神の選別

特等席からの眺めは、実に素晴らしいものだった。

内閣府の最上階。
全面ガラス張りの執務室から眼下を見下ろす男――厚生労働省の事務次官であり、「クリーン・エア・アクト」の生みの親である神崎(かんざき)は、手にした高級ブランデーのグラスを静かに揺らしていた。

窓の外、冷たい雨が降る繁華街の路地裏で、一人の女が複数の市民に囲まれ、鉄パイプで撲殺される瞬間が見えた。悲鳴すら、この防音ガラスを透過することはない。神崎の表情はピクリとも動かなかった。

「……また一件、無駄なコストが削減されましたね。神崎次官」

背後に控える若き秘書が、タブレット端末の数値を読み上げる。

「先月の『自主的処分』は全国で4,209件。これにより、将来的に見込まれていた生活保護費、精神医療費、および生活習慣病における医療保険の国庫負担、総額約120億円の削減に成功しました。治安維持費も前年比マイナス35%です」

「素晴らしい」

神崎は冷徹な笑みを浮かべた。

「実に見事な自浄作用だ」

秘書は一瞬だけ躊躇い、そして声を潜めた。

「しかし……水道水や食糧への『欲求誘発剤』の混入濃度を上げたことで、過度のストレスを抱えた一般市民が次々と境界線を越えています。これではまるで、政府が国民を罠にかけて殺しているようなものでは……」

神崎はグラスを机に置き、冷ややかな視線を秘書に向けた。

「君は、国家を何だと思っている」

「……は?」

「国家とは巨大な船だ。限られた燃料、限られた食糧で、荒波を越えなければならない。だが、船底には何も生み出さず、ただ燃料を食いつぶし、愚痴をこぼし、船体に穴を開けるだけの乗客が多すぎる。彼らを正規の手続きで下船させるには、裁判、人権団体への配慮、膨大な世論工作という名の『コスト』がかかる」

神崎は立ち上がり、窓に近づいて眼下の街を指差した。

「だから、彼らが自ら進んで船を飛び降りる仕組みを作った。タバコという、前時代的で、愚かで、意志の弱い人間だけが縋る『リトマス試験紙』を使ってね」

政府が仕掛けた罠は完璧だった。

ストレスを抱えた弱者は、飲食物に混ぜられた微量の物質によって、無性にニコチンを欲するようになる。そして、底値まで暴落したタバコに手を伸ばした瞬間、社会の「適格者」たる善良な市民たちが、正義という名の快楽に酔いしれながら彼らを撲殺する。

「警察も、裁判所も、刑務所も使わない。市民の歪んだ正義感をアウトソーシング(外部委託)しているのだよ。国は手を汚さず、予算も使わず、ただ法律という免罪符を与えただけだ。これで社会の『お荷物』が消え、残った従順な納税者だけで構成される『クリーンな国家』が完成する」

その時、神崎のデスクの端末が赤く点滅した。
画面に映し出されたのは、監視カメラの映像。警棒を持った一人の男が、喫煙者の青年を殺さず、あえて見逃した瞬間だった。秘書が顔をしかめる。

「次官、処分を放棄し、対象を逃亡させた市民がいます。これは法に反する……」

「いや、それでいい」

神崎は満足げに目を細めた。

「その男は、まだ『人間としての理性』を保っている。つまり、我が国の生存競争に残る資格があるということだ。逆に、あの哀れな逃亡者は、どうせ次に出会うハンターに処理されるだろう」

神崎は再びブランデーを口に含み、冷徹な統治者の目で、灰色の街を見下ろした。

「この法案の真の目的は、単なる人口削減ではない。国民の『選別』だ。誘惑に負ける愚者、そして理性を失い狂暴化した獣。そのどちらでもない、冷徹で合理的な『新人類』だけをこの国に残す。それこそが、我が国の『真のクリーン・エア』だ」

窓の向こうでは、また一つ、社会のノイズが静かに消されていった。