双頭の性 第十三場 死者からの電報。

<目次>
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蕎麦屋に行ったはずの麻々は六時になっても帰って来なかった。それは私にとってはありがたいことだった。私は料理に没頭することで、再び自分の時間のテンポを取り戻すことができた。
六月だというのに火が恋しいほどの冷え込みになっていた。
私は最初に家のまわりを一周したとき、縁の下に枯れ枝が集められているのを思い出した。暖炉を焚こうと思った。薪は暖炉の横に五把ほど積んであった。焚きつけ用に小枝をとりに出た。縁の下を覗き、両手にあまるほどの細い枯れ枝を集めた。
親切にも、燃やす手順を説明した紙が薪の上に置いてあった。そのとおりにやった。火は太い薪にうまく燃えうつった。燃えさかる炎は、飢え、渇き、貪欲に木の肌を舐めまわした。
ただ。
その炎からの連想は、すぐさま焼死したアコへと飛んだ。決して連想したくはない光景だった。が、炎は情け容赦なく私の暗い脳を這いまわった。アコはそのとき、迫り来る炎を直視したのか。焼ける自分の肌をその目で見たのか。そして何を叫び残したのか。
私には、なぜアコがそのように壮絶な死を選んだのか、よくわからなかった。
(アコの狂暴性…自分自身に対しても?)
私は首を振り、目を閉じた。

いつの間にか眠り込んでいたらしい。
「こんばんは。誰かいませんかあ。大館さんはこちらですかあ」
中年の男の声に起こされた。私はジーンズのポケットに入れていた腕時計を出し、なんとか文字盤に目の焦点を結んで針の位置を確認した。八時半だった。寒かった。暖炉の火が燃え尽きていた。部屋の中を見まわした。麻々はまだ帰っていないらしい。
「すいません。うつらうつらしていたもので」
私は玄関に出た。
「電報です」
「電報? こんなIT時代に電報だなんて…私に?」
「大館博さんですか」
「そうですけど。誰から…どうしてここに?」
配達の男は口ごもり、背中を向け、闇の中に去った。それは3ページにもわたる長い電文だった。私は玄関の明かりの下で急いで差出人の名前を読んだ。
石原和彦。
(アコは死んだはずでしょっ。それとも焼け死んだのは別人?)
驚くことの多い日だった。
最初に血痕の飛んだ布団。次に麻々。そしていま死者からの電報。
私は逸る気持を抑えて、暖炉の火をおこし直した。電文の異常な長さがそこに潜む異様さを早くも伝えていた。決して寒いままでは読みたくない電報だった。私は炎が燃え立ち、勢いを増すのを見て、ようやく石原和彦、アコからの電報を手にとった。

「大館博は肉体の性を換え、戸籍を変え、わたしたち性同一性障害と言われる者を異常者の列に加えた。もういちど言う。大館博はこのわたしたちを辱めた。
わたしたちは性を換えるべき異常者なのではない。ほんとうは障害者でもない。戸籍の性別を変えられる法律なんてお笑いぐさだ。わたしたちは本来、このままでひとつの正常なのである。ただ少数者というだけである。男と女。そんな二分法に入らない性の存在。第三の性。
わかるか、大館博。
男と女が心と身体でクロスしていると、なぜ異常なのだ。だいいち、どの女も男も、反対の性情を何かしら持っているではないか。わたしたちだけが、クロスしているのではないのだ。それを思い出せ。
大館博は愚かにも肉体の性を換えた。おまえはそれによりいったい何を得たのか。夕ご飯のしたくをして夫の帰りを待つ、最もありふれた女にさえなれなかったではないか。いまはただ老いて、そしてけっきょく男でも女でもない、ゲテモノになっただけではないか。そんなこと、手術をする前にわからなかったのか。え? 大館博。
いまからでもいい、わたしたちと同じ河を渡るんだ。薄い氷の張ったこの河の上を。そして、足の下で自分の偽りの性に亀裂が走る、その音をよく聴くのだ。
大館博に屍衣を。石原和彦」

読み終わってもしばらく私は荒涼と目元を細め、電報を眺めおろしていた。
それは、アコがまったく別人になったかのような電文だった。アコはどうやら、私に対するのとは異なる精神生活を別に送っていたらしい、そのことはシェフの桜井の話からわかりかけていたが、この電報はそれに追いうちをかける以上のものだった。いや、それどころか、振り返りざまに丸太ん棒で横殴りにされてしまったほどの衝撃だった。即座にはどう反応していいのかさえわからなかった。
私は衝撃を理性が冷やしてくれるのを待った。何分も待った。
指の間から、やがて三枚の電報が床に落ちた。私は視線を宙の一点に据えたまま、落ちた電報を踏みつけて立ち上がった。
私がまずやったのは、黙って二重のカーテンを閉めてまわることだった。黙ってシャワーを浴び、いちばん最初に私の肉体が女性をかたどった胸を、いちばん最後に女性をかたどった膣をゆっくりと洗った。心の中でも、誰にも何も語りかけていなかった。前にも後ろにも時間を進めなかった。霧のような雨が脳の襞にたちこめていた。
シャワーから出ると、まっすぐに鏡の中の自分を見つめ、衿元がV字にくれた小花模様の絹のブラウスを着て、その上に持って来た真っ赤なビニール・コーティングのツーピースを着た。衿は、鬼ヒトデのように鋭く、首のまわりで立っていた。十二個あるゴールドのボタンをすべてとめた。目のまわりにブルーのシャドーを入れた。小皺をていねいに隠した。しみを隠した。真っ赤な口紅をひき、ひき終わると何かを、きっとこの生のある世を威嚇するかのように歯をむいて息を吐いた。
下着はいっさいつけなかった。それはおそろいのパジャマ、おそろいのティーカップを買って、共に年をとっていく相手を探し求めていた頃のやり方だった。ミニのスカートの下からは素肌の腿がのぞき、それが下着をつけていない胴体へと這い上がっていた。
私は暖炉の前でからだの端にとりついた二十の爪に真っ赤なビニール・コーティングと同じ色を浴びせかけた。乾くのを待って、左手の小指と薬指にゴールドの指輪をした。何連にもなったゴールドのネックレスとゴールドの腕輪をつけ、鏡の中でわざわざ光を反射させ、そしてその音を挑発的に鳴らした。表情を動かさず、あいかわらずアコに対しても自分自身に対しても無言を保っていた。最後に、歯周病の歯ぐきに舌の先で触わり、口臭を消すスプレーを吹きつけた。
いまこの服を着、この化粧をする気に突然なろうとは、自分でもまったく予期していなかった。これは、あす、森を臨むテラスで、死んだ五人と食事をするときのためのコスチュームであり、化粧だった。
が、電報の中から現れたアコこそ石原和彦の正体だったことがわかると、私は自分が最も攻撃的に見える姿になって、アコの前に、その言葉の前に、他の五人のトランスジェンダーの前に、そしてその後ろにいる世間の前に立ちはだかりたくなったのだった。
立ちはだかって、どうしようというのか。
それを考えてやり始めたことではなかった。ただ私は、自分が自分であった時代、つまり心の性別と肉体の性別を合致させることができたと信じられた時代の自分を打ちたて、この時間の中央に仁王立ちしたくなったのだった。
チャイムが鳴った。
玄関の鍵を閉めていたことを思い出した。
「どなた?」
私はドアの内側で言った。鋼鉄の板のような声になった。
返事は麻々だった。私はドアをあけた。麻々がたじろいだ。麻々は酔った足元を踏み直し、目の焦点をすえるのに時間がかかった。ようやく感情の一部を言葉にした。
「いきなり頬っぺたをひっぱたかれたみたいな気分じゃないのさぁ。何よぉ、それぇ」
私はさっさと背中を向けた。
「どうしたのさぁ。こんな夜中にぃ、こんな山の奥でぇ。いったい誰に見せるつもりぃ? 料理はすんだのぉ。あしたでしょ、セレモニーはぁ。それとも、今夜に繰り上げたのぉ」
麻々の声は上ずり、アルコールで語尾が間のびしていた。
「静かになさい。私にごちゃごちゃ言わないで」
「いったい、どうしたのよぅ。急に怖くなっちゃってさぁ。年寄りってのは、だからヤだよ。アコといい、あなたといい、年とると感情をコントロールするネジがすっ飛んじゃうんだからぁ。急に気分が変わっちゃうんだからさあぁ」
 私は麻々を無視し、立ったままグリッシーニをかじり始めた。それは、ピッツァの生地の中にドライトマトを入れて焼いたパンだった。ヴィンテージもののポート・ワインをあけた。グラスを片手に、グリッシーニをもう片手に、ビニール・コーティングした真っ赤な光に暖炉の炎を交錯させながら、宙を睨んで私は歩きまわった。
麻々は暖炉が焚かれていることに気づき、興味をひかれて薪を何本か投げ入れた。麻々は床に散らばったの電報にも気がついた。そのまま行き過ぎそうになったが、ふと足を止め、揺れる上体をかがめて手に取った。そして誰から誰へのものか、特別な他意はなさそうに確認した。
「え? 何よ、これぇ。石原和彦…何よ、なんの冗談? あ、そっかぁ、昔の手紙…も、もしかしてこれ、でん、電報?」
私はあいかわらず麻々を無視してグラスをあけていた。フェレイラ・ヴィンテージ77の素朴なラベルをじっと眺め、それをグラスに満たした。グリッシーニを音をさせて食べた。乾いた、角のある音が響いた。同じような声で私は言った。
「読んでいいのよ。さっきアコから来た電報よ。死んだあとにね」
「さ…さっきぃ…?」
そして、死んだあとに、という言葉にひっかかって、麻々は電報に目を落とした。怪しげに文字を眺め、それから暖炉の前に座った。私は服と同じ色の爪を目の前にかざし、自分に挑みかかる武器と対峙するかのようにそれを睨みつけた。
薪が燃え、崩れる音。
森をつつむ闇の、無音という音。
手の中で電報を何度も持ちなおす麻々の感情、その音。
グリッシーニを噛み砕く大館博の感情、その音。
それだけの数分間。
麻々はようやく読み終わると、暖炉の前にあお向けになり、頭の後ろで両手を組んだ。天井の一点を見て麻々が言った。
「で、わたしにどう言ってほしいわけぇ? 性別がこんぐらがってると、ほんとにたいへんなのねって、同情してほしいわけぇ?」
「それは誰が私に寄越したものなの」
麻々を見ないで私は言った。私は部屋の真ん中でグリッシーニとグラスを持って仁王立ちになっていた。麻々はいらいらと顔の半分を歪め、いつものすえた匂いのする細く長い目で私を捉えた。
「知るもんですかぁ。アコから来たんでしょぉ。それでいいじゃなぁい。すてきじゃないのさぁ。死んだ人が電報打っちゃいけないのぉ」
「アコが死ぬ前に書いた電文を誰かに打たせたのね」
「知らないって言ったでしょ、知らないったらぁっ」
「私がここにいることを知ってるのは、あなたとシェフの桜井さんだけよ。あなたが関係してないなら桜井さんね」
「サクライって誰よぉ。知らないったら知らないんだからぁっ」
「わかったわ。もういい」
私はその時点で麻々を切り捨て、私物を置いてある和室から手帳を持ってくると、電話のところに一直線に歩き、ボタンを押した。相手が出ると、桜井さんを急ぎの用で、とひとことだけ言った。桜井が出ると私は言った。
「アコの電報、あなたが打ったのね。いったい私をどうしたいの」
桜井が答え始めた。この話には長い前説が必要なんだと。私はしかし桜井の言葉を途中でさえぎった。
「言い訳はあなたらしくないわ」
私は激しく受話器を置いた。