不戦の王 コラム「鉱業国家、蝦夷」

<目次>
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日本の採鉱は、縄文時代草創期に始まったと考えられている。
北海道白滝遺跡の黒曜石採取跡がそれで、
長野県鷹島遺跡では同じ黒曜石の採掘坑も発見されている。

金の採鉱は、砂金の採取が始まりだった。
真の開始時期ははっきりしないが、
最初に記録に表れたのは白鳳時代文武二年(698年)の
対馬の金鉱、次いで奈良時代の天平十二年(749年)の
聖武天皇治世下、東大寺の大仏を金色身にするための黄金が
陸奥から献上されたとなっている。
その量、初回が2万5千134両。
1両が42グラムというから1060キロにもなる。
それを年に二回ずつ。十年間も送り続けたという。
この数字を見てもわかるとおり、
陸奥の産金は相当大がかりに行われていたらしい。
産金地としては、宮城県に黄金山産金遺跡が
見られるのをはじめ、
岩手県南部の気仙地方の山々(今出山金山、玉山金山、
雪沢金山、馬越金山、蛭子館金山その他)が主である。
蝦夷時代の陸奥は、世界でも屈指の黄金地帯だった。

次に採金の方法だが。
砂金の場合は、川床にムシロを敷いて
金の流れ出た川砂を集め、余分の土砂を流して
ムシロの網目に残った砂金を採取する。
このあたりの情景は、ハリウッドが
西部劇を盛んにつくっていた頃のゴールド・ラッシュの場面、
それとオーバーラップするものがある。

そこから純金を得るためには、さらに揺り板で洗取する、
鉄鉢で擦る、鹿革の袋で水銀を絞り出す、
鉛と共に溶かして分離させるなどなど、
たいへんな工程を経る。
土の中にある土金、岩盤に含まれる岩金の場合は、
石臼で鉱石を砕くところから始まるが、
あとの工程は同じらしい。

他方。
製鉄の歴史も古い。
弥生時代には青銅器の鋳造が開始されたと見られるが、
鉄精錬の遺跡は発見されておらず、
五世紀末の広島県見土路遺跡が最古とされている。
が、弥生末期、三世紀説もあり、
このあたりの結論には今後の研究が待たれる。

製鉄は西日本、とくに中国山地で盛んに行われたが、
東日本では北上高地がその中心だった。
北上高地は別名「鉄の山」とも呼ばれたように、
「餅鉄」という鉄分を70%も含む
純度の高い鉄鉱石を産出し、
その粘り、切れ味は武器に最適と重宝された。
製鉄の技術について言えば、
朝鮮半島から渡来したものと、
沿海州の粛慎(みしはせ・ダッタン人)から渡来したものと
二つのルートがあるようで、蝦夷社会のは後者。
後者の技術の方が、倭人社会に渡来した前者より
優れていたと言われている。

このようなわけで、蝦夷という民族は、
征服者である倭人社会に残る記録から見るかぎり、
まるで蛮族扱いをされているが、
じつは古くから進んだ鉱業国家であり、
その豊富な黄金と鉄製品によって、
大陸から多様な民族と物資を引き寄せていた。
だからこそ大和朝廷の頃から、
倭人は侵略軍を遣わし、柵(砦)を造り、
移民を送るなどしてなんとか皇化を試み、
一方では冶金に携わる蝦夷を拉致して
産鉄の指導にあたらせたりしたのである。
陸奥の金はやがて底をつくことになるが、
北上高地の製鉄の方は時代とともにいっそう盛んになり、
江戸末期には釜石に十座にも及ぶ高炉が築かれた。
釜石が日本の近代鉄鋼業の発祥の地となった背景には、
このように蝦夷の時代からの文化、技術の
積み重ねがあったことを見逃してはならない。