炭山の御神木(6)

富美の腹は順調に膨らんでいた。定期的に受けてる健診でも異常は無かった。健康面での心配は無かったが、どんよりと胸に沈んだ不安があった。土地取得の問題は原口東馬の死によって宙に浮いたままになっていたからである。原口東馬との付き合いは限られており、住所も親族の存在も全く分からなかった。手付金の二十万を払っただけで、その後の手続きは何もしていない。手付金は払ったんだから、所有権は俺にあると主張しても、それを証明する証拠も無い。何しろ払った二十万の領収証さえないのである。このままでは土地が手に入るところか、ただ働きになってしまう恐れがあるのだ。
「お父さん、最近作業服を着た人が二人、しょっちゅう来て、何かを調べてるみたいだけど、何か気持ち悪いわ」
「山菜採りじゃないのか」
「違うわ。今時採れる山菜なんか無いもの」
「じゃ、釣りだよ。ヤマメかイワナを狙ってるんだよ」
「釣りじゃ無いって。竿だって持ってないもの」
「役所の人かな。それにしても気持ち悪いな」
家の傍を流れる二号の川には時々釣り人が現れる。ほとんどが地元の人達で顔見知りである。見ず知らずの他人が釣りに来ることは無い。
除草も終わり、冬の飼葉の用意に取り掛かろうとした時だった。
「山内和男さんだね」
何の前触れも無く、恰幅の良い紳士が突然、運転手付きの小型のトラックで訪ねて来た。トラックには豊田渋皮株式会社と書かれていた。紳士はスーツに身を包んでいるが、長靴を履いていた。
渡された名刺には、豊田渋皮株式会社 代表取締役社長 豊田誠三と印刷されていた。
「アンタな、ウチの若い衆から聞いたんだが、勝手に土地を拓いているようだな。一体、誰から許可を貰ったんだ。実はな、その土地はうちの社の物なんだよ」
豊田社長は突然切り出した。鼻の下に髭を蓄え、金縁の眼鏡から光る鋭い視線は真正面に和男の目を捉えていた。
「あの土地は原口東馬さんのもんだと聞いてますが」
「原口って、道職員だった原口か?」
「そうです。最近熊に襲われて死にました」
「ああ、それなら知ってるぞ。新聞に出てたからな。あの原口って野郎はな、道職員の肩書を利用して散々人を騙してきた詐欺師だよ。以前、空知の新篠津村でもアンタと同じ被害にあった奴がいてな、結局、同じ土地を二度買わされたって話よ」
和男にとって豊田誠三の話は、まさに晴天の霹靂だった。たしかに、原口東馬は狡猾なところはあったが、大それた詐欺をするとは思ってもいなかったのだ。
「原口東馬から、土地を開墾したら半分ただでやるって言われたんだろ。新篠津村と同じ手口だ。奴はそれで成功したもんだから、ここでも同じ手口をつかったんだ」
「十五町歩拓いたら半分やるって約束でした」
「ほら、同じような手口だ。本当に悪党だな。だから熊に食われるんだよ。ところでアンタが拓いた土地は起伏が多くて開墾するのも大変だったろうが、畑を耕して種を蒔くにも大変だ。牛を放牧する分には何でもないかも知れんがな」
「はい。取りあえず平なとこは畑にして、起伏の激しい所は放牧でもしょうかって考えておりました」
話を返しながらも、頭の中は虚ろで、正常な受け答えも出来ない有様だった。将来は二十町歩の土地持ちになる夢が、一瞬にして崩れたのである。今までの苦労が水の泡になったと思うと虚脱感しか無かった。
「俺の会社は社名通り、渋皮屋をやっててな。渋皮なんて馴染みがないだろうが、柏の皮を剥いでタンニンを取り出す仕事をやってるんだ。それで、この辺は柏が多いから一千町歩ばかりの払い下げを受けたんだよ。ところが、タンニンは動物の皮をなめす時に使うんだが、戦争が終わっちまったもんだから、需要が無くなってな」
「社長がこの辺の土地の払い下げを受けた時、原口さんの十五町歩も買ったんですね?」
「いやいや、原口は未墾地を貸下げる権利を持っていただけで、所有権もなにも無かったんだよ。しかも、その貸下げる権利はとうの昔に無くなっていたんだ」
「そんな。私は完全に騙されたってことですか」
「金は払ったのか」
「頭金で二十万ほど」
「他には?」
「近日中に五十五万を払えって言われてました」
「その五十五万は払ってないんだな」
「はい。そんな大金は有りませんって言ったら、遊んでないで炭を焼いて金を作れって、原木が無くなったって言ったらパラメムの丘にミズナラの大木があるだろ。伐りたくないんなら、俺が伐り倒してやるから、お前はそいつの枝を払って炭を焼けって」
「ミズナラの木を伐りに行って熊に殺されたって訳だな。もともと、あのミズナラの木は炭山の御神木だ。そいつを伐り倒して金に換えようなんて、罰当たりもいいとこだ。何れにしろ悪党に天罰が下ったんだから気にすんな。ところでお前さんこの土地を拓いて自作農になりたいんだろ?」
「もちろん、私には百姓しか出来ませんし、子供も生まれますもんで」
「そうか、跡取りが出来たのか。それはメデてえじゃないか」
「でも、夢だと思って諦めます」
「そうだな。人生には山もあり、谷もある。人生にはとんでも無い悪党がいるってことが分かっただけでもいい勉強だったな」
「社長さん。俺、知らなかったとはいえ、勝手に社長さんの土地を耕して畑にしました。本当にすみませんでした。補償っていうのも何ですが、俺、直ぐには金が無いんで、出来れば収穫した豆での支払いで勘弁してもらえんでしょうか?」
「収穫物全部か?」
「ハイ」
「ウン、考えて置く。今後のことは追って連絡する」
豊田誠二は言い残して帰って行った。和男は、夢が完全に打ち破られた現実を受け止められず、砂ぼこりを上げて坂道を下る軽トラックを茫然と見つめていた。
「誰なの?難しい話?」
「実は、土地の件だけど。駄目になった」
「えっ、どういうこと?」
「来たのは、豊田渋皮っていう会社の社長さんで、うちが開墾した土地は原口東馬さんものじゃなくて、、豊田渋皮って会社のものだって言いに来たんだよ」
言って富美の顔を窺った。さぞ驚いて落胆するだろう。軽率な判断で決めてしまった自分が情けなかった。
「開墾は無駄骨だったってこと?」
和男は黙って頷いた。開拓に費やした労力が無駄になったとしても、それは自分が我慢して諦めればいい。しかし、富美に抱かせた夢を打ち砕いてしまった責任は取りようがなかった。
「申し訳ない。総て俺の軽はずみな思い込みがこんな結果になったんだ」
和男は項垂れて頭を下げた。どうしてもっと調べなかったのとか、何のための開拓だったのかとか、馬鹿じゃないのとか、散々に詰られると覚悟をした。ひよっとすると、腹立ち紛れにこんな家出ていくと激しい剣幕で詰られるだろう。
富美は呆然と立ち尽くしていた。恐らく腹が立って直ぐには言葉がでないのかも知れない。沈黙の後、
「仕方ないよ。大体開墾すれば、土地の半分をただでやる、なんて話は初めからおかしかったんだよね。いいよ、人の土地を一生懸命に開墾した馬鹿バカしさはあるけど、もともと、無かった話にしょう。一時でも夢を見させてもらったんだから、有難いと思うことにしょうよ」
富美の反応は意外だった。詰られて当然だと思っていたのに、それどころか、富美は微笑んでいる。
「お父さん。秋には子供が生まれるんだよ。親子三人、贅沢しなければ十分食べていけるよ。きっと、賑やかで明るい家庭になるよ。私たちには私たちに見合った人生があるのよ。高望みしてはいけないって、天が教えてくれたと思う。損をしたっていったって、頭金の二〇万だけですんだんだ。そう思うことにしょうよ」
和男にはこみ上げてくるものがあった。和男の失態を詰る訳でもなく、失態を我が事としてとらえ、悲しさも苦しさも嬉しさも共有してくれる富美が愛おしかった。
「私はね。私は小さな幸せがあれば十分」
「小さな幸せって?」
「赤ちゃんが出来たじゃない。嬉しくないの。幸せじゃないの?」
「すごい、すごく嬉しいよ。幸せだよ」
「パラメムの丘で原口さんを殺した熊がいるでしょう。あの熊きっとお父さんの敵を討ってくれたのかも知れないね。私ね、熊に限らず、あらゆる動物はすごく偉いと思うの。だってね、親から貰った財産といえば生き抜く知恵だけで、他には財産なんて一つも無く、裸一貫で生きている。これってすごいと思わない?」
「だから動物なんだよ。別にすごいとは思わないよ」
腹の底では、今までの努力と苦労が水泡に帰するという局面を迎えて落ち込んでいる時に、熊の話をしてる場合じゃ無いだろうと思っている。
「アンタ怒ってるでしょ。私は怒ってないよ。だってね、始めっから話が上手すぎると思ってたし。いいよ、お義父さんから受け継いだ五町歩の畑があれば何とかなるよ。私、赤ちゃんが出来たって分かった時、金持ちにならなくてもいいと思うようになったの。そしたらね、人が見栄を張る醜さが見えるようになったのよ。見栄をすてたら素晴らしい世界が見えて来たわ。着飾って行くコンサートよりも、自然の中で身一つで生きてる野鳥の鳴き声や、蛙の声、風の音、咲き乱れる野花。ここには芸術の総てがある。こんな幸せは無いなって、最近思っているのよ。だから、お腹の赤ちゃんが無事に育ってくれて、アンタが元気で長生きしてくれれば、私は、それが一番幸せなの。これからは、高望みせず、流れに逆らわずに誠実に生きていこ。人は金持ちだ、貧乏人だって言うけど、私には何が貧乏なのか良く分からないわ。毎日が楽しく過ごせれば、それが一番豊だと思う」
富美は落ち込んでいる俺を励まそうと心にもないことを言ってるんだ。本心はひどくガッカリしてるだろうし、腹が立っているに違いないのだ。
「富美。いずれにしろすまん。取り返しのつかない失敗だった。けど、俺は腹の子と富美は命を懸けて守る。信じてくれ」
言って和男は外に出た。馬小屋に行って柄杓一杯の燕麦を老いた馬に与えた。この老いた馬と共に開墾で汗を流したのだ。だが、徒労だった。
「ゴメンな。お前にはこれ位しか報いることが出来ない、情けない俺だよ。本当にゴメンな」
老馬は甘えて鼻を摺りつけてきた。老馬の鼻を撫でた時、堪えていた涙が溢れた。騙された悔しさで流れた涙ではなかった。嬉しかったのである。富美の懐の深さ、夫に対する思いやりの心は寧ろ和男にとっては辛かったのだ。今、冷静になって考えて見ると、富美の優しさは計算されたものでは無いように思える。決して夫を慰めようと計算して発せられた言葉では無かった。天性のやさしさが言葉となっているのだった。それとも、人間としての器が大きいのか。
日が暮れて来た。家に戻ると、富美は普段と全く変わらない様子で夕飯の準備をしていた。
「夏が終わったら、私の横に赤ちゃんが居るようになるよ。三人になるんだよね。私に似て、すごく可愛い赤ちゃんがここに座るの」
「おい、私に似て可愛いいってどういうことだよ」
「世間の人はきっと旦那さんに似なくてよかったねって言うにきまってるわよ」
「ああ、そうかい。俺が不細工で悪かったな」
「怒ることはないよ。だってさ、どんなに不細工でも、絵になれば芸術品となるもの」
「俺を褒めてるのかくさしてるのか、どっちなんだよ」
「さあね。あっ、それで思い出した。あのね、開墾した土地にさ、雑木が散らかったままになってるでしょ。人様の土地を荒らしたんだから、せめてきちんと片付けようよ。私も手伝うからさ」
「そうだな。その土地に誰かが入植したら、山内の奴はだらしないって言われるからな。そうしょうか。でも、お前はいいよ。俺が片付けるから。でっかい腹して地面を這いつくばってたら世間体が悪いからな」
「何よ。世間体が悪いなんて。一体誰がこんな体にしたのさ」
「俺の他に誰がいるんだ」
何事も無かったような日常だった。屈託ない冗談が、ほのぼのとした空気を醸し出す。それが、何にも代えがたい幸せだった。
翌日の早朝から、切り倒されて乱雑に散らばった雑木の枝を一か所に集める作業が始まった。
陽が中天に差し掛かる頃、作業着を着た二人組がオートバイで坂道を登って来た。二号の川辺りでオートバイを降りて、パラメムの丘を眺めている。三十分程して二人組は戻って行った。数日の後、再び作業着姿の二人組はオートバイでやって来て、三十分程辺りを歩き回ってから、オートバイに乗って帰って行った。
「何なのあの人達。気味が悪いわね。用があるなら言えばいいのに。何さ」
富美は大きな腹を擦りながら怒っていた。聞こえないのが分かってるくせに、
「熊に食われろ」
なんて怒鳴っている。
「役場の人間かな。そだ、きっと役場の人が土地を調べているんだよ。それとも、又、熊が出るんじゃないかって調べに来たのかな」
「それとも、最近この辺が拓けてきたから、山菜を採りに来たのんもしれないね」
「山菜と言えば、ウドの葉っぱの天ぷらが食いたいな」
「ウドは終わったし、そうだ、ウドの若葉を探してみようか」
日常生活を送る上で、辛いことや楽しいことばかり続くわけではない。くよくよと思い悩んでも仕方がない。日々できる限り楽しく生活したいと思う。富美は夢が破れたにも関わらず、何時もと変わらない笑顔を見せていた。