リバース・ハント

「クリーン・エア・アクト(路上喫煙者特別処分法)」の施行から五年が経過した。

すべては、厚生労働事務次官・神崎の計算通りに進んでいた。弱者は淘汰され、財政は健全化し、街は静謐を取り戻した。
だが、その完璧な方程式に、突如として「負の遺産(バグ)」が弾き出された。

「……説明しろ」

神崎の低い声が、内閣府最上階の執務室に響く。
端末の画面には、全国各地から報告された「奇妙な傷害・死亡事件」のデータが並んでいた。
殺されたのは喫煙者ではない。「狩る側」、つまり善良な一般市民たちだった。

「それが……」

秘書は青ざめた顔で報告書をめくる。

「路上喫煙の現行犯を襲撃した市民たちが、逆に返り討ちに遭っているのです。それも、ただの抵抗ではありません。ほぼ全てのハンターが、驚異的な力で惨殺されています」

「喫煙者が、ハンターを返り討ちにしていると?」

神崎は眉をひそめた。

「あり得ん。水道水に混入した誘発剤は、ニコチンへの依存度を高めると同時に、自律神経を狂わせ、身体を衰弱させるはずだ。なぜそんな力がある?」

「……これを見てください。生還したハンターのドラレコ映像です」

画面に再生されたのは、夜の公園。
数人の市民が、タバコを吸う小柄な老人を取り囲み、笑いながら鉄パイプを振り上げた。しかし次の瞬間、老人の身体が異様に膨張し、人間とは思えない速度と力で鉄パイプを素手で奪い取った。そして、市民たちの頭部を次々に粉砕していったのだ。

老人の口元から、大量の不気味な煙が立ち上る。

「これは……市販のタバコではないな」

神崎の目が、初めて鋭く細められた。

「はい。闇市で流通している『黒いタバコ』だと考えられます」

秘書は震える手で、証拠品の写真を提示した。巻紙が漆黒に染まった、不気味なシガレット。

「我が省の研究所で成分を分析しました。その結果、信じられない事実が判明したのです。彼らが吸っているのは、政府が水道水に混ぜた『欲求誘発剤』を、体内で完全に反転・無毒化し、それどころか爆発的なアドレナリンと筋力増強剤へ変換する『中和変異薬』でした」

神崎は椅子の背もたれに深く体重を預けた。頭脳が、猛スピードで最悪のシナリオを弾き出していく。
政府が国民を依存させ、処分するために作った毒。その毒を「燃料」に変えて、超人的な暴力を振るう異形(バグ)の存在。

「この黒いタバコを吸った者にとって、ハンターたちの襲撃は『リバース・ハント(逆狩り)』のエンターテインメントに変貌していると思われます。現在、この『バグ』の一派がグループ化し、街のハンターたちを組織的に狩り始めています」

皮肉な結果だった。

政府が「市民の歪んだ正義感」を合法化した結果、今度は「追い詰められた狂人たち」が、黒いタバコを吸って意図的にターゲットとなり、凶暴な力でハンターを返り討ちにしている。

街は、「正義の市民」と「変異した喫煙者」が互いを殺し合う、ただの地獄(コロシアム)と化したのだ。

「……黒いタバコの製造元は?」

神崎の問いに、秘書はさらに顔を血の気を引かせた。

「製造データを追跡した結果、かつてこの法案の実験段階で、不適合として『処分』されたはずの元政府の科学者たち。……そして、彼らを率いているのは、三年前に監視カメラで見逃された『大和』という男です」

神崎はゆっくりと立ち上がり、ガラス窓に歩み寄った。

「あの、『人間としての理性』を保ち続けていた男か……」

街のあちこちから、火の手が上がっている。それは煙ではなく、制御不能に陥った暴力の炎だった。
神崎はグラスに残ったブランデーを飲み干すと、冷酷な笑みをその唇に刻んだ。

「面白い。システムに牙を剥くバグか。……秘書官、直ちに防衛省へ連絡。『クリーン・エア・アクトの第2段階(フェーズ・ツー)』を発動する」

「第2段階、ですか?」

「ああ。バグが出たのなら、システム自体をさらに巨大な暴力へアップデートすればいい。……だろ?」