炭山の御神木(5)

熊が原口東馬を襲ったのだ。それにしても、熊は人間を餌として襲う時は遺体を安全な場所に運び、他の獣に奪われないように隠す習性がある。惨い殺し方をして遺体を放置したということは見せしめだったのか、それとも制裁なのか。正面から襲ったのは何等かの意図があったのだろう。
背後に未だ強烈な視線を感じる。だが、殺気は感じられなかった。丘の頂上は穏やかな空気が流れている。ミズナラの巨木には新しい斧の切り込みと鋸の引き跡が生々しく残っていた。恐らくミズナラの巨木に鋸を一引きか二引きした直後に襲われたのだろう。
一刻も早く部落と警察に知らせなければならない。和男は原口東馬のオートバイに跨ると一気に丘を駆け下りた。
和男からの急報を受けて、駆除隊が結成された。富美は平然としている。一体度胸があるのか、事態が良く呑み込めていないのか分からない。
一旦家に戻ると、富美はパラメムの丘に向かって手を合わせていた。
「何してんだ。人か一人死んだんだぞ。知ってるのか」
「仕方がないわね」
「仕方ないって、お前、熊だよ。原口さんが熊に襲われて死んだんだぞ」
「私はね、だからあのミズナラの木は伐らないでって言ったのよ」
「どういうことだ?」
「北海道のあちこちで熊の被害がでてるでょう。それなのに士幌は大雪山の麓、熊の巣のような坊主山(東ヌプカウシヌプリ)の裾に位置しているのに、何故熊の被害が無いと思う?」
「どうしてって言われてもな。この辺は柏の木ばかりで餌がないからだろ」
「だけど、畑もあるし牛や馬もいる。里には餌が一杯あるんだよ」
「そりゃそうだけど。多分ここは熊には魅力のないとこだからだよ」
「あのね、私は炭山の御神木が、熊に餌を与えていたからだと思っているんだよ」
「つまり、ミズナラの木が落とすドングリが、熊の大切な餌だってことか」
富美は頷いた。
「ここの部落も、昔パラメムの丘で炭を焼いていた作業員も、そのことを知っていたいたから御神木として崇めていたのよ。それが今は忘れられて。熊は害獣だと一方的に決めつけるのは人間のエゴだと思う。餌さえあれば、熊は決して人を襲うことは無いと、私は思う。アンタは御神木のミズナラに手を合わせたでしょう。熊はきっとその姿を近くで見ていたと思う。そして、この人間は決して縄張りを荒らさないと理解したから、安心して山奥へ消えたんだと思うのよ。だから、私はもう熊は怖くない」
「原口さんはいきなり斧で切りつけ、鋸で切り倒そうとしたもんだから、熊のやつ頭に来たって訳だ。縄張りを荒らされると思ったんだな。俺が最初に熊に出会った時、熊の眼は穏やかだったもんな。ところでパラメムの丘に向かって手を合わせてたのは俺の無事を祈ってくれてたんじゃ無かったんか?」
「熊さんが、無事で遠くにまで逃げれますようにって、お祈りしてたの。大体、熊は絶対にアンタは襲わないわ。私もね」
言って富美は微笑んだ。
その日の内に、再び駆除隊が結成されたものの、結局、熊を発見できず、三日後に解散した。僅かな痕跡は認められたが、熊を追いきれなかったのだ。
「熊が殺されなくて良かったね」
熊は見つからなかったと聞いて、富美は屈託なく微笑んだ。
「人間には熊の気持ちは分からん。お前は優しい熊だと思ってるかも知れんが、何しろ原口さんを一撃で殺した奴だ。油断は出来んよ」
「私は信じて良いと思うわ。私の中学の同級生にね、新冠で釣り専門のガイドをしてる人がいるんだけど、アイヌ系の彼は全く熊を恐れないんだって。熊と出くわしても平気で、それどころか、家で熊を飼ってるらしいの。その熊は知らない人が近ずくと、ものすごい形相で吠えるんだけど、彼には甘えて擦り寄って来るって話を聞いたことがあるわ。人間って熊との接触の仕方が間違ってるように思うのよ」
「その人は特殊な能力の持ち主なんだよ。我々凡人には計り知れない野生のきゅう覚があるんだろうな」
富美の言ってることが何となく理解できた。和男を見つめる熊の優しい眼差しが瞼に浮かんで来る。
夏の日差しは強く、雨が欲しい時には雨が降り、作物は順調な生育していた。
除草作業は根気のいる作業だった。一畝の長さは百メートルはある。その一畝に縋りついて、一株一株、絡みついた雑草を、ホーとよばれる柄の長い刃物で取り除いて行く。単純な作業だった。強烈な夏の太陽は容赦なく降り注ぐ。汗が額から流れて目に入る。気の遠くなる過酷な作業だった。
概ね、反当たり収量が二俵として、五町歩で100俵、一俵当たり二千円で売れたとしても、二十万である。開墾地からの収量は半分として、合わせて三十万である。ここから硫安(肥料)代、資材代、壊れた農機具の修理代、農馬の更新だって考えなければならない。すると手元には殆ど残らない。しかも、豊作年でさえそんな収入なのである。
労働者として働きに出ても、十万以上は稼げる。しかも、労働者には凶作はないのだから、農業よりはるかにましに思えるのだ。
果てしなく遠い畝の先を睨みながら、遂、弱音が出るのだった。ヌプカの里から士幌市街に通じる砂利道を一台のオートバイが砂ぼこりを上げて走り去って行った。涼し気で楽しそうだった。比べて、土塗れで農地にへばりついている自分が情けなかった。
「お父さん、少し休もう」
畦道で富美が手を振っていた。妊娠してからか、呼び方が、いつの間にか和ちゃんからお父さんに変わっていた。産れてもいないのに、親父になった気分で悪い気はしない。和男も富美の呼び方が母さんに変わっていた。だが、自然の流れのように思っていて特別な違和感は覚えない。
楓の木陰に並んで腰を降ろした。風呂敷に包まれた籠には、新ジャガの塩茹でが盛られている。
「早くトウキビが獲れるといいね。トウキビの後はカボチャか」
富美は独り言のように呟いて、ポットから熱いお茶を茶碗に注いだ。暑い日は冷たい飲み物より、むしろ熱い飲み物が有難い。
並んで腰を降ろした富美の体から汗の匂いがした。嫌いな匂いではなかった。それは、幼いころの母の匂いと同じだつた。
「なあ母さん。秋頃は子供が生まれるべ」
ゆっくりと上空を流れる白雲を眺めながら、
「俺、畑を売って雇われ人になろうかな、って思ってんだけど」
目を富美の顔に移して言った。富美に過酷な作業はさせたくないという思いと、割に合わないリスキーな仕事に見切りを付つけた方が賢明だとの思いが絡まって言葉になった。
「へッ。どうして?」
「仕事はきついし儲からんしな。こったら商売は割りに合わんべ」
「私はちっともキツイと思ってないよ」
「かも知れんが、百姓をやってたって、うだつが上がらないし貧乏から抜け出せんからよ」
「貧乏って、ウチは貧乏なの?」
「貧乏だろ。綺麗な着物も買えんし、若い馬も買えないし、家だって建て替えられんし、旅行さえ行けない。俺は一人で稼いで、お前は家でのんびりと子供を育ててもらい、子供には立派な学校へ入れて、そうだな、将来は大臣か、医者か、大学の教授か・・・・。とにかく安定した収入があればこの世は天国だからさ」
「何言ってるの。私はそんな考えをする方が、よっぽど貧しいと思うわ。ねっ、考えてみて、人はさ、現世がどんなに苦しくても天国に行けば極楽だっていうよね。だから、苦しみに耐えて誠実に生きるんだって、私は教えられてきたわ。でもね、天国って一体なんだろうってね考えてみたの。第一ね、いい、天国ってね、苦しみのない世界らしいの。透き通るような青い空、暖かくて香しい香りに包まれた世界。花が咲き乱れて金銀瑠璃の輝く世界。それを日がな蓮の台に座って眺めている。これって、幸せ?」
「幸せだろう。何の心配も無く、一日中寝てられるんだから」
「私は嫌だな。暑い日があって、寒い日もある。雨も降れば雪も降る。これって楽しくない?」
「お前は幸せな奴だな。長生きするよ。さあ、昼までもうひと頑張りするか」
言って和男は立ち上がった。富美が言うことにも一理はある。だが、肉体労働は決して楽ではない。正直、今にも逃げ出したい心境なのである。
再び忍耐ばかりの単純作業が始まった。昨年に比べれば作物は順調に育っている。仮に豊作であっても、去年買った硫安(肥料)の支払いが残っている。産れて来る子供にも金が掛かるし、若い馬も欲しい。
一年はあっという間に過ぎて行くが、稼いだお金も羽が生えたように飛んでいく。