炭山の御神木(4)

富美は戸口に立って、怯えた表情を浮かべて、駆除隊の動きを見つめていた。
「ずっと見張っていたのか?」
富美は黙って頷いた。小柄な身体が小刻みに震えていた。木枯らしの吹く初冬である。寒くない筈はなかった。だが、富美は寒さよりも巨熊に震えていたようである。
「熊は居ないかったよ。いや、居たんだけど坊主山(東ヌプカウシヌプリ)の奥へ戻って行ったみたいだ」
「戻って来ることは無いの?」
「大丈夫だ。仮に戻ってきても、俺達を襲うようなことはない」
和男は自信をもって答えた。
「どうしてそんなこと言えるの?」
「熊の眼だよ。あの熊は俺に何かを訴える目だった。けど、そのその訴えたかったことが何か、俺には分からんけどね」
「そんな馬鹿な。相手は熊だよ。獣なんだよ。獣の気持ちなんて分かる訳ないじゃない」
「けどな、俺には分かるんだ。だから、俺はあの巨熊を守ることに決めた」
「襲われて死んだって知らないわよ」
「ああ、結構だ。それはそれで俺は本望だよ」
「馬鹿なこと言わないで。残された私はどうなるのよ」
「心配ない。あの熊が俺を裏切ったら、この銃で撃ち殺して、肉を切り刻んで食ってやるから」
言って和男はまだ膨らみのない富美の腹を撫でまわした。どんな子が産れるのか、男か女か。男であればそれに越したことはないが、仮に女であっても婿を娶ればいい。婿が百姓が嫌だっていえばそれでもいい。短い人生なんだから、職業に拘る必要は無い。事故も無く程ほどに生活できればそれでいいと思っているのだ。
例年通り冬は炭焼き、雪が解けて大地が緩み、畑を耕すまでの短い間は救済事業で日銭を稼ぐ毎日だった。過湿地は明渠排水、無水地帯にはウオップ川から水を引いた。和男が所有する土地の一部は過湿地で、春五月の上旬には一斉に水芭蕉が苞を開き、小川の水辺にはヤチブキが咲き誇る。家のそばだから明渠排水すれば、日当たりも良いし、家庭菜園には最適な場所なのだが、富美はその場所が気に入っていた。頑なに手を加えることには反対だった。
その地帯は、フキ、タラの芽、キトピロ(アイヌネギ)、ウドにゼンマイ、コゴミ、ワラビ等、菜園のような自然の恵みがある。不思議なことに、これらの山菜は殆ど気候に左右されない逞しさを持っていた。その他、小川にはイワナ、ヤマメ、少し大きな川にはニジマスが獲れる。食料には事欠ない生活が保障されていた。
「どうだ、たまにラーメンでも食いにいこうか」
暇な時、富美を外食に誘っても、首を縦に振ることは無かった。
「ここで採れるものが一番おいしいし、第一お金と時間がもったいないと言って、保存食作りに余念がなかった。春に保存した旬の山菜も、秋の収穫期までに殆ど食い尽くされてしまう。山菜は旬のものが旨いが、保存したものは味が落ちる。しかも、連日保存食ばかりとなると、さすがに飽きがくる。
それでも、ひもじいおもいをするよりはいい、そう思って諦めている。必死に生活を支えようとしてる富美の姿を見ていると、贅沢は言えなかった。
父が開いた五町歩は既に立派な畑になっていた。土中に眠っていた残根は一部は朽ち果てて土に戻り、地中から湧き出て来る玉石もほとんど除去されていた。だが、拓き始めた土地は伐り株が土中に残っていて、株間を耕す作業は困難を極めた。父が拓いた五町歩も、開墾当初は和男と同じ苦労を重ねた結果、美田となったのだと思うと、どんなに困難な作業でも投げ出す訳にはいかなかった。日が暮れると、老馬の背には流れた汗が塩となってこびりつき、和男の五体の関節は軋んで痛んだ。
開墾予定地は起伏が激しくうねっていて、畑地には不向きだった。比較的平坦な土地を優先的に開墾し、傾斜の激しい場所は、将来は放牧地にすべく手を付けなかった。苦労は多かったが、日に日に台地は拓けて地面に陽がさすようになった。作業の進捗が目に見えるのでそれが励みだった。
その年の春は暖かく、一気に雪消は進んで、例年より二週間も早く畑を耕すことが出来た。エゾヤマザクラも、辛夷も同時期に一斉に咲き誇った。エゾリスが縦横に走り回り、幼い鶯が下手くそな唄を歌っている。長閑な春だった。
今年は早霜さえ降りなければ豊作は間違いない。そんな予感がした。富美はこれといった病も無く、胎児は順調に成長しているようである。
種蒔きが終わると、除草作業までには少しのあいだ暇になる。農閑期でホット一息つける季節になった。この間は神社祭りだったり、部落の清掃作業、部落の寄り合いなど、公的ともいえる事業がある。いわゆる部落の共同事業である。一事業当たり精々半日程度の作業だが、それでもあっという間に一日が過ぎて行く。
午前中、集会場の雑草刈、ゴミ拾いを終えて一息ついてる時、砂煙を上げて一台のオートバイが坂道を登って来た。原口東馬だつた。
「こんなに天気が良いのに何やってんだ。開墾は済んだのか」
挨拶もなく威圧的だった。もともと歓迎したくない人物である。
「七割程度は終わったかな。何とか種が蒔けるようにはなりました」
「七割じゃ話にならんだろう。見たところ雑木も所どころ残ってんじゃないか」
「残ってるとこは畑にはならんと思って。将来牛を放すにはいいかなって考えてるんです」
「俺に許可無く勝手な真似はすんなよ。未だ土地はお前のもんじゃないんだからな」
「分かってます」
和男の言葉はぞんざいになった。
「本当か?本当に分かってんのか?」
原口東馬の顔に笑顔はなかった。少しでも微笑んでくれたなら、気が休まるのだが。原口東馬の顔は厳しく怒りを含んでいるようだった。もっとも、原口は軽口をたたくような性格では無かった。
「ところで。まあ、お前の言葉を信じるとして、七割の開墾が済んだとしよう。とすると、十町五反の開墾が終わった訳だ」
原口東馬は手帳を披いて何やら計算していたが、
「俺の取り分八町歩の内、五町五反は開墾されたってこった。
ということは、反当たり一万として、五十五万か。そうだな、間違いない。それでだ、取りあえず五十五万を払ってくれ」
「五十五万を直ぐにですか」
「当たり前だよ。五十五万を払うことによって、五町五反歩が取りあえずお前のもんになるんだ。権利ってもんがお前のもんになるんだから悪くはなかろう?」
「そんなこと言ったって今すぐには」
「お前ね、この一年なにやってたんだ。みたところ開墾出来たとこ実質半分じゃないか。それも立木を伐った程度だ。牛を放牧するなんてぬかしやがって、俺の目から見りゃお前、手抜きもいいどこだ」
「けど、起伏が激しいから、農地にはならんと思って・・・・」
「四の五の抜かすな、今日みていに空いてる時間があったら、何で炭焼をしないんだ」
「そうは言われても、この辺には炭になりそうな木は無いんですよ」
「あるだろうよ。ホラ、パラメムの丘のテンコツ(頂上)にでっかいミズナラの木があるだろ。あれをぶった伐れば一年分の量は確保できるんだぞ」
「あれは駄目だ。あの木だけは伐る訳にはいかんのです」
「何故だよ。あれはこの地に残った宝だぞ」
「あのミズナラの木は炭焼の御神木だから、伐っちゃならんと親父に言われてるんです。それに、あそこはよその土地らしいから・・・・」
「国有地だろうが、民有地だろうが、そったらもん関係ねぇよ。伐ったモン勝ちだ。それに、炭焼の御神木だと?今時そんなもんあるもんか。何寝言ってんだよ。伐るのがおっかねえのか。なら俺が伐ってやるよ。暇な時は焼いて炭にして、早ぇとこ金を払え。分かったな」
原口東馬は納屋から、大鋸と鉈を勝手に持ってきて、バイクに括り付けてパラメムの丘を目指して走り去った。和男は呆然と見送るより仕方がなかった。
「どうしたの?何があったの?」
富美が蕗を両脇に抱えたまま、血の気の引いた和男の顔を覗き込んだ。額には玉の汗が浮き、首筋には汗が流れた跡が残っていた。
「お前、腹ん中に子がいるんだぞ。無理したらどうしょうもないべ」
「気ィつけてるから大丈夫だ。それより何かあったのけ」
「実はな、原口東馬さんが来てな。土地の拓いた分の金を払えってな。それを言いに来たんだ」
「金を払えったって何もないべ」
「だから困ってんだよ」
「で、何時迄に払えっていうのさ」
「今直ぐにだと」
「今直ぐったって、米買う金もないのに、困ったな。どうすべ」
「金が無けりゃ遊んでねぇで炭を焼いて金作れってな」
「そったらこといったって、今の仕事でも一杯一杯なのに」
「そうだけどな。炭になりそうな木も無いし、とも言ったんだけど。パラメムの丘にミズナラの大木があるべって言うんだ。俺はその木は炭山の御神木だから伐る訳にぁいかねぇって断ったんだけど」
「そりゃそうだ。あの木だけは絶対に伐っちゃだめだ。昔は部落で随分大事にしてたもんだから。絶対に伐っちゃだめだよ」
「俺もそう言ったんだけど聞かないんだ。しかも、あのミズナラが生えてるとこはよその土地だから、勝手に伐る訳にゃいかんのだって止めたんだけどな」
「そしたら、その人は何て言ったの」
「国有地だろうと、人んとこの土地だろうと関係ねぇ。境界線に生えてるんだから、バレた時は気付かなかったて言えば済む話だってな。俺が伐り倒してやるから、お前は枝を払って炭を焼けってな。パラメムの丘に今行ったとこだよ」ㇺ
「何と。パラメムの丘に行ったの?」
「ああ、ミズナラの木を伐るってな」
「駄目だ。駄目だよ。アンタ直ぐに行って止めてきて」
「なんでだよ」
「いいから行って。あの木を伐ったらもうここに住めなくなる」
富美は絶叫に近い大声を上げて和男を急かした。和男だってその木は伐りたくなかった。だが、原口東馬の勢いに押されて止めることは出来なかったのだ。ふと、パラメムの丘で出くわした巨熊の穏やかな眼差しが脳裏を過った。和男は富美の迫力に押されるようにパラメムの丘を目指して走った。途中ギャーという絶叫が聴こえた。一瞬ひるんだが、気を取り直して走った。
パラメムの丘を登りきったところで原口東馬が顔面を血だらけにして倒れていた。背後に強烈な獣の気配を感じた。だが、不思議なことに恐怖心は無かった。
原口東馬は正面から一撃を喰らったのだろう。顔面はぐしゃぐしゃに潰れ、眼球が飛び出していた。原口東馬は既に息絶えていた。即死だった。