双頭の性 第七場 宝塚の男役が ほんとうに男になったような女。

<目次>
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アコが自殺をしてから約二か月がたった。
しかし、私にとって、このいまの方がアコの死は目の奥に生々しかった。新聞で人の死んだ記事をよく読むようになった。いつ、どこで、どんな人が、どんなふうにして死んだのか。そして、その人は何歳だったのか。
私がアコとよく口にしていた死というのは、もっと乾いたものだった。あるいは、完全に意志的なものでもあった。が、なんてことだろう。このべたついたアコの死というのは。なめくじの這ったあとのように、生の軌跡がぬめって見えるようなこの死は。

電話が鳴った。午前十時。
ちなみに私は携帯電話を持っていない。パソコンも。この世で五十六年間生きてきたけれど、この世的に生きなくなってから、かれこれ五十年が過ぎた。
出ると久木野だった。
「またちょっと参考意見をいただきたいと思いましてね」
「なんの件で? まだアコ…石原和彦の死に疑問でも?」
「お察しのとおりと言いたいが、残念。はずれです。別の件で」
「ほんとはあなたなんて二度と顔を見たくないんだけど…お店でということではどうかしら。六時頃。うちは一軒目に来るような店じゃないですからね。九時頃までは、いつもとても暇なのよ」
六時半に、ということになった。
私はアコとの約束をはたすため、保存のきく食材や調味料、香辛料については、すでにほとんど買い集めていた。あとは前日に生鮮品を調達し、追分へと向かう。
桜井に電話をいれてみた。
「おかげさまで大体の目途がついたの」
山荘の方は、六月の十日以降は使用予定がまだ入っていないという返事だった。十日後の十四日の夜から十五日にかけて借りることにした。
「前にも言ったと思うが、その場にいられないのが残念だ。いい午餐になるといいね、どういう結末になろうとも」
桜井は、そう言ってから、受話器のむこうで静かに笑った。それは、とくにどことも言えない虚空に吸い込まれていくような笑いだった。それを感じてから私は言った。
「生きて帰ったら連絡するわ」
「あるいは、死んで帰ったら」
「死んで帰ったら…そうね。死者からの電話なんてすてきかもしれない。でも、アコには悪いけど、死ぬ気はないわ。死ぬ気なら、あなたの山荘を借りたりできないわ」
桜井は応えなかった。電話の中で桜井は背を向けたように感じた。
私はその後ろ姿を見送ってから受話器を置いた。

私はいつもどおり店で出す大鉢料理の下ごしらえを三品ほどし、それを大きなポリ容器に入れると駅へ向かった。
いまでは客たちが私を男と思って会いに来るのか、女と思って来るのか、それさえわからなかった。
若い頃、私は比較的簡単に外見を女性に転化できた方だった。性別適合手術をする前からそうだった。男としては骨が細く生まれつき、角ばったところのない体型をしていたし、鼻も顎もきゃしゃだった。だから、男の身体に女の心で生まれたほかのトランスジェンダーのように、いちどとして厚化粧をしたことがなく、それがひそやかな誇りでもあった。しかし、声だけはどうしても生まれながらの女性のようにはいかなかった。
私は息を喉の上の方だけ通らせる独特なかすれ声をつくって、声の角をとる方法を身につけていた。悪声だけれど、それはそれで少なくとも男性的な声からは遠ざかっていた。
(だけどその声も、いまじゃ爺さんなのか婆さんなのか、わかりゃしない)
そういうことだった。
つい最近まで医学的知見などないままに、世間からはオカマだのオナベだのオネエだの、あるいはゲイもレズもいっしょくたにして変質者のように見られてきたLGBTたち。最近ではそれにクエスチョンのQもプラスして、自分でも性別がわからない人も加えたみたいだけど、とにかくその中でも私のようなトランスジェンダーは、その女っぽさゆえに昔から特に気持悪がられてきた。
しかし、どんなに蔑視されようとも、私と同じ運命を背負った者たちの一部は、喉が焼けるほど女性になることを渇望し、それだけに、鏡の中に自分の見たい理想の女性がいなくなった知ったとき、絶望という名の坂道を転がり落ち始める。
私の場合は、その象徴が声だった。
古びてしまった声のことを遠慮のない常連客から「爺さん声」と言われた日、女として重ねてきたつもりの歳月が裏返しにされ、そこからいちばん恐れていた現実が露呈してしまったようなショックを受けたのだった。
私はけっきょく、最後の最後まで男のままであり続けた声によって、自分の老いを喉元につきつけられたのを知った。

店は、一階に安売りチェーンの薬局が入っている鉛筆ビルの二階にあった。エレベーターを降りると1メートルの通路をはさんで無粋な灰色のシャッター。店が1フロアに一軒ずつしかない狭さ。エレベーターの後ろ側にはトイレ。全部で8フロア。JR大森駅から約三分、大病院がやたらに多いこの一帯では、夜になると早々に人通りが少なくなり、ひび割れたコンクリートの壁が折り重なって、人の心を閉ざす闇となる。しかし、その闇の襞をかきわけると、奥に少しだけ湿った空間が待っていた。
店の名は『偽証』。
「わたしたちは性を偽証している、という意味じゃないのよ。こうしてからだと心が別の性に生まれついた人生そのものが、自分に対する偽証みたいなもの。だから」
そう言うアコの言葉からつけた店名だった。私は反対した。が、アコは客が入るのを戸惑うだろうからという理由で、その店名をつけたがった。アコにはそのように、世間に対して石をぶつけたがるようなところが強くあった。

「ほんとに偽証という店なんだ」
入ってくるなり久木野は言って、店内を大げさに見まわした。
店の中には、しかし、偽証で告発すべきものは見つからなかった。カウンターは八席。そして四人掛けの座卓が二つ置かれた小座敷がある。新しいときにはオレンジ色だったことがかろうじて想像できる、汚れた布張りのシェードのペンダント・ライトが六つ。壁には振り子時計があるほか、絵のひとつもない。
「小花模様のカーテンもない。人形たちもここには連れて来ていないんですね」久木野はカウンターの席に着いた。「ちょっと早かったけど、かまいませんか」
「内装で主導権を握ったのはアコだったんです。私だけの趣味ってわけにはいかないわ」
私は筑前煮を大鉢に移しかえると、切ってきたキュウリと水にもどしたワカメをボウルに入れ、シラスを加え、自家製の三杯酢をかけると素手で混ぜ始めた。
「慣れたもんだ。男はもちろん、女でもなかなかそうはいかない」
「私はね、宝塚の男役が性を換え、ほんとうに男になったような女、そう言われてるの。男女両方の特性を持ってるんです」私は顔を上げるでもなく言った。「で、きょうは?」
「ええ…はい…宝塚の男役がほんとうに男になった女…」
久木野は首を傾げ、それから内ポケットの手帳を出し、その間にはさんであった切り抜きを開いた。
「さっそくですが、この記事、読まれました? だいぶん前のものですが」
それはわずか二十行ほどの一段記事だった。見出しには「電車に飛び込み死亡」とあった。
「それがどうしたの」
「東戸塚駅での飛び込み自殺」
「…それで?」
「なぜこの記事を、と?」
「そう。なぜ私にそれを?」
「死んだ人はゲイ…ではなくトランスジェンダーと言うべきかな…そうだったんです、新聞には書いてありませんが」
私はあらためてカウンターに置かれた切り抜きに目を落とした。眼鏡がなければ読めなかった。私は言った。
「なんて書いてあるんです」
久木野は暗誦している記事の中身を語り始めた。
「年齢は三十歳から四十五歳。身長は約185センチ。ブルーのジャージーの上下に赤いベースボール・キャップをかぶっていた、と書いてあります。名前はない」
「あなたには名前がわかったのね」
「さすがですね。そのとおりです。富岡靖。知ってます? 正しくは三十六歳」
私はキュウリをもんでいた手をこわばらせ、久木野に表情を精一杯消した目をすえた。こらえがたい、荒涼とした風が吹きぬけた。
再び手元に意識が戻ったときには、私は激しくキュウリをもみ始めていた。久木野は私の受けた衝撃を見てとると、椅子に背をあずけ、舌の先でひそかに唇を舐めた。私はキュウリもみを乱暴に大鉢に移しかえ、水道の水を必要以上に出して、バシャバシャと手を洗った。
「何かお飲みにならない? 私は飲むわ」
久木野は何も言わず、新聞の切り抜きを手帳に戻した。私はビール専用の冷蔵ケースから中瓶を出し、グラス一杯のビールを一息にあけ、それから言った。
「トミーが自殺してたなんて」
「トミーね。そう呼ばれていたようですね」
「トミーまで、ああ…」
「知らなかったんですね」
「初耳です。いつのことですか」
「八か月少々前」
「そんな前? じゃあ、えーと、去年の十月に?」
「ええ」
「死ぬなとは言わないけど、こんなに自殺が続くと…」
「と?」
「もういいわ。話せば長くなるわ」
「ほう。だけど聞きたいですね。とても興味深い」
私はカウンターのむこうで丸椅子に腰を落とした。久木野はその言葉どおり、私を興味深げに覗き込んでいた。私は怒ったように言った。
「まさか、あなた、自殺じゃなかった、なんて言うんじゃないでしょうね」
「さっきの新聞記事には、電車が入ってくる直前にそのジャージーの男が飛びおり、線路に身を投げ出した。それを反対側のホームの乗客が目撃していたというようなことが書いてあります」
「そう…。じゃあ、自殺だとわかっていながら、何を私に訊きたいのかしら」
「たしかに自殺でしたが、なぜ自殺したんでしょう。この富岡という人は石原和彦さんと親しかったんじゃありませんか」
「親しかったわ。私はただ知ってる、という程度ですけど。私は、アコを通じてトミーを知ったんです」
「しかし、あなた方は戸籍上の名前を知ってる程度には親しかった、というわけですね」
 「ええ、まあ。でも、誤解のないように言っておきますが、私たちっていうのは、その人が男としてつけられた名前をしつこく記憶してるものなんです。まるで、その人のペニスの根っこがそこにあるとでもいうように、男名前を覚えているものなんです。もっともトミーは、性同一性障害といっても、はた目にはわからなかった。性別適合手術をするほど強い女性願望はなかったように記憶してますし、女性ホルモンも摂ってなかった。豊胸手術もしてなかった、私の知っているかぎりでは。そうだったんでしょ、死んだときも」
「…」
久木野は私の問いかけには答えず、頬を硬くした。久木野が私に対して顔を強ばらせているのでないことは感じ取れたが、かといってその感情がどこに向けられているのかはわからなかった。やがて、低い、怒ったような声で久木野は言った。
「ゲイの連中が…おっと、トランスジェンダーが、このところ続けて死んでるんです。神奈川県下で。自殺ということで。四人も。この一年以内に。あなたも同病者としてよくご存じだと思いますが」
「同病者ですって?」
「失礼。えーと、同じ障害を持つ者同士として」
「四人もって、誰です、誰のことです」
久木野は再び手帳を出し、ページをめくった。小さな文字がページいっぱいにびっしりと書いてあった。
「いいですか。白雪姫こと小林道太。ソニアこと尾竹国雄。切り裂きメリーこと大木政史。そしてトミーこと富岡靖。以上は神奈川県下の自殺者です」
「それで、神奈川県警のあなたが?」
「あとは、神奈川県で死んだのではありませんが…」私の問いには答えず、久木野は続けた。「ジョン子こと岡野徹、アコこと石原和彦」
トミー以外の五人は、森の見えるテラスでいっしょに食事をする予定になっていた。が、そのことには触れず、私は言った。
「もうひとり、もしかしたら、薫こと大館博もと言いたいんじゃないでしょうね」
「そうですねえ、最後のひとりは別として、どうしてなんでしょうね。死にたくなった気持に共通した何かがあるとか、何かあなた方の世界で流行…と言っちゃいけないでしょうが、とにかく、連鎖反応を引き起こすような何かがあったりしたんでしょうか」
「あなたはそこに犯罪の臭いでも嗅ぎとったっていうの」
「さあ、それはどうでしょう。しかし、興味深いことじゃありませんか」
私は自分のグラスにビールを満たそうとする手を止め、久木野のためにグラスをもうひとつ出した。久木野は自分用にビールが注がれるのに気がついているのかいないのか、目だけはそこに置いたまま言葉を続けた。
「私の知っていることと言えば、さっき名前をあげた六人のすべての共通項は、トランスジェンダーであり、石原和彦の友人であり、さらに大館博の知人と言ってもよい、ということぐらいです」
「私の知人と言えるのはそのうちの二人、アコとトミーだけ。お間違いなく。知り合いが自殺すると犯罪になるんですか」
久木野はその言葉が聞こえなかったかのようにグラスに手を伸ばした。が、口までは運ばなかった。
「ただ単に悩むとか苦労するとかと違って、死んで解決を図ろうというのは相当なことでしょう。何が引き金だったんでしょうね」
「いかにも性同一性障害を抱える者らしい自殺の動機は、いくらでも語れます。それは、だけど、もうあなたにも察しがついていることじゃありません? あなたの求めている事件に結びつきそうな背景なんて、私は知りません。ただトミーについて言えば、ふつうの男以上に男っぽいからだなのに、男性への性衝動があることを嫌悪しているようなところがありましたね。つまり、未だに自分の心が女性であることを受け容れられなかったんだと思います。でも、だからって、ふつうの男性の間に入ることは絶対できない。なぜって、いつ内心の女性の心を覗き見られるかわからないんですからね。とても怖いことですよ、それは。トミーって、けっきょく自分がどう生きたらいいのか…それより、自分とはいったい何なのか、それがわからなかったんじゃないかしらね」
「自分とは…何なのか…ですか」
久木野は私の言葉をゆっくりとくり返し、それから独り合点した。私の投げかけた哲学的な命題をどれほど深く受け取ったのかは知らない。が、それはそれなりに、ずっしりとうなずいたように見えた。変わった刑事だった。まあ、刑事にもいろいろいるのだろうが。
久木野はやがて形而上的命題から形而下的命題に戻った。
「アコは自殺した人たちと、どういう肉体的…というか性的な関係だったんでしょうね。何かご存じのことは?」
「さあ。アコとは、私、共有している感覚がありました、前にも言いましたが。でもそれは私の一方的な思い込みで、私の共有していたのはアコのごく一部にすぎなかったことが、最近ある人と話していてわかったんです。つまり、私にはアコを語る資格がないってことなんです、残念ながら」
「残念ですね」
久木野はほんとうに残念そうに言った。その口元には、しかし、これからまだまだ私、大館博にくいさがるつもりの、被虐的な匂いのするしぶとさが表れていた。
「たとえば、少年たちの殺人のニュース、観てますか。観てない? まったく? 興味がない? 変わってますね。ま、いいでしょう。私の言いたかったのは、彼らを調べたところで、すべてが明るみに出ることは決してないということです。解決されるのは、目に見えた犯罪行為だけです。草を抜いたつもりが、地面の下に根っこが切れて残っていて、時がたつとまた頭をもたげてくる。その根っこのことを私は言ってるんです。あるトランスジェンダーが死んだ。自殺ということになった。それで事件は終わりにしなければいけない。が、私は切れて残った根っこを掘り起こしたいんですよ」
「おっしゃってることは、わかりますよ。でも、それは警察の仕事なんですか。精神科医の仕事なんじゃありませんか」
「純粋に哲学的な動機なら、そう、たしかに言われるとおりです。しかし…」
私は久木野が省略した言葉を読んだ。きっと自殺に介在する第三者の可能性を考えているのだ。私は言った。
「だけど、アコ自身も死にましたよ。アコの関与を疑っているのなら」
「失礼。水をいただけませんか。水道の水でなく、できればミネラル・ウォーターを。もちろん代金は払います。あ、氷は抜きで」
久木野は私の質問をはぐらかし、座り直した。私はわざと私から視線をはずしている久木野の横顔をしばらく見ていたが、けっきょく注文されたとおりにした。
久木野は水に滲みている淡いミネラルの味を舌の先で探り出すようにしながら、ちびちびと、粘着質にそれを飲んだ。私はその様子を見て、久木野がこの事件から容易に手を引きそうにないことを感じとった。
「アコの件じゃないと電話では言ってたけど、やっぱりアコのことで来たんですね」
私は言い捨てると、久木野との共通の空気を断ち切るように、もう一品の大鉢料理にとりかかり始めた。頭をとり、内臓を出して持って来た鰯の梅煮を作るつもりだった。
「私は、あなたが電話でそう訊いたとき、いいえと言いましたよ」
「覚えています」
「だから、そうなんです。アコ、石原和彦さんのことじゃないんです。あなたなんです」
「私?」
「そうです。薫こと大館博さんにいろいろ教えてもらいたいんです」
「何も知らないとさっきも言ったでしょう、私は」
「それはあなたの言葉です、私はそうは思っていない」
なんて人なの! 久木野のまとわりつき方が、私はにわかに腹立たしくなってきた。しかし、とにかく答え、そしてこの会話を早く終わりに近づけることにした。
「あなたは、私がこう答えれば満足なんでしょう。それは…」
「それは?」
「言ってほしいのね」
「言ってください」
「誰かが手を貸している。自殺の幇助。自殺の教唆。あるいは、間接的な殺人者とでもいうべき存在」
「そうなんですか」
「馬鹿げてるわ」
「そうでしょうか」
「くだらない」私は醤油を鍋にどぼどぼと注いだ。それから顔をしかめ、久木野を睨みつけた。「入れすぎちゃったじゃないの、醤油を。心がささくれだつと、必ず料理もとげとげしくなるんだから」
「トミーこと富岡靖は、線路に飛び降りる前、誰かといっしょだったようにも思う、と向かいのホームにいた目撃者が話しているとしたら、どうです、どう思います?」
「ほんとに? そうなの? トミーは突き落とされたとでも? それとも躊躇しているトミーの耳元で、さあ飛び降りろと、誰かが囁いたとでも?」
「あなたは、どう思いますか」
「帰ってちょうだいっ」
私は鍋の蓋をカウンターに叩きつけた。その音の激しさに、自らも一瞬たじろいだが、怒りはまだ新たに噴き上げていた。
「失礼なっ」
「失礼な? 意味がよくわかりませんが」
「あなたのような普通人には一生わからない意味よ。たとえ囁いた人間がいたにしたって、それが何なの。そんな者がいなくたって、私たち、子供の頃からみんな何度も死のうとしてるんです。家ではご近所に恥ずかしいと言われ、家から出れば世間からは白い目で見られ、陰口をきかれ、からかわれ、嗤われ、大人になってからも、障害をとことん隠していないかぎり、ふつうの働き場所からはシャットアウトされ…。認められてないんですよ、人間として。人間扱いされてないんですよ。しかも、あなたたちは、そうしていることに気づいてさえいない。そんな程度の問題なんです、ご大層に性同一性障害と呼んでくれたって、現実はそうなんです。そんな目に遭っている者が、ある日、自分はもう生きていることに疲れたと思ったって当然でしょう? そのときの絶望的な気持、わかります? このからだを、存在を、受け容れてくれるところがないんですよ。この世との関わりを持とうとしても持たせてもらえないんですよ。私なんか、いなくたっていいんですよ。しかも、いなくなったって、そんなこと誰も気にしないんですよ。それでも朗らかに生き続けていく意味って、いったいどこにあるんです、あるって言うなら教えてくださいっ」
私は興奮のあまり、そこでどっと弾けるように泣き出してしまった。そんなことで泣く自分はとっくに克服しているつもりだったのに。
意外なことだった。五十六年間分の涙がまとめて私から迸り出た。
久木野は肩をすぼめ、すぼめた肩の間に頭を落としていた。私にぶたれたようにうなだれていた。
私は久木野がどの程度理解したのかはわからなかったが、少なくとも私の言葉の勢いに圧倒された事実を確認し、やがて涙を収めた。化粧が取れるのもかまわずタオルを使い、洟をかみ、意識して幾度か呼吸をし直して、私はさらに駄目を押した。
「こんなこと、言っても仕方のないことだというのはわかっています。まして、あなたひとりに言っても、どうしようもないともわかっています。だけど、言いたいんです。あなたが私たちのことに首を突っ込むのなら、私たちのことをねじ込んでおきたいんです。いいですか。ふつうの人は、借金苦や失恋とか、リストラや受験苦とかイジメとか、自殺の理由ってすごく現実的でしょう? だけど、そんなことが死ぬ理由になるのなら、性同一性障害の者は中学生までに全員死に絶えてますよ。わかります? 私たち、そんなことではなかなか死なないんです。死にたいのはやまやまです。だけど、多くのトランスジェンダーは心とからだの矛盾に耐え、世間の目に耐えて生きて来てるんです。そして、いまでは例外的に一般の会社で受け容れられるケースも出始めたようですけど、多くは生活するために、客商売が向いていなくたって、けっきょくショーパブやゲイバーと呼ばれるお店で身を寄せ合うことになるんです。まるで弱いお魚が群れるみたいに。だけど、そうして生きては来たけれど、ある日誰かが、ふと、ほんとうにふと、遠い空かなんか見ているとき、もう生きるの止そう、そう思ったっていいんじゃありません? すっごく自然なことだと思いますよ、私は。そんな私たちをほっといてくれたっていいでしょう? いまになって、とやかく言わないでください」
「はあ。わかります…いや、わかるべきだなのだろうと思います」
「うそ。ほんとう? 簡単に私たちの気持をわかるなんてこと、言わないでくださいな」
「私は、そのう、変わってると言ったでしょう」
久木野は苦笑を浮かべた。それからなぜか、事情聴取中の刑事らしくなく、情緒的な視線を遠くに放した。
ほんとうに理解、いや理解することの入り口に立っているのかもしれなかった。私はしばらく、久木野が私の言葉を反芻し、それを呑み下すための間をとった。
長い沈黙のあと、久木野は言った。
「しかし、トランスジェンダーのすべてが、あなたの言うような思いを抱いて人生を送ってるわけではないんじゃありませんか。いろいろなんだと、この前あなた自身の口で言われましたよね。トミーもほんとにそうだったんですか」
「トミーのことはもちろん想像です。ええ、たしかにそうです、すべてのトランスジェンダーをひとくくりにすることはできません。しようとも思いません。私は典型的な悩みを言ったんです。でも、トミーのように死を選ばなくても、そんなふうな気持は私たちみんなに共通した情緒なんです。私のこの人生だっていつまでもつか。七十になった私の店に、あなた、来る気になれます?」
「まあ、それは…」
「それって、老いたら死ねって言われてるのとおんなじなのよ。生活費をどうやって稼いだらいいの。家賃は誰が払うの。お米は誰が買ってくれるの。それを…そのことを、若い頃から、私たち、死にたくないのに、死ななきゃならないかもしれない現実を、ずっと目の前に置いて生きてるのよ。日本人の平均寿命が世界一になったって関係ないのよ。だから、教えてあげましょうか。生の反対語は死だっていうけど、そうじゃない。私たちには、老いなのよ、生の反対語は老いなのよ。わかります? 老いればゲイバーでさえクビになる。仕事がなくてもハローワークにも行けない。誰がオトコオンナを雇うのよ。働き場のない、生活費を稼げない老いたゲイを誰が引き取ってくれるというの。戸籍を変えられる法律をつくったから、役人たち、日本は理解ある国だろうって恩を売りたいんでしょうけど、何よ、法律が。現実は変わりはしないのよ。世間の見る目はおんなじよ。そんなことを考えてもしないで、週刊誌みたいに、いまになってトランスジェンダーの自殺をいじくりまわして…馬鹿っ、いいかげんにしてよ!」
「い…いいかげんに、そ、そんなふうに…し、しているつもりはないんですが…」
久木野は私の感情の激発に再び肩をすぼめ、それからひそかに溜め息をつき、両手の中で、ミネラル・ウォーターのグラスをいじり始めた。私の言葉の勢いが、いやそれ以上に、語られた性同一性障害を抱えて生まれた者の厳しい現実が、刑事久木野の中から生身の人間をようやく絞り出したのかもしれなかった。そうであることを願った。
やがて久木野が言った。
「謝りますよ。別に謝ってほしくはないでしょうが。あなたを本気で怒らせたようだから、こうなったら私も、しまっていた本心を話すしかないでしょう。それしかないでしょう」
私は久木野に背中を向けて、ビールをたて続けにあおり、グラスを強く握りしめた。久木野は、まるで言い訳をするような口調でしゃべり始めた。
「石原和彦が死んだとき、あるいは火事の起こる前、彼はひとりではなかったとしたら、どうでしょうね。私はそのことに引っかかってるんですよ。だから富岡靖、トミーのことでも疑いを…」
久木野の投げて寄越した石の予想もしなかった大きさに、私はのけぞりそうになった。目の焦点を失った。そして一瞬後、私は囚われていた怒りの渦から跳び上がっていた。
「な、なんですって。ほんとに? 誰がいたの? 誰かが火をつけたって言うの?」
「どうでしょうね。トミーの場合も、どうなんでしょう。囁いた者の存在は、ほんとうかもしれない。だいいちソニアこと、えーと」
「尾竹、尾竹国雄」
「尾竹国雄がビルから飛び降りたときには、その二十分ほど前に屋上への非常階段を昇っていく二人連れの女性の後ろ姿を見た者がいた。そのことでも私は、この連続自殺を単なる偶然とは思いたくありませんね」
「ほかの人の場合は? 白雪姫や切り裂きメリーは?」
久木野は首を振った。それからゆっくりと手帖のページを繰り、何気なさそうにつぶやいた。
「でも、もうひとり、ジョン子こと岡野徹が太平洋に小船を漕ぎ出したであろう何時間か前、女装した彼は、別の女性と二人連れであったことが記憶されてるんです。地元の土産品店の店員に」
「その、ジョン子といっしょにいた人物の人相とか背丈とかは?」
「おぼろげながら。しかし、手がかりというほど、しっかりしたものではありません」
「誰かしら」
「誰でしょうね」
「わからないわ」
「あなたなんでしょう、大館さん」

久木野が私を本気で疑っているのかどうか、私にはわからなかった。いや、疑う、疑わないではなく、何か意図的に言葉のジャブを放たれている、そういう感じが私はした。久木野はぼそぼそと続けた。
「石原和彦にとても興味をそそられていたのは事実ですが、残念ながら…」
死んでしまった。そうなると、まだ生きていて、しかもその石原和彦と親交のあった人間は誰か。あなたですと。
私はあきれて、つぶやいた。
「アコとはもとより、死んだ四人と親しかった者も大勢いるでしょうに。わかってるとは思うけど」
久木野は当然ながらわかっていた。
「疲れますね、こういう話は。いいでしょう。きょうはこのくらいにしておきましょう。ただ、私はあなたの反応も見ておきたかった、それだけです。そういうことにしておいてください」
久木野はそう言いながらも、それからしばらく湿った手の中で時間をいじくりまわしていた。私にもう話しかけはしなかった。しかし、帰ろうともしなかった。カウンターに粘りついているような姿だった。
ようやく腰を上げたのは、こんな時間帯にしては珍しく、五人連れのサラリーマンが騒々しく入って来てからのことだった。
久木野は帰った。が、私にとって、この話はそれで終わりになったのではなかった。久木野がマニアックに養っている疑問は、私の胸の中にも新たな巣穴をつくった。
久木野の仮定が当たっているとしたら、いったい誰が自殺に手をかしていたのか。
そしてその疑問は、もうひとつの疑問と折り重なったのだった。
アコがある種の狂暴性を垣間見せたというのは、ほんとうなのか。
自殺幇助と狂暴性。折り重なった二つの疑問の間には、私の見たくもない鎖が見え隠れしていた。
(それにしても、あの刑事、ほんとに変わってる)
テレビで観る刑事が刑事だと言う気はないが、何か「私的な」とでも言いたいような印象が、その態度からは感じられた。たかが仕事なら、もっと事務的なのではないだろうかと。
(そういえば、あの人、警察手帳を見せてくれなかったんじゃない? テレビ・ドラマでは初対面のとき、必ずそうしてる。そうするのが決まりかどうかは知らないけれど、そうしてる。でも、あの人、会ったら、いきなり名刺を渡したんだった。そうよ、うっかりしてたわ。こんど来たら確かめなきゃ)
しかし、来てほしくないときには来た久木野が、それきり電話さえ寄越さなかった。