双頭の性 第十一場 来訪者は突然に。

胸の奥まで重くするこの湿度のせいなのか、あるいは明かりをつけてもなお光の届ききらないこの霧雨のせいなのか。私は誰かに濡れた手で触られているような、この山荘に足を踏み入れて以来の感覚を未だに拭い去ることができなかった。
神経質になりすぎてはいけない。そのことを自分に言い聞かせながらも、私は電話が目にとまると歩み寄り、受話器を耳にあて、故障していないかどうかを確かめた。
ともかく、まずは布団に乾燥機をセットした。もちろん別な掛布団にした。それからお湯を沸かした。火を見たかった、そして湯気を。生きて動く自分以外のものを見たかった。
私が追分にやって来た本来の目的に戻ったのは、それから一時間後のことだった。その間にスズメバチの死骸を片づけ、蜘蛛を捕まえては窓辺に飾ってあった広口のワインの空瓶に入れ、まとめて外に捨てた。
生まれて初めて見る巨大なコオロギは、どうやら共食いを習性としているらしかった。よく見ると、脚、頭、目玉、食い破られた胴体が散乱し、それらの上で勝ち残ったコオロギが脚を突っ張っているのだった。たくさん産んで、子が親の、親が子の食糧となり合う。その事実に気づいても、私はあえて視線を離さず、声に出して言った。
「それがどうしたっていうの」
私は窓の外にコオロギを捨て続けた。
 
そんなことをやっているうちに、料理を作るためのエネルギーをすでに半分は消費してしまった。それでも、あすの午餐のためにやるべきことはやらなければいけなかった。
私は前日に作っておいても支障のない料理にとりかかり始めた。
最初に「逢魔が時を飛んだトマト」を選んだ。
40メートルの屋上からソニアが傘をさして飛んだとき、ほんとにアコはそばにいたのだろうか。背中を押したのか。それとも囁いたのだろうか。
「ほら、あの雲の頂の光の国へ、さあ飛ぶのよ! あなたのからだは羽よりも軽いわ」
アコの声を私は容易に想像することができた。
事実はどうだったのか。
仮に、ためらうソニアの背中をアコが押したのだとしたら、そのときアコの心を支配していたのは残忍さだったのか。憐憫だったのか。絶望だったのか。もしかしたら希望だったのだろうか。
思いを断ち切り、私はチェリー・トマトのへたを取り始めた。半分に切り、チキン・ストックとワイン・ビネガーの白、それにオリーブ・オイルを大さじ二杯入れてフード・プロセッサーにかけた。ガーゼを二重にした布で濾した。燃えたつ夕陽のしずくが水平線に溶けて出るようにトマトの汁が滴った。それに塩と砂糖とこしょう、乾燥させたタラゴンで風味をつけ、再びフード・プロセッサーにかけ、ガラスのボールに移し、冷蔵庫に入れた。
イエロー・トマトに対しても同じことをやった。あとは黒いスープ皿の上で赤と黄の逢魔が時の渦を描き、生クリームの白で感情の裂け目のような彩りを添えればできあがりだった。
アコの料理した死をなぞる、そういう気のする作業だった。

次に、「液状化した黄金の生殖細胞」の準備にとりかかり、終わると「いちじくと野いちごの謎的要素」にとりかかった。
(このデザート、できあがりのイメージと自殺のしかたが、いちばん露骨に結びついている)
アコはすべての料理に色彩をイメージし、それと四人それぞれの死に方をオーバーラップさせていたが、首の動脈を切った白雪姫こと小林道太の噴き上げた血をデザートの皿に受けとめるとは、ずいぶん率直な表現だった。
料理をしながらも、その思いがなかなか意識の外に出て行かないことに違和感を抱き始めたとき、私はさらにもうひとつ、別なイメージが浮び上がってこようとしているのに気がついた。
そのイメージは意識の表面に上昇するまで、なかなか実体を見せようとしなかった。私もあえて見ようとしなかった。が、見ようとしなくても、それはついに目の正面にまで昇ってきて私を覗き込んだ。
それは先ほど冷蔵庫で見つけた「白雪姫」とジャムに書かれた文字だった。
そしてその文字は、すぐさま掛布団に飛んでいた血痕の記憶に結びついた。
(白雪姫は、たしか風呂場で首を切ったのだったが、まさかここの風呂場で…?)
違う。記憶では明らかにここではなかった。白雪姫はたしか川崎か横浜で死んだはずだった。私は、止めていた手を意識して動かし始めた。いちじくの皮を剥いた。水音高く野いちごを洗い、砂糖を加え、湧き出たばかりの鮮血を吸い上げたようなピューレにして、ガラスの容器に移した。黙々と。しかし、風呂場へと収斂されようとする意識は、そのとき、タイルと何かがぶつかってたてる音を聞いた。
(気にせず、次の料理に移ることよ)
そう自分に言い聞かせながらも、私の足はもう風呂場へと向かっていた。
私はじつは、先ほどコオロギと蜘蛛を取り除いたとき、確認していない場所が一か所あったことを思い出したのだった。それは浴槽の中だった。白いタイルの、風呂場の半分を覆っている大きな黒い二枚の蓋。それはきっちりと閉められたままだったので、中に何があるのか、私はまだ知らなかった。ふつうであれば、湯を抜いて、きれいに洗いあげてあるはずだった。
(それでいいじゃないの)
想像どおりかもしれない。それであたりまえなのだ。別にいま確認しなくたっていい。が、その思いとは裏腹に、私はもう浴槽の前に立っていた。
(この蓋をあけるのよっ)
顔を半ばそむけながら、私は蓋の右側の一枚の端を持ってずらした。よく見えない。意を決して蓋を弾ねあげた。
見えた。
私は声もあげられずにタイルにへたり込んだ。
麻々が、私の死の介添人が、そこには横たわっていた。