双頭の性 第十二場 世間なんて唾を吐いてやればいい。

硬質のガラスをこすり合わせるような麻々の笑い声が風呂場のタイルに反響した。
「こうやって、アコもわたしをせせら笑ったのよ」
そう言うと麻々は、またいちだんと高い笑い声で私を打った。私は忘れていた息をし始めた。麻々は十個以上ボタンのある黒いベストを素肌にじかに着て、身体にぴっちりとついた黒いパンツ、白に近く脱色した髪をその中に全部しまっている銀色のキャップをまぶかにかぶって私を見おろしていた。化粧っけがまったくなく、いつものすえた匂いのしそうな細長い目の下端で私の全身を眺めた。きょうも眉は描いていなかった。私はその視線をはねのけるように立ち上がった。
「なんのつもりっ。いつ入ったの、どこから入ったのっ」
「ふざけたつもり。十五分前に。玄関から」
「玄関から? 足音もたてず、まるでドロボウ猫みたいに?」
「玄関の鍵、かけてなかったんじゃない? 足音もたてた。だけど、誰かさんは料理に夢中で、なんて言うの、ミキサー? 違う? とにかく、ガーガー何か使ってて。で、急にアコのまねをして、意地悪したくなっただけ」
麻々はそう言い終わると、いちどは引っ込めていた笑い声をまた私に見せつけるかのように吐き出した。
「きょうじゃなかったでしょう、来るのは。あしたのはずでしょう」
「そんなこと言ったっけ。来るんなら前日に来てくれって言われたとき、包丁なんか持ったことないって言っただけだったと思うけど」
私は麻々との電話でのやりとりを思い出そうとし、途中でやめた。
「アコがこんなことをあなたにしたっていうの。なぜ。馬鹿げてるわ」
「アコのはもっと変わったやり方だった。夜中に明かりを消したはずのお風呂場で、何か光が動いてるから行ってみたら、湯船の中で首から上だけ出したアコが、幽霊みたいに下から懐中電灯の光をあてて化け物みたいに沈んでた。そんで、ニタッと笑いかけたんだ。暗いお風呂場で、わざわざ」
私は話の奇妙さに麻々の言葉のすべてを呑み込みがたく、首を左右に振った。
「なんのために? バカバカしい!」
「たしかに馬鹿げてるだろうね。でも、怒ったわたしをアコは、甲高い大声で笑い続けた。でも、その気持がいま初めてわかった気がするな。世間なんて、こうやって唾吐いてやればよかったんだね!」
また硬質ガラスをこすり合わせるような笑い声。
私は収める場所のわからない憤懣をかかえて麻々を睨みつけ、それから玄関に行き、鍵を閉めた。麻々はベストの上からボタンの全部とれた白い長袖のシャツを羽織り、メッシュのリュックをひきずってリビング・ルームに入ってきた。
「何か飲むものちょうだい。笑いすぎちゃった」
私は黙って冷蔵庫の方を顎で示すのが精一杯だった。麻々はたいぎげに歩いて冷蔵庫をあけた。私はカウンターの前の椅子に腰を落とし、麻々にまともな視線を向ける気もなくつぶやいた。
「さっき、世間なんて唾吐いてやればいいって言ったわね。アコがそう言ったっていうの。それとも、それはあなたがさっき思ったことなの」
「アコがよく言ってた言葉だよ。いい教育をしてくれたでしょう」
「そう…だとしても、なぜ、かわいがってたあなたに対してまで」
「何言ってんのよ!」麻々は手にしているソフトドリンクの缶を中身が入っていることも忘れて振りまわした。「アコがわたしをかわいがったのは、わたしがただの子猫だった頃のこと。あの家を出てから気がついたんだけど、わたしがおとなっぽくなればなるほど、アコはわたしから遠去かっていった。ちょうどおとなになった猫がうとんじられるようにね。同じ部屋にいても、いつも何メートルも先からわたしを見てる感じになった。そんなアコがやったんだよ、風呂場で!」
「わかったわ。となると、答はひとつ。教えてあげましょうか、アコがそうした理由を。それはね、アコの、あなたたち女性に対する一種の嫌味かもしれないわね」
「嫌味?」
「そう。この醜悪な私の姿が、じつはあなたたち女の正体よっていう嫌味かも」
「どうだっていいよ、そんなメンドクサイ話」麻々は吐き棄てた。「そんなんじゃなくてさ、アコの反抗っていうか、そうしてみたくなる気持、わたしもおんなじだからわかる…っていうか、あなたが驚いたの見て、いまわたしにもわかったんだよっ」
「おんなじ…おんなじだからって、あなた…」
話がかみあっていなかった。私は麻々の横顔を見ながら思った。嫌味ではなかったとしても、アコは、どんなに麻々がまだ粗削りだろうと、自分の失われていく女らしさがどこに吸収されているのか、目のあたりにしたのではないだろうかと。
そのときの嫉妬。これ以上は女になれない者の怨念。図々しく女になっていく女への憎悪。
しかも、それらを感ずる自分自身をもせせら笑いたい気持。
それらのことが折り重なって、あるとき不意に奇妙な行いに走ったのではないだろうか。アコが吐いた麻々への唾は、麻々が私に吐いた唾とは違うのだ、絶対に。
しかし、私はそれをもうこの麻々に言う気はしなかった。かわりに言った。
「私は料理の続きをするわ。あなたは自分が今夜使う布団を乾燥機にかけてちょうだい。私用の布団に乾燥機はセットしたままになってるわ。布団はこっちの和室に」
牡丹の花に散っていた血痕らしきもののことを思い出したが、言わなかった。ほんとうに血痕なのかどうか確かめたわけではないし、だいいち、麻々は多分気がつかないだろう。
私はきょうやっておくべき最後の用意にとりかかり始めた。
麻々はその私の様子をしばらくじろじろ眺めていたが、不意にこの場との関係を断ち落とすかのように顔をそむけ、リュックを引きずって出て行った。
「どこ行くの」
「そこらの蕎麦屋。関係ねえじゃん!