双頭の性 第十九場 この世でいちばん長い悲鳴。

私は切り裂きメリーの目の中心を睨み続けていた。笑いはたれた頬の後ろに不意に吸いこまれた。が、私はその目をまだ睨んでいた。
切り裂きメリーのむき出しの両眼が、とうとう義眼のように動かなくなった。性の矛盾をはらんだ業界で生業を続けた者に特有の、自分のありように対する冷ややかさ以外、何ものも発していない目だった。
(森から現れたときにも、彼らはたしかこういう目をして私を見ていた…)
そう思った直後、その思いを突き飛ばすように、突然ひとつの直感が私を衝きあげた。
「あなたたちが殺したんじゃないのっ」私はテーブルに身をのり出して叫んだ。「先に死んだ切り裂きメリーは、ジョン子は、白雪姫は、ソニアは。そうなんでしょっ。アコもあなたたちが死に誘ったんでしょっ。あなたたちのその目。あなたたちが自殺を手伝ってきたんでしょっ」
私の言葉は四人の不意をついたはずだった。
しかし、四人とも硬質な目の壁を崩さず、蛇の舌を思わせる二つに割れた赤い視線の先端で、私との間合いを冷静にはかっていた。私は弾けて出そうになる感情の端に爪先だって、我知らず身震いをした。それを見て、切り裂きメリーが太い胴体のどこを鳴らしているのかわからない、間欠的な笑い声をたててみせた。われ知らず私は叫んだ。
「やめてよっ。悪人ぶるのはやめてよっ」
私の立っていた感情の淵がついに崩れ落ちた。私は切り裂きメリーにグラスを叩きつけた。グラスは胸の真ん中に当たり、切り裂きメリーの足元で砕けた。
「芝居がかった態度はやめてよっ。その衣裳は何よっ、馬鹿ばかしいっ。あなたたちも世間にはうんざりしてるでしょうに、世間の連中がやるような、こんな…こんな馬鹿げた…」
テーブルの縁をつかむ私の手が震え、グラスの中のリーシの水が揺れた。その揺れが完全に止まるのを見届けてから白雪姫が口を開いた。
「世間の連中がやるような、か。あなたって、言うことに尖った爪がついていて、ほんとに素敵よ。でも、そう言われちゃあ、世間並じゃないってことを教えてあげなくちゃね。嫌でもそういう気にさせられちゃうじゃないの。どうかしら、ねえ、みなさん」
白雪姫は切り裂きメリーに同意を求める視線を送った。切り裂きメリーは無精ひげを掻き、考え、それからうなずいた。
「そろそろ、そういう時間だね」
ジョン子もうなずいた。しかし、ソニアだけは目を伏せ、ひとり自分の中の闇をさまよっていた。白雪姫は顎を上げ、上空に視線を放して、朗読でもするように話し始めた。
「ある日、アコから来た手紙。それをわたしたちみんな、一言一句覚えてるわ。こう書いてあったの。双頭の性を抱いた人たちよ。激しく死のう。そうアコは呼びかけてたのよ。養い続けた憤りに互いの爪を立て合おう。そして、流れる血をすすり合い、いかれた人生に、この世でいちばん長い悲鳴をあげさせてやるのだ。どう、この気持、あなたのような人にわかるかしら?」
「第三の性を抱いた人たちよ。ひとり寂しく死んではいけない」ジョン子がしわがれ声であとをひきとった。「我らの人生に決して静かな死を与えてはいけない。壮絶な死で、人生が血を噴き上げ、泣き叫ぶのを嘲ってやるのだ。憎悪を抱いた人たちよ。人生をこの手で破壊し、その臓物を世間の顔面に叩きつけてやるのだ。そうアコは叫んだんだよ」
「あら、そう。そして、その煽動にあなたたちはのったってわけね」私はそっけなく言った。「あなたも、あなたも、あなたもね」
「冗談じゃないよっ。煽動されたなんて安っぽいこと言うんじゃないよっ。煽動されるほど軽々しい人生を送ってきたと思うのかいっ」
ジョン子が言葉で荒々しく私を突き飛ばした。白雪姫がジョン子の怒りを吸って続けた。
「それからというもの、わたしたちは問わず語りに死に方のノウハウを教え合った。首の吊り方、頸動脈の確実な断ち方、飛び降りるのにいい場所、凍死に最適な山…。どうせ死ぬのよ。それもさあ、あんたのようにご立派なバーの経営者様には想像もつかないでしょうけど、無能極まりないわたしたちはさあ、だんだん死に蝕まれていくような生き方じゃなくてさ、せめて人生にこっちから牙を突き立てたくもなるじゃない。煽動されるまでもなく、アコの気持はわたしたちひとりひとりの気持だったのよ。わかる? せっかくここまで頑張って生きて来たんですからね、自分の意思でそのことにふさわしい、劇的な最後を飾ってもいいんじゃない? 逃げてんじゃないよ、わたしたちは。わたしたち、最後まで頑張るのよっ。だから自ら死を選ぶのよっ」
白雪姫の目の光は激しく私を刺し貫いた。そこには日常から遊離した、ある種の狂気が宿っていた。
そう。
私も同じ病巣を抱えた虫食いの果実なのだから、そういう心情は自分のことのようにわかる。だが、いまでは共感などまったくできなかった。
なぜなら、私はからだの性別を心の性別に合わせる手術をやり遂げた人間だったから。つまり、持って生まれた生命を裏返しにしてしまった人間だったから。そういう恐怖と闘った過酷さは、やすやすと死んでは元がとれない、そういう気持に私を浸し込んでいたから。
…でも。
ああ、それもこれも麻々の死で、熱い砂に撒いた水のように消えてしまった。
不意に、図らずも空転してしまった人生が目に溢れそうになった。私は視線を硬くし、その感情を隠した。
ジョン子が嵩にかかって続けた。
「それで始まったんだよ。まず、ほんものの白雪姫、つまり小林道太。話ぐらいアコから聞いてるかもしれないけど。手首を切ったんだ。でも静脈しか切れなくて最初は失敗したらしい。ところが、その血をアコは、そんなことでくじけないようにって、瓶に詰めてとっておいて、白雪姫の気持が萎えそうになると、その血があることを思い出させて励ましたんだって。すっごいやり方だよね」
「…な、なんですって? 瓶詰め…血ですって?」
私の脳は、一瞬、真っ暗闇に閉ざされ、次の一瞬、真っ白な光に満たされた。その光の中に昨夜冷蔵庫で見たジャムの瓶、白雪姫とラベルに書かれた瓶が浮かび上がった。
それは小林道太の血だったのだ。
「へーえ、驚いたのかい、アコのやり方に。そう。わたしたちの決意を甘く見ちゃいけないってことがわかっただろう。逃げで自殺するやつに、こんなことができるかい、え?」
「えーと、じゃあ…」
布団の血痕も、と言いそうになって言葉を呑んだ。最初の自殺の試みは、ここで行われたということだった。
(そ…そのことを山荘の所有者の桜井さんは知ってるのかしら)
私は新しい疑念に足首をつかまれたが、午餐の背景がわかりつつあるいま、横道にそれることはできなかった。急いで言った。
「どうぞ続けてちょうだい」
こんどは白雪姫が話し始めた。
「とくにアコはいろいろ試したのよ。切り裂きメリーにジョン子にソニア。それぞれ死に方を変えて。アコは四人の死につき添ったあと…いい? わたしたちじゃなく、つき添ったのはアコだけですからね、お間違いなく。でも、そうやってつき添ってるうちに、とうとう限界がきたのね。ほんとうは自分の書いたシナリオどおり、クライマックスにみんなでテーブルを囲み、そのとき、少なくともわたしたちよりはあとにデザート・スプーンを置く予定だったんだけど、自分が先に逝くことになっちゃったの。あ、そうそう。みんなって、あなたも入ってんのよ」
「ほっといてちょうだい」私はテーブルの下で拳を握りしめた。「あなたたち、いったい誰なのよ」
「同じことを何度も訊くのね」白雪姫が言った。「わたしたちの本名なんか、いまさらどうだっていいでしょうに。ジョン子もどきに切り裂きメリーもどきに、ソニアもどき。それにわたしが白雪姫もどき。それで充分。ふふふ…。だけどさあ、それにしてもしょうがないわねえ、料理がなくちゃあ。午餐の最後でさあ、わたしたち、ほんとは何を食べる気だったのか、お利口さんにはもうわかったわよねえ」
「ふん」私はわざと鼻の先で笑った。「デザートの、いちじくと野いちごの謎的要素の謎って、それだったのね。集団自殺の暗示だったのね」
私は四人の老いた「もどき」たちをあらためて見渡した。四人はそれぞれのやり方でうっすらと冷笑を浮かべ、それが消え、冷笑は新たな沈黙に変わっていった。私は続けた。
「あなたたちは自分だけ死に後れるのが怖いから、先を争ってクスリ入りソースのデザートを食べるんでしょう。それが集団自殺者の心理よね。そして私には…そう…死んだ方がましなくらいの現実が降りかかってくる。私もとうとう最後に口にすべきものを口にする。その様子を麻々に巣食っているアコがじっと見ている。まるで自分が引導を渡したかのように。どう? 当たりでしょ」
チッ。切り裂きメリーが舌打ちをして横を向いた。
「よくもまあ、言いたい放題、ずけずけと言ってくれたわね。みんなにかわってお礼申しあげますわ」白雪姫が内心をごまかしながら言った。「でも、ほんとにあなたってお利口ね。頭がクルクル回るのね。それで、もしかしたら、さっさと料理を捨てちゃったのね」
「捨てたのは、この芝居がかったストーリーが読める前のことよ。桜井さんを使ってアコが打たせた電報のせいよ。その電報が来なければ麻々と言い争うこともなかった。電報の内容がきっかけで、麻々は結果的に死んだのよ。そうでなきゃ、あなたたちの筋書きどおりに運んでたかもしれないのよ。残念ね」
「ちょ…ちょっと待ってよ。何よ、その電報って、サ、ク、ラ、イって誰のことなのさあ」切り裂きメリーが私の話の行く手をさえぎった。「電報って、何言ってんのさあ」
「あら。電報のこと、知らないの。ほんとに? アコが私を告発してる電報。男か女か、その二分法に屈した卑怯者、臆病者のせいで、自分たちまで手術をすべき異常者の列に加えられたっていう電報…ほんとに知らないの」
「知ってた?」切り裂きメリーはジョン子を見た。ジョン子は首を振った。白雪姫を見て言った。「知ってた?」
「もちろん知らないわ。何の目的で、そんな…お利口さんにはわかってるの」
「ほんとに知らないのね。ほんとに?」
「知らないって言ってるだろうがっ」切り裂きメリーが男言葉で怒鳴った。
「あなたたちがその電報のことを知らないのがほんとうなら…」私は鬱屈したアコの心理に、あらためて唇を歪めながら言葉を続けた。「そう、それは、そこまでしなければいけないほど、私の、つまり性別適合手術を受けた者の生き方をアコは…」
それ以上は言う気がしなかった。私は、しだいに明らかになっていく寒々とした現実に冷えた視線を落とし、そして深い息をついた。
「思い出したわよっ」突然、そのとき白雪姫が叫んだ。「サ、ク、ラ、イ。そう、桜井。アコのひところの恋人の名前よ。聞いたことがある。たしかシェフ…そう、フランス料理のシェフ。そんな話をしてたもん」
「ひところの恋人ですってっ?」私は驚愕した。「あのアコが桜井さんと?」
私は哲学する料理人の死生観がどこから湧き出たものであったのか、その瞬間、直感的に理解できた気持がした。私は、桜井一夫という人物が私に投げかけた印象を振り返ろうと記憶を遡り始めた。しかし、それを遮断するようにソニアが言った。
「もういいわ。桜井だとか、電報だとか、恋人だとか、みんなみんな、もうたくさんよ。終わった話をしても、どうにもなりはしないわ。もう料理もデザートもないんだから」
ソニアはそれだけ早口に言うと、その目を覆い隠し、再びその陰に引っ込んだ。ジョン子が切り裂きメリーに言った。
「きょうのところは、腹立たしいけど中止にするしかないね」
私は意地悪に聞こえることを承知で言った。
「それがいいわ。あなたたち、もっと崖っぷちにまで追い詰められてからにした方がいいんじゃない?」
「な、なんだってえ。もういちど言ってごらんよっ」切り裂きメリーがどす黒い声で応じた。「崖っぷちなら子供の頃から歩いてるんだっ。わかんねえのかい。よっくもそんなこと言ってくれたねっ」
「もういい。こんなときに喧嘩なんか始めないでえぇ」ソニアが悲鳴をあげた。「みんな、アコの死ぬ前のあの震えを見たでしょ。覚えてるでしょ、みんな。せめてアコの弔いだけでもここでするのよ」
「待って。どういうことなの、それ」私は言った。「死ぬ前の震えですって? じゃあ、アコにはあなたたちが引導を渡したの」
「ひとりだったわよ、死ぬときには。わたしがいま言ったのは前日の夜の話よ」
「じゃあ前日の夜、何をしたの。あの家にあなたたち、何しに行ったの」
ソニアは私の言葉に幼児のようにいやいやをして下を向いた。
切り裂きメリーは大きく息を吸い込み、出かかった言葉を引っ込め、それから太った胴体からせり上がる感情をなだめた。気持が静まると、私をその目に捉え直して、一語一語、舐め上げるように話し始めた。
「わたしたちはさあ、教えたげましょうか、死者の柩に花を供えるように、順々にアコに灯油をかけたのよ。灯油の容器をアコの頭上で傾けたときにはさあ、まるでこの世の天井をひっくり返すような気がしてさあ。わたしにも、これからアコが味わう死の瞬間がはっきりと感じとれたわ。アコが、先に死んだ四人から吸いとってたものは、これだったんだってわかったわ。これを吸い続けると死に慣れる、それがはっきりとわかったわ。アコは、何か生きものが、死の際になってからだを突き破ろうとでもしているみたいに、両手で腹を押さえてぶるぶる震え続けてた。アコは翌日の朝、火を放つまで、灯油を全身に浴びたまま、きっとその震えと闘ってたんだよ。死が這い上がるようにからだを冒していく、その感覚と闘ってたんだよ」
切り裂きメリーはそこで、話が私に浸透していくための間をとった。私は半眼にした目を遠い宙の一点にすえていた。その私を凝視して、切り裂きメリーはいちだんと声を細めて続けた。
「アコは、焼身自殺をするもんだとばかり思ってたら、よく生ガスの栓まで開く勇気があったわね。さすがにアコだよ。アコは、部屋中に充満した生ガスを吸い込みながらライターを握りしめ、いったいどこに火をつけたんだと思う? 腕を思いきり伸ばして、自分からいちばん遠いとこにつけたのかしら。違うね。きっとアコは自分のこの両眼を見開いて、その真ん前で火をつけたのよ。自分の爆発をその目で凝視するために。ばらばらに砕け散る自分の性をその目で見るために。人生に、ザマアミロと、その血まみれの唇で最後に言い放つために!」
切り裂きメリーは私をわしづかみにするような目で睨みつけていた。
アコの死は、現実には爆死というイメージにはほど遠かったが、それでもその場の全員の目の裏では切り裂きメリーの言葉が立体化し、なかなか去ろうとしなかった。
しばらくは誰もが動かなかった。
ソニアがやがて空気が揺れるのを恐れてでもいるかのようにひっそりと席を立ち、弱々しく首を振ると、家の中の陰の部分の方へと歩き始めた。猫背のその後ろ姿からは、重たい黒い水がたれていた。やがて私は静かに言った。
「帰ってくれない、あなたたち。もう充分に話したでしょ? 出て来たときと同じようにあの森へ…帰ってくれない」
それから私は、ジメンヒドリナートの入った小箱を引き寄せると、三人に背中を向けた。