旅人(2)

磯崎は善光寺を後にして、有珠駅に向かった。真夏の焙られるような熱気の中、徒歩で一〇分ほどの距離だが、七〇を過ぎて、癌を患う磯崎は一五分もかかった。
有珠駅に着いた時には、全身に汗が流れていた。
駅舎で数組の海水浴客が談笑していた。子供が親の回りを走り回っている。小さな売店で、海水浴客目当ての麦わら帽子が店頭に並んでいた。不思議なことに、冷房の効いた駅舎にいると、帽子が欲しいとは思わなかった。
駅舎のベンチに腰を降ろして時刻表を見た。上り室蘭本線札幌行きが通過する時間まで、一時間ほどの間があった。
磯崎は七十になった頃から疑問に思っていた問題が解決され、晴れ晴れとしていた。この世には何の未練もなかったが、冥界という未知の世界が怖かった。だが、住職の話を聞いて安堵したのである。住職は(冥界とは、慈愛に満ちた、何の恐れも穢れもない平和な世界なのです。勿論生活の心配はないし、暑くも無く寒くも無く、芳香に満ちた世界なのです。そりゃそうです、家族を支え守って、必死に生きた人間の最期にたどり着く場所なのですから酷い世界である筈は有りません。そもそも、現世に生きる人々は総て旅人であり、旅の終わりには天上に戻り、再び旅に出る。これの繰り返しの一つが人生なのです)と教えてくれた。とすると、死後の世界は安楽の世界なのだから、貧乏と病に苦しみながら現世で生きながらえる必要は全くないのである。
礒崎にとって、今、いや今後も現世においては失うものは何もなかった。幸いにして、年金で最低限の生活は維持できた。だが、手取り十二万ほどの年金では贅沢は望めない。捨て扶持で生を永らえることに意味はない、ずっとそう思っていた。社会にとって、年寄の長生きは無駄なのである。磯崎が身に付けた技術は、科学技術の発展によって今は何の価値も無くなった。だから、磯崎は社会から疎外され、邪魔者扱いされても仕方が無いと思っている。
今、磯崎と現実社会を結び付けているのはテレビとユーチューブ、それと毎朝新聞だけだった。ユーチューブの情報によると、毎朝新聞やテレビはフェイクニュースばかりだと攻撃している。磯崎のように、毎朝新聞のような全国紙を購読している者は、特に田舎においては少数派である。田舎の大抵は地方紙を購読しているようである。最近は全国紙を購読している者は変人扱いだった。
メデアは全世界から集めたニュースを連日流している。テレビも新聞もどこも、不思議なことに内容は同じである。ご丁寧に民放なんか、同業他社と結託しているのだろう、コマーシャルまで同じ時間帯に流している。どの局を見ても、内容は全く同じである。だから、視聴者は流れるニュースは総て正しいと信じている。
「お前、それは可笑しいだろう」
と言えば、
「可笑しいことなんかあるもんか。だって、テレビでも新聞でも云ってることだ。だから間違いはない」
と胸を張る始末である。
大新聞もテレビも、自分たちが主張する大義が崩れそうになると、核心部分を伏せるか無視をする。その点、ユーチューブはあらゆる多様な情報を提供しているので、マスコミの嘘が暴かれる。勿論、ユーチューブの情報が総て正しいという訳ではないが、少なくても納得出来る情報が多い。
田舎で地方紙とNHKばかりを見ている同年代とは、全く話題が一致しなかった。礒崎がユーチューブから得た情報を主張しても、NHKから流れる情報のほうが正しいと主張する老人が殆どである。当然だと思う。自分たちが金を出し合いって支えている局だから、嘘の情報を流すはずは無いと信じているのだ。確かに、コマーシャル収入で賄われている民放と異なり、似非情報を流す必要は無いのである。そう思っているから、明らかな誤情報まで信じることになるのである。
磯崎は高度成長期を生きて来た。戦争も無い、恵まれた七十年だった。だが、バブルが人々の倫理観や価値観をガラリと変えてしまったようである。確かに少年時代は貧しかった。だが、将来への不安は無かった。それは経済発展するという確信ではなく、公平と正義が社会通念として存在していたからである。昨今、公平だとか、正義を標榜する者は斜に視られ、嘲笑される。月光仮面や白馬童子、赤胴鈴之助などを教本として育った磯崎には、その時に身に付いた正義という価値観が、総て否定された世の中に見える。
古い価値観に囚われた旧人種は、消えた方が世の為になる。磯崎の持論だつた。
それにしても、何故、高度成長期を牽引した大企業が次々と姿を消したのだろう。古くは繊維、造船、次には証券、銀行、電機等、名だたる名門企業が合併したり買収された。何故だろう。磯崎にしてみると、それは決して経済構造の変化に対応しきれなかったのではなく、経営者の能力と慢心、矜持の欠如、数万もの社員とその家族を守るという気概と意識の低さが齎した結果だと思う。つまり、正義とは何か、公平とは何かを考えず、自己保身と金銭欲にばかりに目を奪われ、経営者としての本分を弁えない愚か者が招いた結果なのである。
マスコミ、政財界はもとより、スポーツ団体、果ては教育機関まで、嘘と詭弁がまかり通る世の中になってしまったのには、怒りすら覚えるのである。
磯崎の怒りは、自分自身に対する怒りでもあった。
歳を重ねると、無力になる。気力が湧いて来ないのだ。筋力と能力の衰えが原因なのだろう。特に、高齢になると、筋力の衰えは甚だしく、ペットボトルのキャップすら開けるのに苦労するほどである。この体力と筋力の衰えは間違いなく自信を喪失するものだった。老人に、少なくても軟弱な若者を殴り倒す位の筋力があれば、世の中に、己の存在を存分にアピールすることが出来るのだが。
鬱屈した世の中に対する不平不満の言葉が脳裏を過っていく。何んて平和ボケの世の中なんだ、と不満をぶち明ける。だが、よくよく考えてみると、不平不満を一人でならべたてることが、歳を重ねるにつれ楽しくなってきたのも事実である。
真っ白な雲の下にどす黒い雲が現れた。嵐の前触れかも知れない。
(そう、何もかも破壊され尽くされればいいんだ。クーデターを待っていても、腰抜け日本人には事件を起こす勇気も気概も無いだろう。だから日本列島が天変地異に見舞われ、破壊尽くされればいいんだ。出来れば、全国の議員と、大企業の経営者が総て死んでくれれば、美しい日本が蘇るに違いない。皆が死ねば、一番公平で平等なのだから誰からも恨まれることはないからな)
心の内で呟いて、磯崎は笑った。憎悪を秘めた笑いだった。