双頭の性 第十七場 ただひとりの聖餐式。

重なりあう梢の孕んでいた朝の光が、ひと吹きの風とともに草の上に降りた。
打ち水をするように、さらりと光の粒が散った。
朝が開くと、森は晴れていた。
信濃追分を包んでいた霧雨は通り過ぎ、早くも真夏のきらめきの見え隠れする六月の空が森をおおっていた。私は光のあとをさかのぼって樹間を見上げた。緑の奥に緑が重なり、その奥にさらにまた梢の緑が白い葉裏を見せて光っていた。
(死ぬには眩しすぎるほどの日になったわ)
私はカーテンと雨戸をゆっくりとあけてまわり、家の中に外の明るさの半分ほどの光を導き入れた。
昨夜、料理はすべて捨ててしまったけれど、私はやはり午餐を実行することにしていた。ただし、形を変えて。内容も変えてではあるけれど。
アコは自ら考えたレシピにそって、四人のトランスジェンダーを死に誘ったと桜井は言った。しかし、そのレシピどおりの料理をつくって食べること以上に、麻々の亡骸を横たえるということは、午餐のテーブルにふさわしいのではないかと私は考えた。
どうやらアコは、他の生きものの幼虫に卵を産みつけ、その幼虫を食い尽くして成長するある種の昆虫、それと同じようなことを養子に迎えた麻々にしていたらしいのだった。
アコは自分の考えを幼いうちから麻々に産みつけた。そして、しだいに麻々を食い尽くしながら育っていくアコ自身の憤りと反抗を白々と眺めおろしていたのだった。だから、この麻々とは、まさしくアコそのものなのであり、この亡骸こそアコの化身にほかならないのではないか。
私はそう考えたのだった。

私は、押し入れから新しいシーツを探してきて、麻々のからだをくるんだ。あらためて見る麻々の死に顔には苦悶の表情がなかった。しいて言えば、あっけにとられているといった顔つきだった。
「あなた、死んでよかったのよ」私はそう言って麻々の閉じた目を見つめた。「この年まで生きてきてみても、アコをごらんなさい。それに私を」
午餐にとりかかるべき時間になっていた。
髪をかきあげ、ビニール・コーティングの真っ赤なドレスを直した。洗面所へ行き、女という性を強調するための偽りの表皮をしばらく睨みつけていた。それからクレンジング・クリームを塗りたくり、激しく洗顔を始めた。
それが終わると、テラスへの大きなガラス戸をあけ、片方ずつずらしながら、苦労してテーブルを出した。椅子を三脚ずつ、向かい合わせに並べた。次に麻々を移動した。硬直した肉体はひきずるしかなかった。数分後に、どうにかテーブルの上に横たえることができた。
呼吸が静まるのを待ってから、用意してあったテーブル・フラワーを飾った。ブランディ・グラスを六人の席それぞれに並べた。午餐の準備は整った。私はハンドバッグと、桜井から手渡されたカルバドス、アコの言うリーシの水を持ってテラスに戻った。自分以外の五つの席を順番に眺めた。が、その視線は、まるで何百メートルも先の景色でも眺めているかのようだった。私は言った。
「ジョン子こと岡野徹。金ラメの服を着て、月の夜、太平洋に小船を漕ぎ出して水死したという。液状化した黄金の生殖細胞。それがあなたの料理だったわね。おかけなさい」
私は椅子を引き、ジョン子を座らせると、次の席の後ろに立った。
「ソニアこと尾竹国雄。メアリー・ポピンズのように40メートルの屋上から傘をさして飛んだ…」
このようにして私は死者たちを着席させていった。
冬山に登って、雪女に抱かれて死んだ切り裂きメリーこと大木政史。首の動脈を切った白雪姫こと小林道太。最後に、アコ、石原和彦、焼身自殺。
私は五つのグラスに少しずつリーシの水を注ぎ、最後に自分のにもたっぷりと注いだ。日の光をふりあおいだ。満たされることのなかった人生。その積怨を削ぎとって、
「いまは亡き双頭の性たちに」
私は静かにグラスを挙げた。
むしろ私の聖餐式とも言うべき午餐。
風が渡り、麻々の上にも、一瞬光が舞い降りた。
私はリーシの水が心に沁みこむ過程を一滴ずつ味わいながら宙に目を放した。ギリシャ神話のように、この水でいっさいの過去を忘れ去ることができたら、どんなによかっただろうと思いながら。
光が瞼に重かった。
ほどなく閉じようとしている時の中に、六十年近く命を継続してきたことの気だるさが、浮かび、消え、浮かび。
とても広い静寂だった。
太陽に向かって立つ大樹の梢の小さな隙間からは、針の穴を通すように光が漏れていた。目を細めると、そこには七色の光がもつれあい、私の心にガラス細工を想わせる音を聴かせた。
怖いという気持はなかった。それどころか、いよいよこの肉体を終える、その事態を見おろして、ほっとひと息ついている自分がもうひとりいるような、そういう一種の、肉体からの離脱感のようなものに私は捉えられていた。
そう、私は生まれて初めて心のままの私になれるのだった。
矛盾のない私に一直線になれるのだった。
風の鳴らす葉音、ひとつ。
その葉音から透ける光。
そしてまた、光の奥から、寿命を震わせているような遠い蝉の声。
私はハンドバッグを探り、小箱を出した。テーブルの上に置いた。それはこの数年、どこへ行くときにも持ち歩いてきた、お守りのような小箱だった。
「ジメンヒドリナート」私は何も見ていない目で麻々に話しかけた。「アコが教えてくれた私用の自殺手段。そこに隠された意図があったことは知らなかったけど、でも私としては、これを持ってるだけで気が休まったの。いよいよというとき、これさえ飲めば、中枢神経に作用していっさいを忘れさせてくれる。これがあると思うだけで、苦しいこともやり過ごせたのよ」
私には沈んだものも昂ぶったものもなかった。
小箱をあけた。その中にはすでに粉末に砕かれた錠剤が、致死量を充分に超えるだけ入っていた。飲みやすい量に小分けし、オブラートに包んであった。
そのひとつを私はつまみ上げた。グラスに目をやり、リーシの水を注ぎたした。顔を上げた。顔を上げたその先には、緑の間に小さな空があいていた。見ると、昼の月がかかっていた。
私は、人差し指をその中心に向けてゆるゆると伸ばした。死のうとしているにもかかわらず、自分が死ぬのだ、という気持はなかった。死を前にして、むしろただ一心に、よりよく生き続けたいという、その思いに突き上げられていることに私は気がついた。
肉体の死はすでに受け容れているのだが、この肉体とは異なった精神というべきか、思考というべきなのか、あるいはそれを魂というのだろうか。性同一性障害の肉体に宿って、五十六年間もがいてきた心性の、これは新たな始まりとなる、解放となる、私はさらに生きていく…。
その思いが突然、光芒となって一閃し、私を内側から発光させた。
私は、煌めきとともに、最初のジメンヒドリナートを飲みほした。