双頭の性 第十四場 女の真似してトンネル掘ってる男はさあ、少しは男たちの客寄せに…。

<目次>
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私には私の、麻々には麻々の速さで、時がばらばらに進んでいた。
どこまでも進み続けるかに思われた。ほんとうのところは時が時を蝕んで、時間の奈落に墜ち続けているのかもしれなかった。それほどに深く、二人は沈黙の底に沈み込んでいた。
麻々が身震いをし、膝を抱いたのと、私が暖炉に薪をくべに立ったのが同時だった。二十分後、ようやく、そして同時に私たちは現実の世界に戻ってきた。
麻々は私が投げ入れた薪に火が燃えうつるのを見始めた。私は冷蔵庫の前に立つと、両方の腰に手をあて、しばらくの間、中を透視するかのように睨みつけていた。それから勢いよくドアをあけ、下ごしらえのしてあった四品の料理を次々に冷蔵庫から出した。すべてを出し終わると、私は流しにセットされているディスポーザーのスイッチを入れた。
ディスポーザーの音に麻々はゆっくりと視線を転じた。が、何をしようとしている音なのか、気づくまでには何秒もかかった。私は一皿めの料理を捨てた。麻々が言った。
「何してんの。まさか午餐の料理じゃないでしょうね」
私は答えなかった。感情を出さないようにすればするほど頬が硬くなった。
「それは…あした…自殺した人たちの…」
麻々は腰を浮かし、そこまで言いかけてやめた。そして突然にいらだち、白に近く脱色した髪に両手を突っ込んでかきむしった。
そのあとも麻々は何度か言葉を発しかけたが、そのつど唇を噛んだ。とうとう両手を振り上げると、怒りの芯を吐き出した。
「馬鹿っ。バカバカバカバカッ」
しかし、私は静かに言った。
「午餐がどうなろうと、あなたには関係ないことでしょ。なのに、どうして?」
こんどは麻々が私の問いかけを無視した。麻々は私が先ほどまで飲んでいたポート・ワインのボトルに歩み寄ると、横なぐりにビンをつかみ、食器棚を荒々しくあけてグラスを出した。暖炉の前で膝頭を突き立て、あぐらをかいた。ポート・ワインをあおった。いや、奥歯で噛み砕いた。
「いつか言おうと思ってたけど」と麻々は言った。「あなたのその目っ。荒れた風が吹いているような、その目っ。それがあなたに不幸を呼んでくるのよ。わかってるっ?」
私は平然として、料理を一皿ずつディスポーザーに捨て続けた。聞こえてはいたが、麻々から見れば聞こえているようには見えなかっただろう。
「アコとの関係をそうやったって、あなた、清算はできないよ。そんな目をしているかぎり、あなたのその目のところにお迎えがくるよ。アコからのお迎えがさあぁっ」
私はすべての料理を捨て終わると、ことさら石鹸の泡を立て、長い時間かけて手を洗った。シンクの底を打つ水道の音が、私の言葉のように部屋を満たした。麻々は頬の半分を歪め、その音から顔をそむけた。

森の中ではさらに冷えた闇が生まれ、暖炉の中ではさらに熱い炎が生まれ続けた。
私は手を拭き、指輪と腕輪をつけ直し、それを仰々しく光にかざした。それから腕をひと振りすると、金属のたてる神経に刺し込むような音をその目で聴いた。
麻々は顎を斜めにしゃくり、眉のない、すえた目を細めて炎を見ていた。私はその麻々の背中を直視すると、頭を揺らさずに歩いて真後ろに立った。そして寒々とした視線の最下端で麻々の後頭部を捉えた。
麻々は背後におおいかぶさる私の、炎に輝く赤の、胸と同じく理想的に描かれた眉と目と唇の、それらの望むべき女として創り上げられた形をあらためて振りあおいだ。その麻々を上から呑み込んで私は言った。
「あなたは、アコが心の底で私を憎んでいたこと、知ってたの」
創られた膣の奥が痙攣しているような声になった。麻々は、しかしその私の緊張感がわずらわしげに質問を無視した。ボトルをとりあげ、直接ワインを口に含み、わざとらしく音をさせて飲み込んだ。私は言った。
「どうなの」
「どうなのって、何がよぉ」
麻々はそっぽを向いた。
「私はあなたのように女なのに、からだが男として生まれついた。あなただったらどうしたい? 私は他のたくさんの性同一性障害の人と違って、単に女装したり脱毛したり、外見だけ女に近づけるのが嫌だったのよ。心の奥底から衝きあげるものがあったのよ。だから、必死で働き、お金を貯め、勇気を出して手術をした。私の頃は外国にまで行かなきゃならなかったんですからね。並大抵の決意じゃなかったのよ。その、どこがいけないのっ。辱めたなんて、とんでもない間違いよ。ほかの性同一性障害の人にはできなかった決心が、私にはできただけじゃないっ」
「悪いけどさあ、そんな話、わたしにしないでくれるぅ」
「いいえ。聞きなさいっ」
「いやよっ」
「私たちは、アコと私は、たびたび生きにくい人生を語り合った。だけど、その根っこにあるものにはお互いに立ち入らないのが暗黙の約束事でしょ。だから、アコがどんな家族の中でいつ生まれ、どう育ち、そこから出たあとどんな苦労をしたか、私は具体的なことは何も知らなかった。訊きもしないし、話されもしなかった。話したって、お互いに似たようなつらい過去を背負ってるに決まってるんですからね。聞きたくもないのよ。話したくもないのよ。ただ私たちは、年老いて、しだいに生活手段が危うくなり、底の見えない淵を覗いているような、その不安を共有し合って生きていただけ。それで十分。それが私たちの絆だった。そのはずだったのよ。そう私は思ってたのよ。どうなの。知ってたのっ」
「知ってたぁ? 何をぉ?」
「憎んでたことを。アコが私をっ」
「ああ、またそれえ。もう、やめてよぅ」
麻々はボトルを口にした。あおった。大きく息を吐いて、またあおった。
「飲みすぎよ、あなた」
「へッ。死ぬことは平気なくせに、酔っぱらうことに厳しいなんて、へーんなの」
私は一瞬黙った。が、すぐに自分の質問に戻った。
「何を企んでるの。あなたといい、桜井さんといい。何をアコに言い遺されてるの」
「質問はひとつずつにしてくれない」
「じゃあ、最初に…」
「いい、もういいっ。もうわかった。答える、答えたげるよぉっ」
麻々は大げさに溜め息をつき、座りなおした。乱暴にわざわざいちばん太い薪をわしづかみにして投げ入れ、火の粉の散るのを見た。もう一回、大きく息をついた。それから、自分の吐く言葉に関わりを持ちたくないかのように、言葉から顔をそむけて話し始めた。
「アコはさあ、男のからだのままでふつうの男を愛し、ふつうの男からもこのからだのままで愛される、そういう関係を望んでたんだよ。そのことも正常なんだということを、耳にタコができるほど聞かされたもんね。いまでもその通りの言葉が言える。心とからだの性が同じ人間だけが正常なんじゃない。別だからって異常じゃなく、それもそれで人間のひとつのありようなんだ。電報にもあったでしょ、それよ。第三の性。なぜ世間はそれを認めようとしないんだ。おかしいのは、自分らじゃない。世間だ。それなのに…なのに、このことに対する世間の偏見から逃げ出して、女まがいのからだに変えるやつがいるから、男と女、それだけが正常だと認めてしまうことになるんじゃないか。そう言ってたのよぉ。ずっとずっと、ずっとね。あの電報は、わたしが言われてきたことのくり返しよ。わかったでしょ、アコはあなたのことを憎んでたのよぉ」
「も、もういちど…もういちど言ってごらん」
「ま、待って! わたしが言ったんじゃないからね。間違えないでよ。わたしを睨まないでよぉ。アコがそう言ったんだからね。アコはそうやって、わたしを自分と同じ人間につくろうとしたのよ。それも若い頃の自分じゃなくて、いまの自分と同じ考えの人間にね。それがうっとうしくてさぁ、おん出たのよ。でも家を出る間際まで言ってた。麻々ちゃん、からだを女に変えたって、その結果起こるのは、色きちがいの男どもがもの珍しがって穴に入りにくるだけだからねって。ねえ、そうなんでしょ。男ってさあ、そうなんでしょ?」
私は震えというものが、からだの表面ではなく、生命の深部で発せられるものだということをそのとき知った。麻々を見るのが怖かった。見ると、そのとたんに私が千切れ飛びそうだったから。
「手術さえしたらさあ、ふつうの女としての幸せをつかめると思ってるなんて馬鹿もいいとこだって…えーと、けっきょくはゲテモノだっけ、電報に書いてあったよね。とにかくそんな話をくり返しくり返しさあぁ…」
私は言葉を発そうとして言葉にならず、言葉にならなかった感情が目元を激しく痙攣させた。
「女まがいは…どっちの…ことよ」唸るように、やっと私は言った。唸り声が震えていた。「子供を産めないだけで…私は…女よっ」
「ちょっと待って。待ってよ。わたしにからむのはお門違いでしょっ。わたしは質問に答えただけよっ。そう言ったのはアコだって言ったでしょっ」
私は麻々に迫った。
「それは、いつ頃のこと」
「それって?」
「その話を、聞いたのはっ」
「小学生の二年だか三年だか。もう忘れた。とにかく、まだそんな話されたって、わかりもしない頃から、ずっとずっとずっと。お酒を飲みながら、目をすえて、くどくどと。同じ話を、それ以来、ずっとずっとずっとずっと…」
「じゃあ、なぜアコは…わ…私なんかと…」
「店をってこと? あらまぁ、そんな、なぜだなんてぇ」麻々は正面から私を見あげ、わざとらしくあきれてみせた。「まさか、わたしに答えさせなきゃわかんないんじゃないでしょうねえぇ」
「答えてちょうだいっ」
私のからだが前後に揺れた。両方の拳を白くなるほど握りしめた。麻々は答えようとしてその拳に目をやり、あふれるままに吐き出そうとしていた言葉の頭をかろうじて押しとどめた。そして、これから自分の口にすることが、私にさらにどういう効果を及ぼすものかと想像しようとしているように見えた。
麻々は飲むのを忘れていた手の中のボトルをいじくり、考える時間をかせいだ。しかし、すでにアルコールのまわりきった脳は空転し、考え始めた元の場所に滑り落ちたのだろう。急にいっさいがめんどうになったかのように脱力した。そして、ついに蕎麦屋からひきずっている酔いに身をまかせて、言葉を選ばない、ナマの感情を吐き出した。
「利用したに決まってんじゃないのさぁ。あったりまえじゃないのぉ。アコの年じゃ、もうふつうの男の客は呼べないしぃ。かといって若いゲイやレズは、わざわざ爺さんとなんか組むはずないしぃ。それで大館博ってことにしたんじゃないのぉ。利用価値よ。女のまねしてトンネル掘ってる男はさぁ、少しは男たちの客寄せにな…」
麻々は最後までしゃべれなかった。突然、私が麻々の頭部に襲いかかり、十本の真っ赤な爪をその首にかけたからだった。
気がついたら、そうしていた。麻々は不意をつかれたが、両手を突っ張り、かろうじてそれを避けた。私はそれでも無秩序に衝きあげてくる感情を抑えきれず、髪をつかむと、自分の目の高さまで麻々の顔を持ち上げた。
炎が燃えうつったかのような私の真っ赤なビニール・コーティングのドレスが躍り、麻々の目の前で私は歯をむき出した。息が、声に変わりきる前の息が、激しく吐き出された。その息は、殺してやる、と私にも聞こえた。麻々にもそう聞こえたのかどうかは知らない。が、次の瞬間、私は意志の力をふりしぼって、自らの激情を眺めおろした。
それは手術のひとつひとつを積み重ねていったとき、そのたびに肉体の奥で精神のたてる軋んだ音に耐えぬいてきた自制心の賜ものだった。
私はなんとか麻々の頭髪を持ち上げていた力を静め、その歪んだ目を覗き込んだ。そこに、自分の言ってしまったことに対する麻々の悔恨を確認しようとしたのだった。しかし、麻々の目の中には、肉体と精神の両方が女に生まれついた人間の、性同一性障害の人間に対する余裕のようなものがまだ見え隠れしていた。少なくとも私にはそう感じ取れた。
そのとたん。
私は、この女は、私にいちど強く頬を張られるべきだと冷静に結論を下した。
私は両手を放すと、まだ私の激情に呆然としたままの麻々を立たせた。それから右手のひらで、自分のからだが反転するほど強く麻々の頬を横なぎに払った。決して感情が激したのではない。それは、私にとって十二分に理性的な行為だと言えた。麻々はのけぞり、後頭部から鋼鉄の暖炉にぶつかって倒れた。私もバランスを失って倒れた。
私は倒れたままで目を閉じた。
息を長く吐き、呼吸が静まり、神経のほてりが去るのをじっと待った。待ちながら、白々と自分の瞼の裏を見始めた。いったい私は何をしているのか。いったい私は何に怒ったのか。いったい誰を私は怒っているのか。怒って何が得られるというのか。とっくに、その虚しさがわかっているはずではなかったのか。いまさら怒るほど大切なことがあるというのか…。
不意に、私は馬鹿ばかしさに捉えられた。
薄目をあけると、酔いに深く捕らえられている麻々もあお向けになったまま、まだ目を閉じていた。私も再び目を閉じ、自分の囚われていた感情が時間に濾しとられていくのを待った。
五分。十分。十五分。そして二十分もたっただろうか。
私はようやく目をあけた。が、麻々はやはり目を閉じていた。私はゆっくり立ちあがった。着乱れたドレスの裾を直しながら、ふらふらとカウンターに近寄った。椅子に腰から落ちた。
麻々に対して私は怒ったのではなかった。麻々の語った言葉に怒ったのだった。あるいは麻々の言ったとおりの私の人生に、最も平凡な女にさえなれなかった私の人生に怒ったのだった。
私はもういちど麻々に視線を戻した。さっきの姿勢のままだった。少しも動いたふうがなかった。私は麻々をしばらく見続けた。が、麻々はまったく動かなかった。ずっとそのままだった。
「…?」
いま目にしていることが、ゆるゆるとその意味していることに翻訳されていった。その一瞬後、私は瞳孔を見開いた。
「うそでしょっ、うそよっ」