双頭の性 第四場 ぐれた、不良の、じじいの女。

空が明るいのに雨が落ちてくる。翌日はそういう日だった。
駒沢公園というのは、近所の主婦が子供を遊ばせに来る、町角によくある規模の公園だと思うと、とんでもない目にあう。そういう話は聞いたことがあった。だから、覚悟はしていたのだが、ここまで広大な公園だとは思いもしなかった。二度も第二球技場の場所を訊いた。案内板も見た。しかし、案内板にある現在地と第二球技場とが、なかなか近づかない。不思議の森をさまよっているような気分だった。
それでとうとう私は、いかにも追っかけの娘たちらしい四、五人連れを見つけると、彼女たちのあとに従うことにした。白か黒かグレー。モノトーンにまとめることが彼女たちの仲間のしるしなのか、足首まである、でれりとしたドレス。ビニール傘。絶え間なく続けられるおしゃべり。いちようにロング・ヘア。
私はといえばジーンズに、実はスーパーの安売りで買ったLサイズの白いシャツの裾を出して、あいかわらず化粧もせず、ただでさえ性別の判然としない顔をさらに老化によって曖昧な性にし。深い皺に汗を浮かべ。そして、これだけは内心の女性を表している小花模様のプリントの傘をさして、多少の内股で歩いていた。
縮れたロング・ヘアを茶色と赤に染めわけた、一見してハード・ロックの連中とわかる男がふたり、雨に濡れるのも気にせず、石に座ってタバコを喫っていた。
追っかけの娘たちはどうやら彼らのファンではないらしく、そのままおしゃべりを続けながら通りすぎた。ふたりの男はまだ二十歳そこそこに見えるのに、目の縁が黒ずみ、怒り、反抗、破壊、そして無感動、思いつけるあらゆる反社会的な言葉の残滓をそこに浮かべていた。虚空を見ているような目に出会うのは、ずいぶん久しぶりのことだった。

第二球技場に近づくと、モノトーンの娘たちの大集団に呑み込まれたが、私はもはや驚かなかった。およそ五百人はいるだろうか。黄とか青とかグリーンとか赤とかの色はなかった。私は自分の花柄の傘が、あるいは彼女たちの三、四倍はある年齢が、この場で何を意味するのかわかっていたが、平然として入口を目指した。
麻々は電話で「来ればわかる」と言っていたけれど、まだ何もわからなかった。ポスターも立看板もなかった。正面の入口には鍵がかかっていた。好奇の視線をかきわけて、私は選手通用口と書かれた横の階段を降りた。ドアの所に茶色の髪を顔ふたつ分ほど逆立てた若者が立っていた。サッカーのジャージーを着ていた。久しぶりに色彩を見た。
蛍光色のグリーンに赤と黄のストライプが肩から袖口に走っていた。トランクスのサイドにも同じストライプ。赤字のゼッケンは8。8の字の上に黄色でローマ字が書いてある。ガンバSPと読めた。SPとは、スペシャルだろうか、セキュリティ・ポリスだろうか。案外セクシー・パンツかもしれない…などと考えながら入ろうとしていると、私はガンバSPから遠慮がちに押し返された。
「あのう、ここは関係者の…」
「わかってるわよ」私は肩口に置かれたガンバSPの手を見て言った。「麻々ちゃんに用なの。幻覚四重奏団の。麻々ちゃんが私に渡したいものがあるんですって。薫が来たと言ってちょうだい」
ガンバSPは私の性別になんの偏見も抱いていないことがすぐにわかった。
「ちょっと待っててください。あ、その間、ファンの子たちがこの中に入らないよう、見張っててもらえませんか」
「いいわよ。まかせといて。あなた、いい子ね」
いい子の意味を考えながら、ドアの奥に消えたガンバSPはすぐに戻って来た。 「どうぞ。まっすぐ行くとグランドに出ます。左手にベンチがあります。麻々さんはそこら辺にいるはずです」
「ほんとにいい子。話し方でわかるわ」
私はできるだけ謎めいて見えるように微笑して、中に入った。

きょうここで何が行われようとしているのかは、グラウンドを見れば理解できたが、私は理解できたそのことをまだ信じようとは思わなかった。
麻々を探した。
教えられたベンチには、七、八人のガンバSPのユニフォームのパンクスが、日に灼けていない顔に、トウモロコシ色や紫色や赤い髪を飾って座っていた。麻々はいない。女の子はいない、と思ったそのとき、ベンチの奥のドアが開き、黒い革のパンツと、春なのに黒い革ジャン姿の麻々が、からだ中に巻きつけた鎖の音をさせながら出て来た。挑戦的に腰を突き出し、左右に長い目の端でユニフォーム姿の男たちを一瞥した。眉は剃っていた。しかも描いていなかった。
私は麻々がロックの世界に入ったあとは会っていなかったが、それでもすぐに麻々だとわかった。目の下端で相手を見るその顎のしゃくり方は、まさしく麻々のものだった。
麻々は私を視線の一端に捉えたが、反応を殺してベンチの中央に腰をおろした。ガンバSPのパンクスたちも私に気がついてはいたが、選手通用口にいた若者と同様、私の性別に特別な興味は示さず、とくに何も見てはいない目を漠然とグラウンドに向けていた。
「麻々ちゃん」私は言った。
「麻々ちゃん」パンクスのひとりが私の言ったとおりに復唱した。
「麻々ちゃん」私はまた言った。
「麻々ちゃん」別なパンクスが言った。
麻々はすえた匂いのする長い目の、顔半分だけを歪めてパンクスたちを睨み、私を無視し続けた。
私もしばらくは麻々を無視することにした。あいている長椅子に腰をおろした。グラウンドに視線をやった。グラウンドでは、オレンジをベース・カラーに、白と濃いグリーンをアクセントに使ったユニフォームの連中が、カラフルな髪をたなびかせながら、ゴール前でのセット・プレーの練習をしていた。
明らかにこれはコンサートではなく、サッカーの試合をする準備だった。
私は緩慢なプレーを見ながら、子供の頃からスポーツを避けてきた自分の人生を思った。
小学六年生の頃。
私は年齢の離れた姉が化粧する姿に、そして姉の秘密めいたさまざまな化粧品に、内股を無数の虫が這い登ってくるような焦燥感を覚えた。思えば、それが私に潜む肉体とは異なる性、女性を意識した最初のできごとだった。
内股を這い登ってきた虫は、その後、私の表皮から体内深く潜りこみ、歩こうとする私の脚を内側からくすぐるようになった。ちょっと手を伸ばそうとしても、笑おうとしても、私はその虫の蠕動をチリチリと感じ、もう直線的には動けなくなった。虫はしかも、言うまでもないだろうが、好ましい異性、つまり男性を目の前にすると、激しくその数を増やすのだった。
そのとき以来だ、日に灼けることを避け始めたのは。
当時、私は色の白いことが女性らしさの象徴のように思いこんでいた。夏でも長袖のシャツを着て、衿を立て、首すじや腕を灼かないようにした。日陰から日陰をつたって歩いた。ふくらはぎに筋肉がつくことも嫌った。そのため、階段の昇り降りがあるたびに、時間をかけて、そろりそろりとからだを動かしたものだった。いまはもう、もちろん筋肉のことも日灼けのことも、どうでもよかったが。
「素人が四十五分間グランドで立ってるためには、あのくらいノロノロ動かなきゃもたないんでしょうね」そばに人の来た気配を察して、私はグラウンドに目をやったまま言った。「情熱もないみたい。これじゃあガンバSPの勝ちね」
「ガンバはもっとへたくそだよ」
抑揚のない声が答えた。声の源へと私は視線を上げた。麻々は私を見ないで言葉を続けた。
「でも、歴史的な一歩なんだよ。日が沈んでから目を覚まし、日の出とともに眠りにつく。これがパンクスの毎日だったのに、こいつらは昼間起きて、おまけに大嫌いな太陽…いまは雨だけど、太陽に肌をさらして、泥まみれで筋肉を使ってる。馬鹿げてるけど、これまでのイメージを変えるんだって」
「すてきな向上心じゃないの」
「お茶の間にパンクを。それがみんなの合言葉。一部のファンたちの病的な嬌声だけに支えられてちゃいけない。そのためには、新聞の政治欄も読んで、日の光の下でスポーツして、夜寝て朝起きる、それが大切なんだと気がついたんだって。一般ピープルと同じ生活をしてみるんだって!」
「へ~え。大改革なのね」
「日灼けしたパンクス。選挙があれば投票にだって行く。フン」
麻々はようやく私の長椅子に座った。あいかわらず私を見ようともせず。1メートルの距離をおいて。私はとりあえず雑談を続けた。
「何チームあるの」
「4チーム。だけど、4チームの中に、バンドの数でいえば26も。メジャー・デビューしたのも、まだやっとライブのはじっこにしがみついたばかりのも」
「あなたのバンドは何をしてるの。女も混じってボールを蹴るの」
「なあんにも。つきあいだよ。これは日本のロック界を二分するボスの大キャンペーンなんだから」
マイクが練習時間の終了を告げた。告げた男の声はまだ少年のようだった。ガンバSPの連中がのろのろと腰をあげ、雨のグラウンドに気のりしない様子で出て行った。ベンチは麻々と私だけになった。
私はむこう側のベンチにとぼとぼと帰って行くオレンジ・ベースのユニフォームの文字をなんとか読んだ。
「ホ、ン、ト、ハ、横浜…ほんとは?」
「横浜マリノスのように、ほんとは強いはずだったってことじゃない? ほら、手紙」
私が待っていた言葉は唐突に突きつけられた。そのため、私が麻々の方を向いたのは三秒もあとだった。
麻々は私を見ないで右手を伸ばし、二つ折りにした封筒を指先にはさんでいた。それが癖なのか、何かの感情を抑えて顔半分だけを歪めていた。薄紫色の封筒はすでに皺だらけだった。私は麻々の指の間から手紙を抜きとった。麻々は手紙のなくなった手をしまいもせずに言った。
「わたしのせいじゃないよね」
「…何のこと?」
「わたしじゃない、石原和彦の人生よ。彼が勝手に終えたのよ。そうでしょ」
麻々はそこでようやく手を引っ込め、いちどは革ジャンのポケットに突っ込んだ。が、その手を再び宙に浮かせ、やり場に困ったように白に近く脱色したロング・ヘアをかきあげた。急に早口になった。
「わたし宛には手紙も遺言もなかった。あのボロ家はもともと兄の名義だった、知らなかったけど。わたしに遺されたのは、けっきょく互助会に引き取ってもらった家財道具だけ。偽りの親子だったってことよ、やっぱり。店の方にはどれくらいつぎ込んでた?」
「ああ。なるほどね。それもあって、きょう私に会う気になったのね」私は座りなおし、麻々の横顔をまっすぐに見た。「残念ながらゼロ円よ。かつてはあったけど、アコにお金を用立てるたびに、半々に負担した敷金とかを帳消しにしてったの。椅子とかテーブルのお金も。お店のことは、だから遺言にはなかったはずよ」
フン。麻々は鼻を鳴らした。そして私を一瞬強く眼差したが、それ以上そのことで質問しようとはしなかった。めんどうくさそうに両脚を投げ出すと、灰色の空に焦点の拡散した視線を放した。
(おそらく麻々は、アコの遺すものに大して期待もしていなかったのだろうし、それ以上に関心もほんとはなかったのではないか)
そう私は想像した。いや、この様子では遺産どころか、世間にも仲間にも、食べることにも、そして多分生きていることにも興味がないにちがいない。
私は麻々の横顔を見ながら言った。
「それで、あなた、何か不満があるの」
「文句言ってんじゃないよ」唐突に麻々が立ち上がった。「じゃあ」
「待って」私も立ち上がった。「あなたに訊いておきたいことがあって来たの。あなた、アコにひどいめにあったの。殴られたとか、ひどいことを言われたことあったの」
麻々は眉のない、そのぶん内面のすえた感情がむき出しになっている細長い目をゆっくりと転じ、きょう初めてまともに私の目を見た。表情を消し去られていた言葉に、初めて生々しい感情がこもった。
「それがどうだっていうの。石原和彦は、年をとって、醜くなった自分に耐えきれず、わたしに当たり散らしたんだよ。だけど、そうされたからって、わたしが怒って家をおん出たなんて思わないでね。アコのヒステリーなんか、どうってことないよ。わたしには、アコがよくわかってる。言ったげようか。あのじじいの女はね、ぐれたんだよ。あなたに対してはどうだったのか知らないけど、アコは欲求不満の、コンプレックスむき出しの、女の不良の爺さんになっただけだよっ。でも、死んで身の始末をつける分別を残していただけ立派だよっ」
吐き棄てられた言葉の端が角を立て、ひとつとして呑み込まれることなく、私の目の前に散っていった。私がそれらをどこにどうしまおうかわからないでいる間に、麻々は挑発的に腰を揺すってドアの奥に消えた。
グラウンドでは麻々の言ったとおり、「ホントハ横浜」よりもっと怠惰な動きの「ガンバSP」のパンクスたちが、サッカーとも泥遊びともつかないもののために疲弊した青春を捧げていた。
雨足が強くなった。しかし、空は奇妙に明るいままだった。落ちつきどころのない不協和な気持は、その天気のせいでもあったのだろうか。私は競技場を出てしばらくして、やっと自分がまだ傘をさしていないことに気がついた。