双頭の性 第三場 幻覚四重奏団からの電話。

三日後。
久木野は再び私のアパートにやって来た。それは店に出る準備をしている一時間半前。いちばん忙しい時間帯のことだった。
久木野は司法解剖の結果わかったアコの死因について話し、最後に言った。
「これにて一件落着。あなたも麻々も無罪放免です。ぶしつけな質問の数々、どうぞお赦しください」
「だから最初に言ったでしょう、自殺だって。でもまあ、もういいです。私の方こそ感情的になってごめんなさい」
私はそこでわざと大げさに腕時計を見た。
「もう終わってしまったそのことより、私はいま、お店で出す大鉢料理を準備しなくちゃいけない時間なんです。これ以上あなたにつきあってると、開店時間に間に合わなく…」
久木野が大慌てで腰を上げた。
「失礼しました。いつか、お店の方にお邪魔することがあるかもしれません。いや、刑事としてではなく、プライベートで」
そう言うと久木野は、房飾りのついたスリッポンの靴を履いた。決して履きつぶした靴ではなかった。あらためて服装に目を走らせると、初夏を先取りした、煙ったような渋いグリーンのスーツを着ていた。刑事がよれよれの服装をしていなければいけないことはないのだろうが、私はもう何度目か、かねてよりの疑念に捕縛された。
去ろうとする久木野に私は何気なさそうに言葉を投げた。
「こう言っちゃなんですけど、最近の刑事さんておしゃれなのね。それに、少年みたいにすっごくナイーブそうで。もしかして…あなたって、ほんとに刑事さん? この前いただいた名刺のところに電話してみようかしら」
ドア・ノブにかけた久木野の手が止まった。
「たしかに私はテレビで観る刑事のようじゃありません」久木野はラテン民族のように肩をすくめてみせようとして、途中でやめた。「よく言われます。でも、どうぞお好きになさってください。私は帰ります」
言い終えた二秒後には、久木野はもう外にすべり出ていた。
私は急いで久木野の名刺の番号に電話をしてみた。予想に反して、久木野治という名前の巡査部長は神奈川県警の捜査一課に実在していた。ただし外出中。
でも、彼がその久木野なのだろうか。もしかしたら、何かのときに久木野の名刺を手に入れ、久木野になりすました「誰か」ではないのだろうか。
(でも、いったい誰が? なんのために?)
わからない。わかるわけがなかった。

久木野の話では、アコ、石原和彦は、灯油をかぶり、プロパン・ガス、つまり生ガスの栓をあけっ放しにしておいたあとライターで点火した。そのとき爆風で顔を壁に激突させ、頸椎にひどい損傷を受けた。そういうことであるらしかった。
荒川の土手下に離れてあるアコの家には、まだ都市ガスをひいていなかったのだ。そこまでお金に困っていたはずはないのだが、とにかくアコの家にはガスがひいてなかった。
(いつか自殺の手段に使うつもりだったのかしら)
まさか。
まさか、だった。
それにしても、久木野の使った生ガスという言葉が、私には妙に実在感を帯びて感じられた。しっとりと、人の命にまとわりつく濡れた物体ででもあるかのように。
その生ガスのドカンという爆発音を聞いた者があった。それから煙。それを見た人が消防署に電話し、火は半焼の段階で消しとめられた。全身の火傷の度合は案外軽かったが、気道内にもやや多めのメタンガスが認められ、煤も付着していた。火傷のしかたからしても、生きているうちに炎をかぶったことは明らかだった、と久木野は語った。つまり、誰かが首の骨を折った死体のあと始末のために放火して逃げた、という疑いはけっきょく消えたというのだった。
遺書はなかった。
しかし、万一の場合の連絡先その他のメモが、わざわざ耐火金庫に入れられていたこと。よく自殺者がやるように、死んだ日が自分の六十七歳の誕生日であり、小さな仏壇に新しい花が供えられていたこと。身のまわりの品がことごとく整理されており、争った様子もなかったこと。それらの状況も自殺を指し示していたということだった。
それにしても、灯油をかぶった自分のからだに直接火をつけるのではなく、生ガスを充満させた家に火を放って死ぬとは、ずいぶん技巧的なやり方と言えた。
が、灯油を自らかぶっている以上、事故死とは言えず、その点をとっても焼身自殺をはかったと断定してまちがいはなかろう。そう久木野は自分自身を納得させるように言った。それから、鼻の小皺にかすかな嘲りを漂わせてつけ加えた。
「ただ、爆風で壁に激突することになろうとは予想していなかったでしょう。そのおかげで炎の恐怖をあまり味わわずに死んだのかもしれませんが」

石原和彦には、初めて知ったのだが、兄弟がいたらしい。これも久木野から聞いた話だが、万一の場合の連絡先に書いてあった唯一の人物が島根県で高校の先生をしていた兄で、その兄が葬儀をした町内の互助会の連絡を受けて上京し、あとの始末はつけたとのことだった。
(その兄というのは、きっと数学の先生をしていたのね。四角い顔をして縁の太い眼鏡をかけて)
私は何の理由もなく、そう思った。アコのようにこみいった性を持って生まれた人間には、そういう確かな輪郭をした兄弟がいてほしい気がしただけだった。
アコは自分の家族のことをとうとう一言もしゃべらないで死んでいった。兄とはいったいどういう往き来をしていたのだろうか。兄は、弟の性同一性障害をどう理解していたのだろうか。麻々のことは聞いていたのだろうか。
麻々…珍しく、あの子の名前をすんなり言えたわ…麻々といえば、彼女の居所はわかったのかしら。あの子は育ての親の死を知っているのかしら。
私は久木野に麻々のことを訊き忘れていたことに気がついた。
(麻々ちゃんには、いずれ、アコの狂暴性のことを確かめてみなくちゃね)
仮にアコが麻々につらく当たっていたとしても、私のいわゆるアコ像が変わるわけではないのだが、麻々がアコをどう思っていたのか、麻々がどう言うにしろ聞いておきたい気がした。
(それにしても、アコは万一の場合の連絡先になぜ私のところも書いてくれなかったのかしら)

麻々の居場所の探し方を考えているうちに、二日たち三日たち、そうこうしていると麻々の方から店に電話が入った。
「薫っていう人、いますか」
棒っ切れで人を叩くようなものの言い方だった。聞き覚えがあるような、ないような。
「あなたは?」
「薫っていう人、いませんか」
再び棒が頬を打った。私は頬の痛みに白々とした目を向けながら言った。
「私が薫よ。あなたは誰なの」
「麻々。石原和彦に育てられた」
「そ…育てられた…?」
私はそこに麻々がいるかのように天井の隅を睨みつけた。育てられたくもないのに育てられた、そんな被害者のようなニュアンスがそこにはあった。
「麻々ちゃんね、ああそうね。そういう声をしてたわね。声の出どこの顔も思い出したわよ。どこにいるの、あなた」
私はどうにか感情を抑え込みながら会話を続けた。
「あなたへの預りものがあるんだ。兄から、えーと、石原なんとかという兄が松江から手紙を寄越して、その中にあなた宛の手紙が入ってた。渡さなくちゃいけないから住所を教えて」
「あなた宛って、誰から私宛に? 弟からの? 兄からの?」
「石原和彦から。耐火金庫にあなた宛ての手紙もあったんだって」電話の中の声は、私との会話を早く終えて、とっとと別なことにかかりたい様子がありありと表れていた。「住所は?」
「お兄さんには、よくあなたの居場所がわかったわね」
私も自分の訊きたいことを言った。
「どうして? あたりまえじゃない。石原和彦はわたしの住所も電話も知ってたんだから」
「だって…まさか。アコはあなたの居所がわからないって言ってたわよ。警察だって同じことを」
「石原和彦があなたにすべてを明かさなきゃいけない必要がどうしてあったの。警察がわからないと言ったのなら、それは別の理由だよ。この三週間ばかり、わたしは家に、自分のアパートに帰ってなかったから」
私は受話器を耳から離し、客のひとりもいない、薄暗い店の中に呆然と視線を漂わせた。受話器の中では麻々が棒の先端で私の背中をつついていた。もしもしっ、もしもしっ、手紙は渡さなくていいのっ。
「もしもし」私は静かに言った。「ごめんなさい。ありがとう、ご親切に、わざわざ」
「早く住所!」
「いいわ。送ってくれなくても。いいえ、そういう意味じゃなく、取りに行くから。どこに行ったらいいか教えてちょうだい。あしたの午後二時頃は、たとえばどこにいるの」
麻々の方に今度はしばらく間があった。が、ようやく言った。これまで以上にぶっきらぼうな声だった。
「駒沢公園の第二球技場」
「駒沢公園…そう、わかったわ。そこでコンサートね」
「違う。来てみりゃわかるよ」
「何時に行けばいいのかしら。二時でいいのね」
私は我慢した。相手を麻々だと思わなければ、あるいは、自分に温かくしてくれる者などほとんどいなかった人生を思い出せば、麻々の失礼ぐらい感情から切って捨てるのはわけないことだった。
「バンドの名前はなんていったかしら、あなたの」
「ゲンカクシジュウソウダン」
「ゲンカク? ゲンガクじゃないの」
「ゲン、カ、ク!」
「幻を見るような、あの幻覚の四重奏団ってこ…」
電話は私の言葉の途中で切れてしまった。何が麻々をこんなにもいらだたせているのか、わからなかった。それが自分に向けられているものなのか、石原和彦という育ての親に向けられているものなのか、あるいは俗にオカマ、オネエ、オトコオンナと蔑視される存在に向けられているものなのか、よくわからなかった。
麻々にあす会っても、得られるものはこの電話以上にはないのかもしれない。しかし、それはそれでよかった。期待というものをしなくなってから、どれくらいたったのかさえ、もう忘れてしまった。
(それにしても、どういうことなの。アコが私に手紙を遺してたなんて)