双頭の性 第六場 お客の目の前で、自分のしているオシメを絞る。

リーシの水を飲みながら最後に口にすべきものが、デザートであるわけがなかった。それが私を死に至らせる「何か」であることは明白だった。
私は自分のアパートに戻り、何度もアコの書いたレシピを読み返した。
石原和彦の望んだ私的なお葬式は、ある者は五十代、ある者は六十代で自殺した性同一性障害を抱えた者たちのお葬式でもあり、そして私、大館博のお葬式になることもアコは望んでいるようなのだった。
何ゆえに? どうして私も?
私は、自分で命を終えるということ自体、決して怖れてはいなかった。それどころか、いざというとき自分の意志で自分の命は自由にしてよい、そう赦されていると思い込むことが、しかもそのための準備もすでに終わっているということが、私の気持をこれまで楽にしてきたし、結果的に強く生き続けさせてもきた。
「だいいち、考えてもごらんなさい。死にたい気持になったとしても、私の命はね、私が睾丸をとり膣をつくったとき、別な命に生まれ変わったのよ。私は自分の意志で、命のありようを変えたのよ。苦労の末に白いバラの木に赤いバラを咲かせたのよ。その私が簡単に死ねると思って?」
私はその種の会話をアコとの間で交わしたことがある。
(なのに、なぜアコたちの午餐の席で私も死ななきゃならないの)
それは情緒的にはかろうじてわからないでもない気がしたが、理屈ではもちろん納得できないことだった。理屈というものが、自殺にも必要だとすればだが。

白雪姫。ジョン子。ソニア。切り裂きメリー。
私は、アコが招待したトランスジェンダーたちとは顔を合わせたことがなかった。
それはこの十年間、つまり自分の店を持つようになってから、それまでの仲間との交際がほとんどなくなったせいだし、いやその前、過酷な手術を段階的に受け始めてからというもの、みんなが隠花植物的に寄り添う場にはめったに顔を出さなくなったせいでもあった。が、噂だけはアコを通じて入ってきていた。
白雪姫こと小林道太は、首の動脈を切って血を噴きあげて死んだと記憶している。
ジョン子こと岡野徹は、月夜の岬、たしか理想郷と呼ばれる外房の岬から小船を漕ぎ出して入水したのではなかったか。
ソニアこと尾竹国雄は、40メートルも宙を舞ったと聞いた。メアリー・ポピンズのように傘をさして。
切り裂きメリーこと大木政史は、その名前とは反対に眠ったまま死んだのだった。冬山に登り、雪女の胸に抱かれて。
みんな死に方が違う。私が死ねば自殺マニュアルにもうひとつの方法が加わることになるが。

「そういうことなのよ」私は言った。「協力してくれない?」
「喜んで」
シェフの桜井は、無表情に、なんのためらいもなく言った。
ふたりはランチ・タイムを終わった無人の『ジュスパン』のテーブルにいた。
午後二時半。オーナーでもあるシェフの桜井は、私にワインをふるまってくれていた。
私がこの店に来たのは三度目。桜井と顔を合わせるのはまだ二度目のことだった。
揺れる桜井のグラスの中では、多分いま性同一性障害に苦しんだ者たちの死が溶けているのであり、それを充分承知しているかのように桜井はときどき重々しくグラスを傾けた。頭も眉も鼻の下も顎も、ボリュームのあるしらがまじりの毛髪におおわれた桜井は、料理人というよりも、いちずな求道者の印象に近かった。
「ぼくも人の生死にかかわるのは嫌いじゃない」
「ほんとに? なぜ」
「そういう性質に生まれついた、ということだろう」
「すてきな性質ね」
「ぼくは哲学する料理人なんだ。ロブスターとマッシュルームとこのぼく、桜井一夫には同じ生命が宿っていると思っている。料理することは、だから、そのつど哲学なんだ」
「そう。わかるような気もするけど、わからないわ」私は赤ワインのグラスの足を指の間にはさみ、桜井と同じようにテーブル・クロスの上で回し始めた。「ともかく承知してくれるのね」
「とてもおもしろい企画だと思う。その場に参加できないのが残念…いや、はっきり言わせていただけば、あなたのその死を見守れないのが残念だが」
「変な人」
「いや。変なのは、死を忌み嫌う世間の方だ。死にざまこそ、その人の全人格の表現なのだから」
胸にけだるい感じの広がるワインだった。しかしその味と芳香は、話の内容にはぴったりだったし、色も死者たちを想うのにふさわしい翳りを見せていた。
「森を臨むテラスのことだけど」桜井は顔を上げることもなく言った。「心当たりが、もうあるのかな」
「もちろんないわ。私には無縁の世界。どこかご存じない?」
「だったら、長野県の追分に私の会社の山荘がある。株式会社ボンルパというんだが。ジュスパンというのは店の方の名前なんだよ。数年前、従業員やお客さんサービスのために買ったんだ。そこならちょうど条件に合っている。森を臨むテラス、特大の冷蔵庫、オーヴン&グリル、アイスクリーマー、ワインセラー、それに食器洗い機、厨房の設備が山荘とは思えないほどちゃんとしてるし、幾種類もの皿やグラス、ナイフ、フォークの類、十人は座れるテーブル。みんな揃ってる。そこを使えばいい。目途がついたら電話をくれないか。ほかの人の使用予定のこともあるから」
「よかった。ありがとう。助かるわ。追分ねえ…軽井沢でしょう?」
「知ってるんだね」
「堀辰雄のいた追分でしょ。行ったことがあるの。あの小説、風立ちぬ、だったかしら」
「そう。風立ちぬ、いざ生きめやも。そこで死体が出るのはつらいだろうな」
「信濃追分。白樺。すすき。渡る風。死ぬには、日の光と月の光、どちらがいいかしら」

話は決まった。桜井は私の質問に答えて、食材の入手方法もアドバイスしてくれた。私はメモをとった。最後に私は訊いた。
「アコはあなたにやさしかった?」
桜井は口髭と同じぐらいボリュームのある眉を上げて私を見た。そして五十を過ぎたその品のある思慮深い目をしばたかせた。私の唐突な質問の背後に何があるのか、桜井は解しかねていた。しかし、私は下を向いてそのまま黙り込み、桜井にしたのと同じ質問をこんどは自分自身にも投げかけていた。
桜井もやがて視線を落とした。視線は、私のぴんと張ったシャツの胸あたりにとまった。が、それは男性が女性の胸を見る目ではなかった。そこがあまりにも豊かなので、視線が下に落ちる途中で引っかかったという印象だった。
「すごいね」淡々と桜井は言った。「初めて会ったときにも感じたのだが、大きくしすぎたんじゃないだろうか」
「何が? この胸?」私は寒々とした視線を自分の胸元に置いた。「そうかしら。確認したい?」
「そうだね。いちど確認させてもらおうか」
しいて言えば、同僚に子供の写真を見せられる程度の興味の示し方だった。私はシャツのボタンをはずし、胸を突き出すようにして桜井に見せた。ティア・ドロップス。涙のしずくの形をした胸だった。桜井は首を傾け、骨董の鑑定人のように右から左から、上から下から覗きこんだ。
「May I touch this? 指先で触れてもいいかな?」
「Sure! どうしてでしょうね。自分じゃ、女以上の女になりたいくせに、恥ずかしくないのよ。シャツに隠れていたアクセサリーを見せる程度にしか」
「こうして実物を前にすると、ますますその大きさを感じるね」
「オスかメスか、はっきりさせるには、大きくしなきゃ意味ないでしょ。目印よ。オンナ印」
「そうなのか。もっと精神的なものが込められているとばかり思っていたが」
私は物でもしまうようにオンナ印をしまい、シャツのボタンをとめた。
「私のさっきの質問だけど」
「質問? …ああ」
「アコはあなたから見て、どういう人だった?」
私たちの視線は、再びワイン・グラスの上に戻った。互いに相手の目を見ることもなく、いや、その揺れるワインの赤の中に、充分に相手の心を見ながら言葉の湧いてくるのを待った。
「質問の答になるかどうかわからないんだが。自分でも、アコの奇行をどう解釈していいか、よくわかっていないので」
「いまキコウって言ったわね。奇妙な行為のこと?」
「そう。この一年ほど前のことなんだけど。それより、なぜアコのことを訊くんだろう」
「私に理解できないことがあったのよ。狂暴だったと言った人間がいるのよ」
桜井は狂暴という言葉のイメージを毛におおわれた目の中でしばらく養っていた。マッシュルームやロブスターの死の横に、自分を横たえる料理人。桜井は白い仕事着なのだが、それが何か形而上学的なことを考えるための特別の衣裳であるかのように衿元を正した。
「どうしたの」
「いや、どうも。アコの狂暴性について考えていたのだが、そうかもしれない。狂暴と言えなくもないかもしれない」
「あなたまで、なんとまあ!」
これは飲まずにはいられなくなったわというように私はグラスをあけた。そして桜井の手元のボトルから新たな一杯を自分で満たし、それをいつでもあおれるように手元に引きよせた。
「話してちょうだい。何があったのかしら」
「ぼくに言わせれば、そんなこと、どうってことない。言葉を換えれば、人間はバランスのとれた生きものだなんてまったく思っていない、ということだけど」
「本題に入ってちょうだい」
桜井はあいかわらず手の中のグラスを見たまま静かに続けた。
「アコがおしめをしてたの、知ってたかい。知らなかった? ほう、知らなかったのか」
「おしめがどうしたの」
「自分がもう若くないことを痛感させられるきっかけは人それぞれだろうが、アコの場合、その最も痛烈だったものが失禁だったんだ。赤ん坊の頃に戻ったんだな。もう、こうなっちゃ、男も女もないわよ。吐き棄てるようにそう言っていた」
桜井はそこで間を取り、私の反応を確かめてから続けた。
「で、それに関連したエピソードなんだが、ある日、結婚相談所をやっている知人の依頼で、すこぶる安いけど、アコにとってはすこぶる楽な昼間のアルバイトを紹介したことがあってね。相談員のサブ的な役割なんだが、けっこうな年齢になってから結婚相談所に来る人の中には、LGBTと地続きの悩みが見てとれるケースが案外あるものらしい。そういう場合にはそういう世界のわかる者がいると、的外れなお膳立てをせずにすむからね。まあ、蛇の道はヘビってやつかな。それで、まずまず重宝されていたようなんだが、ある日、その知人から電話があってね。アコが自分のしていたおしめを応接中にはずし、同席していた相談員の話によるとだよ、はずしたおしめを客の鼻先で絞ってみせたんだそうだ」
「…なぜ…なぜ、そんなことを」
「そういうことだ。ぼくは客との間にいったい何があったのかと、アコに直接電話してみた。するとアコが言うには、その客はまさしく性同一性障害を抱えており、しかも三十五にもなって、未だに自分が男になりたいのか女になりたいのか決めかねていて、それでともかく、結婚という行為がそれを解決してくれるのじゃないかと思って、やって来たらしいんだ」
「その、なんて言ったらいいのかしら。その客は男と結婚したいの、女と結婚したいの」
「相談はけっきょくそういうことも含めてだったらしい。で、アコはその客の、生きることに怯えているような目を見ているうちに、不意にアコ自身の人生に対する怒りがそこにオーバーラップし、雄であること、雌であること、その両方であること、そんなことは問題じゃない。わたしは、ビューティ・コンテストで優勝したほどの美しかったけど、ほら、いまはただのこんなオシッコもらしよ。そう言って、その客の前でいきなりおしめをはずし、制止されるのも聞かず絞ってみせたんだそうだ。ほら、これが人間様の行き着く先よ。あなたの正体よ。そう言って」
「それは、でも、一般的には奇行でしょうけど、奇行とは言えないわね」
「ぼくもそう思う、もちろん。しかし、結婚相談所をやっている知人にとっては、とんでもないことだった。当社のイメージを支えるべき人間が、下半身をさらけ出したんだから。温厚な結婚相談所の所長を刺し貫いたのは、それこそ失禁してしまいそうなほどの衝撃だったらしい」
「知らなかったわ。なぜアコは私に話してくれなかったのかしら」
桜井はワイン・グラスを揺らす手を止め、それから静かに視線を上げると、深い目の奥で私を見た。
「グラスの中に人は何かを見ると言うけれど…映画かなんかでね…その何かって、きっと自分の中に棲んでいた見知らぬ自分なんじゃないだろうか。その見知らぬ自分が、老いると、初めての客のような顔をして不意に顔を出すんだよ」
「これがあなたのグラスではなく、ここがあなたのお店でなかったら、私はこのグラスを叩きつけたいほどの気分だわ」
私は、目の前に横たわる、いま知ったアコの現実を睨みつけて言った。
「アコは、こみいった人生を耐え続けることに堪忍袋の緒が切れちゃったんじゃないだろうか。感情的にではないよ、理性的に。世間に対して、もう緒を切ってもよいと、冷静に考え抜いたんじゃないだろうか。ぼくにはそう思える」
「私がアコと理解し合っていたと思ってたこの何十年間はいったいなんだったの。私には何もわかってなかったのよ」
桜井が、黙って首を振り、その目で私を包み込もうとした。私は唇が細かく震え始めたのがわかった。桜井はやがて静かに席を立った。調理室に入った。桜井の言葉の残した余韻が、二十席ばかりの店内を呆然とした旅人のようにさまよっていた。
「かわいそうに」と私は声に出した。
アコが絞ってみせたおしめは、その尿は、アコの六十七年の人生そのものだったのだろうか。自らそれを嘲って、この世に滴らせたということなのだろうか。
私も席を立った。話は終わっていなかったが、席を立った。桜井がスウィング・ドアを押して調理室から出てきた。
「カルバドス。アコにとってはリーシの水という名のカルバドス。これは日本で手に入れられるカルバドスの中で最も悪魔的なオー・ド・ヴィだよ」
私が戸惑っていると、桜井がボトルを私の手に押しつけた。
「いいから。これを森のテラスであけてくれ。五人の先に逝ったトランスジェンダーたちと、すてきな時間をつくれるよ。それに…」桜井はそこで言葉を切り、私の背に手のひらをあてて、ドアの方へと誘った。「それに、偉そうなことを言って申しわけないが、人というのは、ただ一種類の時間しか生きられないものだろうか。アコの中には、同時に何種類かの時間が流れていたんだと思うよ。そうじゃないだろうか。君との時間の帯も、アコにとってはひとつの真実だった。何もわかってなかったなんて言うと、アコが悲しむ」
ドアが開いた。光が私を抱きすくめ、アコの微笑がその中に浮かんでいた。