付箋の君
放課後の図書室は、西日に照らされた埃がゆっくりと舞う、静かな異世界だった。
僕は返却棚の陰で、一冊の古い詩集に手を伸ばす。目当ては、三ページ目に挟まれた小さな付箋だ。そこにはいつも、凛とした青いインクで、一言だけメッセージが記されている。
『今日の夕焼け、オレンジが濃いね』
『昨日の数学、難しすぎ。お疲れ様』
顔も知らない「付箋の君」とのやり取りが始まって、もう一ヶ月になる。僕の返信はいつも簡潔だ。
『本当だね』
『赤点は回避したよ』
話したこともない誰かと、言葉の断片を共有する時間。それは、炭酸が抜けた後のサイダーのような、淡くて頼りない幸福だった。
さて、今日の付箋にはどんなメッセージが書かれているだろうか。
『放課後、屋上で待ってる』
心臓が大きく跳ねた。
僕は詩集をそっと棚に戻し、逸る気持ちを抑えて階段を駆け上がる。錆びついた扉を押し開けると、そこにはクラスで一番人気の美少女、長谷川さんがポツンと立っていた。
「あ……」
声が漏れる。緊張で喉がカラカラになる。
彼女は僕に気づくと、いたずらっぽく笑って近寄ってきた。
「……待ってたよ」
ついにこの時が来た。僕は意を決して口を開こうとした。
しかし、彼女は僕の横を通り過ぎ、後ろにいたサッカー部のエース、大崎のもとへ駆け寄った。
「詩集のメッセージ、気づいてくれた?」
僕は静かに屋上の扉を閉めた。あの詩集を借りる時、僕のカードのすぐ上にはいつも「大崎」の名前があったことを、その時ようやく思い出した。
夕焼けは、確かに昨日よりもずっと濃いオレンジ色をしていた。
