」
「そうじゃなく、私はそれを口にした背景を訊いてるの」
久木野はまたしても応えなかった。そして、すねた少年のような翳を宿している目をしばたかせた。
「どなた?」
白雪姫が久木野をはすに見ながら私に尋ねた。
「刑事さん。アコの自殺のとき、いろいろ訊かれたの。神奈川県警の人」
刑事と聞いて、神奈川県警と聞いて、三人の視線がいっせいに目の奥に引っ込み、久木野をあらためて遠巻きした。
「別にアコのことだけ訊いたというわけでもありませんが。みなさん、どうぞお楽になさってください」久木野は鷹揚にほほ笑んでみせた。「きょうは休暇です。公務で来たんじゃありませんから。だからこうして恐縮してるんです」
私は久木野に対してひっかかっている前からの疑念をついに口にした。
「いいですか。あなた、これまで警察手帳を見せてくれたこと、いちどもありませんでしたね。そうでしたね、久木野さん。私、そのことに気づいたんです、この前。あなたが帰ったあとで。名刺はくれたけど、名刺なんかどうにでもなりますからね」
久木野は私の言葉に棒のように背中を伸ばした。その視線が森の梢に向けられた。まるで、そこに心の内を隠そうとでもするように。私は追い討ちをかけた。
「見せてくれません? いま、みんなに、警察手帳を」
奥から軋み音が聞こえてきそうな間ができた。切り裂きメリーもジョン子も白雪姫も、久木野のあげる軋み音を耳にしたかのように身をのり出した。
こわばっていた久木野の視線が、やがて、崩れ落ちるように伏せられた。
(何かが明かされる…)
私はさらにたたみかけた。さあ、見せてごらんなさい。久木野は一瞬、目の隅から私を見たが首を左右した。
「公務で来たのではないと言ったでしょう。それが答ですよ。だから、きょうは持っていません」
(うそだ!)
こんどは私が首を振る番だった。私は久木野の横顔を見続けた。私にとって、もはや真実は明らかだった。
(では、誰なのだ、この男は。そして目的は?)
が、次の瞬間。
私は新たな思いに覆い尽くされた。
(意味がないんだ、でも…何も…何も意味がないんだ…)
それらの謎をこの場で明かしても、もはやまったく意味がないのだった。
そう。もし麻々が生きてここにいれば、私には、まだ世間と繋がっている自分があった。が、私はすでに人を死に至らしめた人間だった。久木野の正体を知ったとしても、その事実は動かない。私が五十六年間積み重ねてきた現実は、昨夜、造りかけの高速道路のように、空に向かって突然ぷっつり切れてしまったのだった。生き続けて、世間に委ねる私というものは、もう存在しないのだった。
そのとき白雪姫が口をはさんだ。
「刑事さん。ねえ、刑事さん。刑事のあなたが、なぜ真っ先に死体を調べようとしないのかしら。公務で来たんじゃないと言ったって、どうしてかしらあ?」
久木野はもぞもぞとからだを動かした。いかにも居心地が悪そうだった。口の中で、興味がないわけじゃないが、と言いながら、それでもつじつまを合わせるためか、腰を上げた。
「状況はおおよそ読めてますからね。いまさら…」
なんですって? まだ刑事役を続けている。私は聞こえよがしに、溜め息をついた。
「もう、お芝居はたくさん。よしなさいよ。この午餐でのことを予測できる何があったっていうの」
久木野は私の言葉が聞こえなかったかのように麻々に歩み寄り、指を頸動脈にあてた。痣を覗き込み、それから頭部の傷を確かめた。三人のトランスジェンダーたちも、久木野のやることすべてを見逃すまいと首を突き出していた。久木野は最後にシーツを持ち上げて中を覗いた。
久木野は首を振り、息を大きく吸い、そして大きく吐き出した。陰茎を切り取られた陰部は見えるはずがなかったが、まるでそれが見えたかのように顔をしかめた。が、次に口を開いてとき出て来た言葉はまったく違うものだった。
「死んだように眠るという言葉がありますが、この場合は、眠ったように死んでいる、そう言うべきでしょうね。まるで死者の寝息が聞こえるようだ」
久木野は私を見て微笑した。久木野のつくられた余裕に私はにわかにいらだった。
「何度も訊いたけど、あなた、どうしてここに? 状況が読めてたって、どういうこと?」
「すべては、ジュスパンのオーナー・シェフの手引きのようなもの、とでも言いましょうか」
「まさか。桜井さんの手引きのようなもの…ようなものだなんて、いったいどういうこと? 万々が一ですよ、あなたが刑事だとしても、あの人が警察の側につくとは考えられません」
「ほう。なぜでしょう」
「彼はとても変わった人です。生死についての考え方は一般の人のようじゃありません。警察と共有しあえる価値観なんて、持ってないんじゃないかしら」
「そう言われても、事実はそうなんだから仕方ないですね」
「きょう、ここで何が行われるかも、じゃあ知ってるのね」
「パーティ。いや、午餐というのかな。アコ、石原和彦の四人の仲間たち、そして養女の麻々が集まる。そういえば、一人足らないんじゃないんですか。四人のはずでしょう? どうしたんです?」
私は家の方に視線を送った。
「中よ」
久木野はガラス戸の中にしばらく目を凝らしていた。うなずいた。私は久木野の言葉につまずいた。
(アコの仲間たちですって?)
久木野が桜井からそれを聞いたということは、桜井はやはり、生前のアコから私の聞かされていなかったそんなストーリーまで知らされていたということだった。
(それにしても桜井さん、なぜそれをこの男に話したの)
私は新たに湧いた桜井に対する疑念を追いかけそうになった。しかし、優先すべき事柄があった。私は目の前に横たわる現実の方に引き返した。
「このテーブルの上の人間が、どういう本名なのか、わかってますよね」
「もちろん」
「麻々ではなく、私の聞かされていない男名前の本名があることを私はきのうの夜まで知りませんでしたよ」
久木野はしかし、私の言葉の中の皮肉めいたニュアンスを無視して、自分のしたかった質問をした。
「自殺ですか。それとも、頬の痣、頭の傷。傷害致死ということですか」
「事故です。でも、結果的には死にました。やっぱり殺人っていうのかしら。私が平手打ちをしたんです、昨夜。そしたら転んで頭をぶつけたんです」
「そうなんですか…その話を誰かが信じてくれるといいんですが…」
こんどは私が久木野の言葉を無視した。訊いた。
「本名はなんていうの」
「麻々の本名ですか」
「私のせいで死んだ人間の名前が何だったか、知っておきたいんです」
「つまり、オチンチンの根っこがどこにあるか、知りたいんですね」久木野は肩をすくめてみせた。案外さまになっていた。「たしか、シンタロウ。新しい太郎です」
「シンタロウ」私は復唱し、それから言った。「石原麻々は石原新太郎だったの…イシハラ、シンタロウですって? バッカみたい。訊くんじゃなかった」
「そういうもんですよ、世の中は」
「あなたに世の中を教えてもらおうとは思いません!」
白雪姫が露骨な笑い声をたてた。久木野はそれに気づかないふりをして言った。
「私は石原新太郎ではなく、大館博さんがすでに死んでるのではないか、それをとても心配してやって来たんです」
「どうして? 桜井さんがそんなことまで話したんですか」
「話した、とはかぎりませんよ」
「わからないわ。殺されると言ったんですか、それとも自殺と?」
久木野はいつもの上目づかいで、むかいの切り裂きメリー、ジョン子、そして自分と同じ側に座っている白雪姫を見まわした。それから私を見たが、何も答えなかった。計算ずくであることが明らかな沈黙だった。
切り裂きメリーが言った。
「桜井っていうそのシェフ、なんでぺらぺらとしゃべったのさあ。なんの得があったのさあ」
こんども久木野は黙っていた。ジョン子は不機嫌そうな口元をして、目をかたく閉じていた。白雪姫はつぶし島田に手をやり、久木野に対して半身の姿勢を保ち、事態を見守っていた。私は言った。
「そうだわ。あなたにごちゃごちゃ言うより、桜井さんに電話してみようかしら。彼があなたの正体と、それから、きょうここで起こることをなぜあなたに教えたのか、それも話すかもしれないわ」
「はあ。どうぞ。気がすむなら。でも、無駄だと思いますよ」
「なぜ、そんなことが言えるの」
「じゃあ、どうぞ、電話してみてください。ランチ・タイムもそろそろ終わる頃だ。石原新太郎が死んだ詳しい経緯は、そのあとで聞かせてもらいましょう」
ここで桜井に電話をしてどんな話が聞けたにしろ、自分のこれからにとってまったく意味がないとはわかっていた。が、そのためというより、むしろ、自分自身に対する間を少しとりたい気持があって、私は席を立ったのだった。

私が家の中に足を踏み入れると、火のない暖炉の横でソニアが両膝の間に頭を突っ込んで、背中を丸めて座っていた。私がそばを通っていることに気づいているのかいないのか、微動だにしなかった。
私は電話をした。桜井さんをお願いします、薫という者です。受話器のむこうで誰かが答えた。私は宙の一点にピン止めされたように動かなくなった。受話器を持つ手からしだいに力が抜け、やがてそうしていること自体を忘れ去った。
自分がどこにいて何をしていたのか、それを思い出したのは、何十秒もたったあとだった。
私はのろのろとテラスに戻った。席に戻ると、私の様子に白雪姫がまっ先に口を開いた。
「何を言われたの、桜井とかいうシェフに」
私は言葉の方にゆっくりと視線を上げ、重い首を左右に振った。
「いいえ、なんにも。彼はもうしゃべれなかった。自殺したんですって、ゆうべ」