双頭の性 第一場 老いたトランスジェンダーが焼身自殺をした。

<目次>
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「アコはいつもテレビに背中を向けて座っていました。肩を落として。老婆のように。差し歯をはずすと、アコはお婆さんのように見えました、お爺さんではなく。刑事さんには、どうでもいいことでしょうけど、アコには大切なことなんです。女に見えるということが」
久木野という名の刑事は、私の話を上目づかいに聞いていた。年齢はおそらく三十代半ば。職業は繊細であっては務まりそうにない刑事なのに、その目には未だに十代のような屈折した幼さが残っていた。私はテーブルの上の久木野の名刺を自分の方にまっすぐ向けなおし、それから続けた。
「で、テレビの話ですけど、観る気がないなら消しなさいって言ったんです。でもアコは、音がなくなると耐えられない、そう言ってました。テレビをつけてれば、そこに世間があるでしょ。どんなに大嫌いな世間であろうとも」

石原アコが死んでいた。私が訪ねて行った前日に。
浅草からおよそ10分、東武線の堀切という駅のそば。荒川の土手下の、敷地が十五坪ほど。荒壁の上に板張りを施した平屋づくりの自分の家で。それも半焼した自分の家で。
葬儀はすでに町内の互助会によって段取りされており、私が手を貸す必要はなかった。それは事務的と言えるほど、とてもスピーディに行われていた。ただし、変死扱いということなので警察の調べがあり、すぐに執り行われるわけではなかったが。
私は、だから、通夜にも葬式にも出なかった。自分のアパートでひとり手を合わせ、別れを告げた。

堀切の住まい、そこをアコは十数年前に格安で買った。隣家はない。庭はない。庭といえるのは、六畳の和室のガラス戸に向かい合った土手の斜面。そこには春先にはタンポポ、シロツメクサ。夏になれば、アコが好きで植えた風蝶花という、一夜かぎりの命をさずかる花が咲くことになるのだが。
石原アコ。
本名はアコではない。石原和彦という。
年齢のことはわからない。化粧をしていないときのシミの様子や、頬や下瞼のたるみ具合は、もう六十代半ば、あるいはそれ以上ではないかと私は思う。
私も通り名は女性名。薫という。本名は大館博。私自身、アコとあまり年齢のへだたりを感じたことはなかった。
私は、寄る年波か、歯周病でぐらぐらし始めた上の前歯を舌の先で触って、それから言った。
「いい風が入るでしょう。花を散らしてくれるいい風。桜って散るときがいちばん好き」
「へえ。散るのが好きだなんて変わってますね」
「ものが終末に向かって息をひそめてゆく、それって心を引きつけられません? 桜だろうと、一日の終わりだろうと。私はすでに自分ではなくなりましたからね。そういうものについ感情移入してしまうんです」
「すでに自分では…なくなった…?」
「もう二十年以上も前のことです、私が私でなくなったのは」
「はあ…」
「わからなくてもいいんです。アコもそうなんです。だから自殺しちゃったんですよ」
「あの人、自殺だったんですか。そう思うんですか」
「自殺じゃなかったんですか」
「さあ、どうでしょう」
「事故だったんですか。その可能性もあるんですね」
「可能性という意味でなら、まだほかにも考えられます」
「わかりました。そういうことですか。でも、まさか殺人だなんて」
「察しのいい方ですね」久木野は決して口先ではなくそう言ったが、しかしすぐに声のトーンを変えた。「あなたは、なぜ合い鍵を?」
「合い鍵? 合い鍵ですって? 鍵でしょう。合い鍵だなんて、そんな」
「合い鍵じゃいけませんか。同じことでしょう」
「いいえ。刑事さんが合い鍵と発音したとき、そこには疑り深いニュアンスがありました。私がアコと秘密の関係にあるとでも言いたげな」
久木野は心の奥底を見透かされたことに苦笑し、あらためて上目づかいの視線を私にすえ直した。
私は久木野の名刺をもういちど手に取った。
神奈川県警察本部刑事部捜査第一課 神奈川県巡査部長 久木野治
(神奈川県ですって? いままで気がつかなかったわ。アコは東京の足立区の住人なのに、どうして神奈川県警の人が調べてるの)
「ちょっといいかしら」
「なんでしょう」
「そんなに大きな事件なんですか。そんなはずないんじゃありません? 東京の警視庁と神奈川県警が合同で捜査にあたるほどのことなんですか、これは」
私は渡された名刺を久木野の眼前でひらひらさせた。久木野の唇が開きかかり、それから喉仏がゴクリと動いた。それは明らかに、いちど出しかかった言葉を呑み下したように見えた。久木野は数秒後、ことさら無表情を装って言った。
「さあ、どうなんでしょうね。それより、私の質問に戻ってください。合い鍵のことです」
私は久木野の反応にしばらくつまずいていた。久木野は合同捜査のことで何を言いそうになったのか。もしかしたら、アコの死は自殺ではなく、放火、それも殺人を意図した放火の可能性があり、しかもそれが、以前から都県にまたがる広域捜査の対象になっている事件と関連しているとでもいうのだろうか。
「あなたが鍵を持っていたのは…」
久木野は私に答を促した。私はいたしかたなく久木野の差し出す現実に戻った。
「最初からあったスペア・キーをアコはくれたんです。そして自分の子供…いっしょに暮らしていた養女には、あとになってからコピーをつくってやったんです」
「それほどの仲だったんですね。あなたは彼女と、いや、石原和彦さんと」
「それほどの仲という意味が、どれほどの仲を指しているのか知りませんが、彼女と私は四十年近いつきあいで、あるときはこの道の先輩と後輩、あるときはバーの共同経営者、この十年ばかりのことですけど。そしていつも心からの友人としてつきあってきました。アコの悩みは、私の悩み。そんな間柄ですから、アコは鍵を私にも持っていてもらうことで安心してたんです、ひとりぼっちではないと。いつでもアコは、私に向かって開かれていると。わかります?」
「しかし、彼女に養女がいたということは、ひとりぼっちではなかった」
「ええ、たしかに、形の上では。でも、いわゆる親子というのとは違ってました。けっきょく、お互いにひとりぼっちだったんじゃないかしら。アコはあの子を自分の女性らしさが失われていくことへの埋め合わせとして育ててたんです。交通遺児だったあの子を養護施設っていうのかしら、しちめんどくさい許可をすったもんだして裁判所からとりつけて、五歳か六歳のときに引き取って。そのとき、私は反対しました。だけど、アコはこれから一日一日、あの子の中の女性らしさを磨き出すんだと言って。でも、どうかしら、代償作用にはならなかったんじゃないかしら。あの子、えーっと、名前が思い出せないけど、ほんとにいやになるわ、このど忘れ」
「麻々(まま)」
「麻々。そう、そうよね。アコは麻々ちゃんが自分というものを意識するようになると、多分出て行く。それがわかってたんじゃないかしら。あの人、アコは、内心ではだからずっとひとりぼっちだったと思います。もう、麻々ちゃんとは話をされたんですか」
「いずれ、そのうち」久木野はそこでまた声の調子を変えて、何気なさそうにつぶやいた。「どこに行ったんでしょうね、麻々という子は。心当たりはありませんか」
「行方がわからないんですね。だけど、そう言われても私にもわからないわ。もうかれこれ…そうね、二年ぐらいたつのかしら。女ばっかりのパンク・ロックのバンドをつくると言って高二で中退して、アコの家を飛び出してから。アコにはときどき一方通行的な電話がかかってくる。そういう話は聞いてたけど、私にはそれ以上のこと、わかりません」
「まあ、すぐに見つかるでしょう。彼女にうしろめたいところがなければ」
「彼女が放火したとでも? あるいは殺したとでも」
「そんなことは言ってませんよ」
「そう。そんなことは言えませんよね。あんなにやさしくしてたアコをあの子が殺すなんて、理由がわからないわ」
「え? やさしくしてた? いま、やさしくしてたと言われましたか」
久木野は内心の疑念をわざわざ表に出すために、目をしばたいてみせた。
私の方は久木野が抱いた疑念に対して、どうしてそんなことを訊き返すの、そういうふうに口をすぼめてみせた。
「やさしくしてたっていう、その根拠を聞かせてくれませんか」
久木野は私の反応を押し返すように言った。私は答える前に、四十年近い客商売で鍛えた目をあらためて久木野にすえた。
久木野には、こうして職業上の質問を重ねながらも、まったく向いていない仕事をしている人間にありがちな、憤懣と自己憐憫にいつも足を浸しているような印象が強くあった。そして、おそらくはそれがときどき毛細管現象のように這いのぼってくるせいだろう。目の底に年齢不相応な危なっかしさを宿しているのだった。
私の沈黙に久木野は三たび同じ質問をくり返した。
「石原和彦という人はやさしくない、というのが近所の人たちの評判ですよ。石原和彦さんは養女に対して狂暴でさえあった、そう言った人もあります」
「うそ…信じられないわ。私がやさしくしてたという根拠は、言うまでもありません、そういう場面しか見たことがないからです」
「どっちがほんとの関係なんでしょうね」
知るもんですか。口にこそ出さなかったが、私はかわりに久木野を視界から切り捨てた。
「麻々ちゃんがアコの暴力に耐えかねて殺したとでも? そんな馬鹿な」
「しかし、その種の噂をする人もいるんです。もちろん無責任にですが。ところで、あなたに対してはどうでした? この四十年という歳月を通じて」
「こんどは私? 私とのことを訊くのね」
蔓草のように巻きついてくる執拗さ。これが刑事というものか。私は久木野との間合いを取り直すと言った。
「お答えしましょう。それは、感情の制御が自分の思うにまかせない、もっと若い頃からのつきあいですからね。炎のようなときも氷のようなときもありましたよ」
「ぶしつけな質問ばかりしますが、大切なことなので。そんなときですね、あなたは石原和彦さんから、一種、なんていうか、殺意のようなものを感じたことはありませんでしたか。あるいは、この人に殺されるかもしれないという怖れのようなものを」
「なぜ」
私はもう何度目か、いま消えたばかりの言葉が残した臭いをたどった。この刑事はアコの死に、いったい幾種類の疑惑を抱いているのだろうか。白々と答えた。
「ありません」
「そうですか。では、次の質問です。逆にあなたが石原さんに殺意を感じたことは?」
「何を言うんです。あきれた人。あなた、どうかしてません? あるはずないでしょう。あたりまえじゃありませんか。いったい何を疑ってるんです」
久木野は私にわざとらしい微笑を返してみせた。それはさもベテランの刑事らしく見せるテクニックかもしれなかった。私は首を振った。もし私が演出家だったら、こんな演技、絶対にやめさせるわ。