双頭の性 第二場 性同一性障害を理解できないと、刑事も困惑するばかり。

私たちは座卓をはさみ、互いに正対しないよう顔を窓に向けて座っていた。
この刑事が住まいの様相から私の人格を推察する気があるとしたら、おそらくそれはとてもたやすいことにちがいない。
小花模様のカーテン。半分開いたアコーディオン・ドアのむこうにはピンクのベッド・カバー。むき出しのパイプの衣装掛けには、これもピンク系のロング・ドレス。よく見れば、袖口や襟元に小さな花の織り柄があることに気づくはずだ。
これらの好みが、乙女っぽい結婚願望を持った、そして女性っけの殊に強い女の特性でないとしたら、他になんと言えるだろう。
(しかし…)
しかし、といまは言わねばならない。
そんな持ち物が居住者の人格とオーバーラップしていたのは、もう十年以上も前のことだった。
ジーンズにトレーナーを着て、しらがまじりの髪のすそを刈り上げている現在の大館博の、いったいどこをどう延長すれば、このような嗜好に至れるというのか。自分でさえ、それは無理というものだった。
声もかつての光彩を失ってしまった。
大館博、すなわち、わたくし薫は、たしかに女言葉で話している。が、その声音はすでに古び、性別さえ失いかけているように自分でも思う。
かろうじて往年の女らしさを漂わせているものといえば、小づくりの鼻、小さな唇、小さな顎。もし観察眼の鋭い画家がそれらに閉じ込められている繊細さに気がつけば、こんな私にだって男性を惹きつけた華やかな過去があったと、充分にわかるはずなのだが。

窓の外につらなる民家の屋根のむこうには、いまどき珍しく煙突が見え、煙をたなびかせていた。そして煙突の足元には、何本かの遅咲きの桜が見えていた。
私がその枝から離れて宙に漂う花びらのことをぼんやり想っていると、久木野が言った。
「ちょっと訊いていいですか」
「さっきから訊いてるじゃありませんか」
「あなたは完璧な性転換者だと聞いています。そうですね」
「性転換じゃありません。本来の性別、つまり心の性別に肉体を適合させた、それが正しい言い方です。理屈を言うようですけど」
「…そう…そうですか…なるほど、そういうことなんですね。失礼しました。で、質問に戻りますが、そうなんですね」
「そうですよ。誰に聞いたの」
「ところが、アコ、石原和彦さんはそうじゃない。豊胸手術だけはしているが、それも成功しているとは決して言えない。性器も世間の男性のものと変わらなかった」
「ちょっと待って。私のことを誰に聞いたの。なぜ私のことを嗅ぎまわってるの」
「あらゆる可能性を検討しています。テレビ・ドラマの刑事でも、ほら、そうでしょう」
私は背すじを立てて、まっすぐに現実の刑事を見おろした。久木野治というその男は、しかしすでに自分の疑念の海に漂い出ていた。
「あなた方のような人たちを、そのう、よく知らないんですが、石原和彦さんになんの遜色もない男性器があって、あなたに女性の性器に類するものが作られているということは…」
「やめてくださいっ」私は久木野の言葉をさえぎった。下瞼が痙攣しそうになるのをこらえた。「なんとまあ、あなたって人は!」
「そうだったんですか?」
答のかわりに私は目元を絞り、冷えびえとした視線を窓の外に逃がした。しかし、久木野は続けた。
「お二人はひとつの店の共同経営者だった。十年もの間。奇跡的なことでしょう、あなたの業界では。そのすてきな十年間のことをお尋ねしてるんです」
私は感情を目の奥に押しとどめたまま、久木野を見ないようにしていた。見ると、生の感情があふれ出てしまいそうだった。私は捧のように答えた。
「あなたがいまうす汚い脳の片隅で考えているような事実は、いちどとしてありません」
久木野は首を傾げてみせた。私はとうとう声に角を立てた。
「いいですか。アコも私も、からだは男なのに心は女に生まれついた人間なんです。世間じゃそれをいまやっと障害者だと気づき、ごたいそうに性同一性障害とかなんとか呼んでくださってるみたいだけど、伝統的な言い方をすればオカマよ。オネエ、オトコオンナとも言いますけどね。あなただって、心の底ではそう思ってるんでしょ。アコも私も、いちども女性には性的な興味を抱いたことがないんです。なぜって、からだは男でも心は女なんだから、当たり前じゃないですか。胎児のとき、脳が心とからだの性別を合わせることに失敗しちゃったんです」
「えーと…てことは、ややっこしいな。あなたとアコは男性に性的関心を抱く者同士の関係…つまり、その点だけで言えば、いわばゲイ同士と…」
「ちょっと。その言い方は何?」私は久木野をさえぎった。「アコの死を私との痴情関係のもつれに結びつけたいんでしょうけど、失礼にもほどがありますよ。違います!」
久木野はしかし、私の憤りを感じ取っているのかいないのか、身の内からこみ上げてきた苦い汁を飲んだような横顔をさらし、自分の手のひらに視線を落とした。
(何かおかしい)
久木野は明らかに刑事という職務以上の内向した感情を抱いているように思えた。
(もしかしたら彼は、同性愛者に向けた嫌悪感をブーメランのように旋回させ、その還ってきた先に自分を置いた…?)
そのとき。
そんな私の疑念を押しのけるように、久木野が質問を再開した。
「まあ、それはそれとしましても、アコ、石原さんについてはその種の話…つまり男性の同性愛者、ゲイだったという話を耳にしました。そうなんですか」
「あら。よく調べたのね。そう、そこまで知ってるのなら、じゃあ、アコのために解説しておいてあげなくちゃね。たしかに、アコがそういう暮らし方をしていたことは私も知っています。アコは異性、つまり男性と一体になりたいという憧れを抑えきれなかったんでしょうね。からだは男のままで、ある時期、男性と過ごすようになったんです」
「その相手の男性もゲイ?」
「さあ…多分…いいえ、わかりません。そのことより、話をややっこしくしてごめんなさい、アコにとっては、心で見るかぎり同性愛じゃなかったんですよ。パッと見には男性同士、ゲイのカップルに見えたでしょうけど、違うんです。なぜって、アコは女性の心で男性の心をした人に近づいたんですからね。完全な異性愛です」
「ああ、ほんとに、ややっこしいですねえ」
「ややっこしいんです。だから、アコもすぐ、そんなややっこしい関係をやめたんです。そして、ふつうの男の人が好むふつうの女性になろうとして女性ホルモンを摂り、胸をつくり、女装を始めたんです」
「なるほど。しかし、彼はけっきょく性器の手術まではしませんでしたね」
「ええ。私のように手術までする者。手術はしないけど、心の性別を表に出して世間を渡る者。それから男か女かという二分法ではなく、第三の性の存在を主張する者。あるいは障害を一生隠し通そうとする者。人により生き方はさまざまです」
「いろいろなんですね、ひとくちに性同一性障害の人…トランスジェンダーといっても」
久木野は上目づかいでじっと私を見つめていた。いや、私を見ているのではなく、私の言葉の奥に潜むものに目を凝らしているかのように見えた。
先ほどもそうだったが、久木野はやはり、刑事の仕事を遂行するのに必要である以上の関心をトランスジェンダーに持っている。そういう気が私は再びした。
久木野はそのまましばらく沈黙していた。私には何が久木野をそんなに考え込ませるのか、理解できなかった。
やっと久木野が口を開いた。
「そんなむずかしい生まれつきでありながら、とにもかくにもあなたは見事に女になられた。その意味では、あなたはもう障害者じゃありませんね」
「いいえ」私は久木野の言葉の前に背筋を立てた。「そんなイージーに言わないでください。正確に言うなら、見事に女になったつもりが、まだ男と言われている女になったにすぎない、そう言うべきです」
「し、しかし…そうは言っても、いまは戸籍を変えられるでしょう。あなたは戸籍上も女性として…?」
「ええ。でも、戸籍は万能じゃありません。いいですか。戸籍を変えたって、以前は男だった女、いつまでも世間はそう言います。馬鹿げてます。その馬鹿ばかしさが私の現実です」
「なるほど。そういうことですか。わかりました。いや、なんとか理解できたと思います」
私は久木野の得心がほんものかどうか、しばらくその目の中心を見つめていた。ほんものらしかった。久木野は言った。
「ということはですね、ここで話を戻してもいいでしょうか。ええと、養女と石原和彦の間にも何もなかった、ということなんでしょうか」
「ほんとに…ほんとうに失礼ね。私が女以上の女を目指してきたのでなければ、このいま、あなたに座卓を投げつけてますよ」
「はあ…女以上の女を目指したのでなければ…というと?」
「もういいっ。説明する気はありませんっ。いいですか。肉体は単なる容れものです。性別を決めるのは心です、からだじゃないっ。いかに男性器があるからって、アコが麻々ちゃんに何をしたって言うんですっ。しかも親子ですよっ」
私は気がついたら両手の拳を握りしめ、久木野の方に身をのり出していた。私はその芯の冷えた怒りに蓋をしようと立ち上がり、久木野に背を向けた。
「勝手にしてください。これ以上あなたと話をする気はありません。こんな下劣な詮索をして、なんの役に立つんです。もう帰ってくれません!」
「最後にひとつだけ。石原和彦さんはなぜ自分の娘にあんなにつらく当たったんでしょう」
「またそれ! 私はつらく当たったなんて知らないって言ったでしょう」
「でも、どうしてでしょう」
久木野はしつこく食い下がった。私は久木野を振り払うように叫んだ。
「もし仮に、仮にですよ、近所の噂どおりの場面があったのだとしたら、それは、世間の女どものいけ図々しさに対する私たちオトコオンナの憎悪ね」
私は久木野を睨みつけた。久木野は私の抑えがたい感情には興味のないふりをして、私の説明を待ち続けていた。私の気持はとうとうブツブツに切れた。
「からだが何ですっ。からだが女でも、私たちより男っぽい女がうんといるのよ。女のからだにあぐらをかいて、平気で男を丸出しにしてる女が大勢いるじゃないっ。そうでしょっ。麻々という子だって、きっと、自分のことは棚にあげて、アコの女らしさを侮辱したのよ、きっとそうよっ。あの子は、自分が女であることを自覚したとき、育ての親の創られた女らしさを下に見始めたのよ。もしアコがつらく当たったのだとしたら、きっとそれよ、それが原因よっ」
そこまで一気にまくし立てると、私はこの場を、あるいはそう言ってしまった自分を切り捨てるように、窓の外に目をやった。が、その目には、煙突も桜も見えなかった。
「そうかもしれませんね。複雑な事件です。すべてがほんとらしく思える」
久木野はやっと立ち上がった。
「私はアコの狂暴性なんて信じませんからね」
「いいんです。あなたにとってはそれが真実なんでしょうから。私はあなたの言われたことが嘘だなんて言ってませんよ」
久木野はまだ問いきれなかった謎があることをありありと背中に残しながら、それでも靴を履いた。私は久木野を見ようともせず、自分自身の姿をも俯瞰しているような、いつもの自分に戻った。
「また、おじゃますることがあるかもしれません。お手間をとらせました」
もはや言葉を交わす気はなかった。ドアが開き、閉まった。私も目を閉じた。閉じた目の中に、半焼した土手下のアコの家が現れた。
「あなた、生きてるばかりが人生じゃないのよ」
死の数日前、アコが私の手を包んで別れ際にそう言ったときの、手のぬくもりを思い出した。が、その手の先にあるはずのアコの目は思い出すことができなかった。思い出せないはずだった。アコはわざわざ横を向いて、そう言ったのだった。