かごめ坂

呼び止められて振り返ると、そこには誰もいなかった――。

※   ※   ※

 囲炉裏で火がはぜた。チッと音を立てて火の粉が空中に消える。数百年前の日本なら当たり前の光景であったろう。しかし、いまは観光地や個人宅での趣味でしつらえてあるだけだ。日常的に使われている風景を目にする機会は僥倖といっていいだろう。
 「どうぞ、もっと火のそばへ」
 火鉢を上手に使いながら炭を手にした竹田先生が僕を囲炉裏の前へと勧めてくれた。お礼を述べて前のめりになり火に手をかざす。ほんのりと手のひらに炎のぬくもりを感じた。
 こんなに穏やかな風景が残っていようとは。出張に来て良かったと僕はしみじみと感じていた。
 ここ、××県○○村は××県立T大学で地域社会学の教鞭をとられる竹田信彦先生のご自宅である。東京で同じく地域社会学を教える僕はfacebookを通じて竹田先生を知った。お互いに30代であり、考察も似ていることから最初から話は合った。そして論文を読ませていただいたりネットで意見交換をするうちに、誘われて先生の勤める大学へ伺うことになったのだ。大学への出張申請は簡単に降りた。もっとも別方面は簡単にいかなかったのだが。
 それはさておき、先生の研究室での意見交換は有意義で僕らは時間も忘れて話し込んだ。そして彼に勧められるまま予約したホテルをキャンセルして、先生のご自宅へ宿泊をすることになったのである。かつて学生時代に友人たちと話が盛り上がって、終電を逃したまま友人宅へ泊りこんだあの頃を思い出した。おそらく竹田先生もそんなノリで僕を誘ったのだろう。
囲炉裏の中央につられた鉄鍋から椀に汁を救っていた老女が、盆に箸とその湯気の立つ椀を乗せて差し出した。
 「芋煮ですだよ。お召し上がりくだせえまし」
 「ありがとうございます。美味しそうな香りです」
 受け取った僕はさっそく芋煮をかきこんだ。味のしみた里芋とほっとするような家庭的な味噌味が胃も心も和ませてくれる。
 竹田先生から「母です」と紹介された老女は、椀を渡した後も僕をしげしげと眺めていた。気づいた僕は器から顔を上げて「何か?」と老女に視線を合わせて尋ねた。
 老女は興味深そうに僕を眺めたまま
 「本当にうちの信彦と変わらねえ歳だかね。あたしにはまんだ24、5歳にしか見えねえだよ」
 「よく言われます。貫禄がなくてお恥ずかしい」
 「おまけに男前でねえのよ。あたしがもうちっと若かったら夜這いでも…」
 「お母さんのもう少しっていくつですよ。今年80歳でしょうが。あと秋谷先生は結婚されてるんですからね」
 ずんぐりした熊を思わせる容姿の竹田先生のあきれ顔に母上は驚いて
「あんれま。残念だてば。それに引き換え、変わらねえ歳のあんたはまだ嫁も貰わねで」
としっかり竹田先生をやりこめる。
 「あんただけでねえの、兄弟の中で結婚してねえのは。去年結婚した正彦なんか来年は孫の顔見せるて言うてるべ」
 「私は8人兄弟末っ子で研究もあるからまだいいんです。ほら、身内の話をしてるから秋谷先生が困るっているでしょう」
 「失礼しましただ。うちの不肖の息子のせいでお見苦しいところを」
 頭を下げる老女と一本取られたかたちになった竹田先生を見て僕は笑ってしまった。
 「お母様はお若いですね。とても80歳には見せません」
 「やんだあ、先生。先生こそ綺麗な顔したオモタイサマにつれてかれる男前でねえのよ」
 「やめれ、母ちゃん!」
 方言が出るほど真剣な叱り口調になった竹田先生に、調子に乗ったと我に返った母親は「失礼しましただ。ごゆっくり」と頭を下げてヒョコヒョコ歩きながら部屋を出て行った。
 「竹田先生、オモタイサマとは?」
 「この地域の言い伝えです。うちの村の裏山が御母体山(オモタイサン)という名前で、そこには御母体様(オモタイサマ)という正体不明の怪物が棲んでいると。若くて美しい男を好んで喰うといわれることから、この地域では昔からいわゆる“イケメン”は『オモタイサマに連れていかれるいい男』と言われるのです。ただ、喰い殺されるわけですから良いたとえではありません」
 「地方に伝わる迷信ですか」
 「私もそう思います。ただ、江戸中期にこの地域だけ若い男性ばかりが毎年十数名ほど行方不明になったという資料があるのです。しかし記述が明確ではなく、原因はいまだにわかっていません。その時期に付近の村で大掛かりな工事でもあれば人手不足から人足としてつれさらわれたと考えられます。若くてたくましい男たちの労働力は必要ですからね。ところが、そんな資料もありませんでした。それでこの地域では江戸中期に男子が生まれると女の子の名前をつけていたそうなんですね」
 「子供を邪鬼が狙うという伝承に似ていますね。子供が生まれるとすぐに親が『犬の子が生まれた』などと叫んで邪鬼の気をそらせて子供を守ったという」
「その効果あってか男性の行方不明者は減ったそうです。それにしても女性ならともかく男性なのがいまだに謎です。そこで一旦、怪異のせいにして人々は納得したのがこの伝承の発端かと」
 「どうして御母体(オモタイ)様になったんでしょう」
 「古来より山は神格化されていますからね。山をミステリースポットとみなし、神もいれば鬼もいると考えたのでしょう。その結果、若い男は山に入るな。かごめ坂へ行くなとか…」
 「かごめ坂?」
 「ええ、御母体山の中にある地元でそう呼ばれている坂です。名前からして禍々しいのですが」
 「というと、わらべ歌の『かごめ かごめ』を指すのですかね。確かに意味合いは禍々しい」
 「ええ、一説によると『かごめ かごめ』は妊婦殺しの歌とされていますからね。籠女=妊娠した女性、籠の中の鳥=お腹の中の子、鶴と亀がすべった=不吉なことが起こった、後ろの正面誰?=妊婦を突き飛ばして子供を殺したのは誰? が数多い説です。他にも徳川埋蔵金の隠し場所を示した歌だとか、信長に人質となった子供の歌だとか言われていますが」
 「わらべ歌は不吉な意味合いが多いですよね。『シャボン玉』は流産の歌と言われていますし、『はないちもんめ』も人買いの歌、『あんたがたどこさ』は飢饉のせいで誘拐した子供を狸にたとえて食べる歌だと言われています。昔は意味も考えずによく平気で歌っていたと思いますよ」
 「地域社会学を研究しているとこの手の気味の悪い話には出くわしますから秋谷先生もよくご存じですねえ。そんなこんなで、うちの地域では10~20代くらいの男性はかごめ坂と言われる山を越える山道を男性は歩かないんですよ。もっとも、いまは車社会ですから山道を歩いたりしないんですけどね」
 僕は竹田先生のご自宅へ向かう途中、よく整備された車道を通ってきたのを思い出した。
 「ところで竹田先生、こちらのご自宅の電話番号を妻の実家へ教えてもよろしいでしょうか。妻が臨月なんですが、体調が良くないそうで実家へ帰っているんです」
 気分屋の妻は僕が研究のための出張をするとなると途端に機嫌が悪くなる。大抵仮病を使って僕を引きとめようとする。今回も出張ときいた途端に不機嫌になり、あの手この手で僕を引き留めようとした挙句、「体調が悪いから実家に帰る!」とえらい剣幕で荷物をまとめて出て行ってしまった。
おまけに、疑り深い。「浮気してるんじゃないでしょうね」とスマホがつながらないだけで大騒ぎをするのだ。不幸にして竹田先生の故郷は電波が届かない山間地域だった。そんな事情から、僕は妻の実家に竹田先生のお宅にお邪魔していると伝える羽目になった。
「ちょうど良かったよ、昌男くん」
切羽詰まった義父の声が受話器を通して響く。
 「急に娘の具合が悪くなって緊急入院することになったんだ。いま支度をしている最中だ。君も戻ってこられるなら来なさい。病院で先生に母子ともに危険だと言われて…」
 電話を切った僕は走って竹田先生の元へと戻り、事情を説明した。
 「落ち着いてください、秋谷先生。顔が真っ青です。いまから車で行けば最終の新幹線に間に合います。支度しましょう」
 そう言った直後、先生の自宅に設置された地域無線が音を立てて鳴り、続いて村のあちこちの鉄柱に取り付けられてあったスピーカーからも警告音が鳴った。
 ≪崖崩れが発生しました。危険ですので今後の指示に従ってください≫
 僕と竹田先生は顔を見合わせた。一緒に家の外へ出る。
 村は騒然としていた。羽織のような制服と制帽をかぶった村の消防団が忙しく動き回り、ヘルメットに作業着姿の初老の男の指示に従っている。おそらく彼は村長だろうか。
 それぞれの家の軒先ではその家の家族が不安そうに様子を見守っていた。
 「おめたち、何してるだ。早よ、うちさ入れ」
 背中から竹田先生の母上の声がかかった。
 「お母さん、秋谷先生の奥様の様子が悪くなったのでいまから町の駅へ送っていきます」
 「町に行く道なら崖崩れで封鎖になっただよ。明日にすれ」
「ですが、妻の父から母子ともに危ないと言われて…」
「けんど、今日は道が使えねだ。あと通れる道は御母体山の…」
 いいかけて老女は口をつぐんだ。
 「お母さん、それはまさか、かごめ坂じゃ…」
 二人の言葉に騒然とする村内のアナウンスや消防団の叫び声が一瞬遠ざかった。なぜか冷や水を浴びせられたような寒気が僕の背中を走った。
 <迷信だ>
 そう自分に言い聞かせた。確かに地域伝承の怪談を聞いたばかりでいい気はしない。しかし、所詮邪鬼だの妖怪だのは迷信にすぎない。人々が自然を敬うように作られた便宜上のキャラクターだ。僕は迷信の正体を知っている。だから恐れるものは何もない。
 「行っちゃなんねえ!」
 僕の決意に気づいた老女が叫んだ。
 「あん山さ行っちゃなんね! 秋谷先生が連れて行かれる。さっきから山ん様子が変らがよ」
 「しかし、秋谷先生の奥様が…」
 「山を越えれば町までは近いんですか」
 僕は二人の会話を遮った。竹田先生がおどおどした熊のように
 「え、ええ。徒歩40分の直線コースを通るので車と行くのと変わりません。山を越えると村があってそこから町までタクシーを呼んでもらえば行けるには行けます。しかし、もう暗いですし山道は危険ですから」
 「妻の容体が悪いときに迷信に振り回されて動けなかったでは夫としても父親としても失格です。迷信でこの先の生涯を後悔したくありません。僕一人で行きますし、道が直線なら迷いません。行かせてください」
 「なんねえ、なんねえよ」
 駄々っ子のように老女は「ダメだ」を繰り返していたが、新幹線の最終に時間の猶予のない僕は竹田先生に行き方を問い詰めるようにして尋ねた。
 あらためて御母体山を見上げる。夕日の最後の残り火に染まりながらも黒々と聳(そび)え立つ秋の山脈。気のせいか、僕には山が嬉しげに嗤っているように見えた。

 電池を変えたばかりの懐中電灯を持たされ、僕は山道を出発した。相変わらずスマホの電波は通っていない。
 最後まで反対していた老女が観念したように僕に警告した。
 「かごめ坂は、上ってから下り終わるまで絶対に振り向いちゃなんね。ただし、振り向いて知り合いがいれば問題はねえ。けんど、誰もいなければ“後ろの正面”に喰われる」
「“後ろの正面”とはなんですか」
「“後ろの正面”を見た者はいねえ。だから“誰だ?”と言われとる。『かごめ かごめ』の歌のまんまだがね」
 絶対に振り向きません、と約束して僕は親子に別れを告げた。
 秋の山の空気は冷え、ジャケット一枚のスーツ姿では肌寒い。午後6時にもかかわらず、山では夜の帳が降りていた。山道は使われていないせいで道幅は広くてもむき出しの土で歩きにくい。背の高い木々が鬱蒼と茂り、空を覆い尽くしている。夜の山は正直言って薄気味悪い。気のせいだと自分に言い聞かせているが、入ってすぐに視線のようなものも感じた。
革靴のうえ、山歩きに慣れていない僕の足では50分はかかると竹田先生に言われた。山を越えて町へ出てから午後7:30の新幹線にギリギリで間に合うかどうかだ。それでも帰らなくてはならない。
 心配する親子の顔が忘れられない。「迷信」とは言いつつも竹田先生もこの地で育ち、幾度となくかごめ坂の怪談を聞かされてきたのだ。僕と同じように迷信とは思っていても、トラウマから心配になるのだろう。それにしても「迷信」とは迷惑な存在だ。人の心にいたずらに恐怖を植え付ける。
 この村と似ているといえば18世紀のフランスの地方にも似たような伝説はある。「ジェヴォーダンの獣」と言われ、3年間で100名の村人を襲い、突然いなくなってしまったという話だ。獣は狼に似ていたともいわれているが、判然とせず、正体はいまだ謎のままである。それどころか本当に獣がいたのかすら怪しいといわれ、陰謀説まで出るほど今日でもフランスのミステリーとして残っている。
 それにくらべればこの村の怪異伝承は漠然としているが説明はつきやすい。

・御母体山には正体不明の御母体様が棲んでいて若くて美しい男を喰らう。
・かごめ坂は振り返ると正体不明の何らかに喰われてしまう。
・江戸中期のある一時期に若い男たちが姿を消している。

 人が被害に遭った姿が残っていたから「喰われた」と口伝されたのだろう。おそらく「喰らう」伝説は熊か狼にでも襲われた被害者と考えられる。
「姿を消す」伝説はもっと簡単だ。竹田先生がもっと広範囲で調べたら同時期に工事を行っている地域が出てきたかもしれない。あるいは男専門の人身売買でもあったか。江戸時代、男色は禁止されていなかった。
 そこまで考えて僕は安心した。迷信も怪談も追求すれば凡庸な内容であったり完全犯罪だったりするのだ。
懐中電灯の光だけが文明の明かりのように思える。そうじゃなければ異形の世界に迷い込んだと思えるほど山の空気は村とは違って妖しげで異質だった。そんな足場の悪い一本道を僕はひたすら歩いた。
15分ほど歩いた頃だろうか。最初は「迷信」「気のせい」にしてきた視線をいまでは強烈に感じるようになっていた。確実に誰かが僕を見ている。しかも真後ろから。歩みをやめず、僕は視線だけを左右に送る。暗くて良く見えない。しかし、背の高い木立と茂る下草以外は何も目に留まらない。そのうちに足音に気づいた。僕の後ろを誰かが歩いている。
ヒタヒタ ヒタヒタ…
気になって仕方なかった。一緒に歩く人がいるのであれば心強い。話でもして行けば気も紛れる。何度か肩越しに振り返って相手を確認しようとしてはやめた。迷信とはいえ竹田先生の母上が鬼気迫る顔で説得した「振り返るな」が僕を躊躇させたからだ。それに後ろを歩く人にも違和感を覚えていた。僕が足を速めると相手も速め、遅めると相手もゆっくり歩く。まったく同じ歩調で、かつ一定の距離を保っている。
かなり奇妙だ。相手は一体何者だろうか。
咄嗟に思ったのは「強盗」だった。しかし、人里離れた山の中に足を踏み入れてかれこれ経っている。とっくに襲われていてもおかしくない。それに、一定の距離を保つのはなぜだろうか。
恐怖心から僕は旅行鞄をつかむとさらに小走りになって坂を登った。登り坂のキツさは問題にならなかった。生命強奪の危機感がそれに勝っていた。相手も小走りになった。それだけではない。増えていた。足音が増えていたのだ。
ザッザッと道を蹴る足音が徐々に増え、やがて十人くらいいるような軽い地鳴りとなって聞こえてきた。幻聴ではなかった。僕はパニックを起こしておらず、自分の意識がはっきりしているのを自覚していた。
足音は近い。しかし振り向けない。このときは生命強奪ではなく心霊現象に対する底冷えするような恐怖に心が支配されていた。だから振り向けなかった。体験したことのない恐怖と、「振り向いてはダメ」というセリフが僕の頭の中で反響していた。
ついに僕は叫んだ。
「あんたら何だよ! 誰なんだ!」
途端に気配が消えた。足音もなくなり、まとわりついていた背後からの視線もなくなった。文字どおり煙となって消えたかのように。チャンスとばかりに僕は坂を走り抜け、登り切った。気配は消えたままだった。僕はゼイゼイと肩で息をして歩みを止めた。旅行鞄を持ったまま慣れない山道を行くのはさすがに厳しかった。気が抜けるとともに疲れが押し寄せてきたらしい。
あれはなんだったんだろうか。いなくなったいま、思わず振り返りたい好奇心にかられる。
しかし、その余裕も束の間で、またもや僕は背後に気配と視線を感じるようになった。
あとは下り坂だ。少し楽になるだろう。
それは甘かった。足場の悪い山道では下り坂の方が体力を使うのだ。急斜面ではないにしろ、足元も暗く、慎重にブレーキをかけながら歩かないと転倒しそうになる。ましてや旅行鞄を抱えているからバランスも取りにくい。背後に気を配りながら、前進にも気を遣って進む。最悪だった。早くこの罰ゲームのような状態が終わってほしいと心から願った。
とはいえ、まだ道半ばだ。重体の妻とその家族を思うと気持ちはさらに焦る。それであっても、僕はこの道を来たことを後悔していた。
歩くのが心底怖いのに進むことしかできない。
「迷信だ迷信だ」と繰り返し口の中で呟いては歩みを進めて行くしか僕にはできなかった。
クスクス…
はっきりと背後から子供の笑い声が聞こえた。
ギクリとして思わず立ち止まってしまう。
いるのだ。誰か知らないけれどやはり確実に僕の後ろには人がいるのだ。
「アハハハハハ」
距離はあるもののはっきりとした子供の笑い声が響いた。僕はようやく気づいた。
村の子供たちのイタズラだったのだ。地元では見かけない男が山に入るのを見て、驚かせてやろうとついてきたのだろう。村の伝承を知っていれば相手が振り向かないのを知っている。それをいいことに怖がらせてやろうとやりたい放題だったのか。
僕は振り向いて怒鳴りつけてやろうとした。
「父(トト)様、あいつ、しぶといだあよ」
その声に固まり、僕はあやうく振り向くのをやめた。
子供の声ではなかった。それも人間の子供の。ザリザリとした金属音が反響する甲高い声。爬虫類のシューシューという呼吸音も混ざっている。
足がすくんで動けなくなった。僕は夢を見ているのか。それとも頭がおかしくなったのか。人外の生き物が僕の背後にいると思うなんて。
「早く喰いてえ」「早く喰いてえ」
背後で声が合唱のように木霊する。重低音の暗い声が彼らを制する。
「いざとなりゃあ御母体様が捕まえてくれる。あとちっとの辛抱だがえ」
その声で僕は我に返った。止まっていたら捕まってしまう。僕は一目散に駆けだした。下り坂の悪路をこけつまろびつしながら転がるように走っていく。
迷信ではなかったのだ。信じられないが怪異は存在した。そして僕はその怪異に狙われている。僕はこの土地の得体のしれないものの標的となってしまったのだ。
背後からはっきりと地を這うような重たい声が次々に僕を追いかける。
「こっちを向くだぁよ」
「向がねえと引き裂くど」
「おめえの嫁コも赤子も引き裂くど」
「若けえ男の肉は脂がのってうめえだよ」
それでも僕は振り向かなかった。その脅しが余計に僕の視線を前だけにと向かせた。
ふと、黄泉の国に行ったイザナギが振り向かずに後ろ手に剣をふるって戦って地上へ戻った「古事記」の一説や、「ギリシャ神話」のオルフェウスが地獄から妻を取り戻すのに「帰り道は絶対に振り向いてはいけない」を約束させられたくだりを思い出した。
後ろを振り向く行為は共通して死者の国への禁忌を意味している可能性がある。振り向かなければ大丈夫だ。魔界へは引きずり込まれない。僕は自分へと言い聞かせた。
けたたましい赤ん坊の泣き声が山中に響いた。心臓が大きく脈打って止まるかと思ったほどそれは突然だった。その声に全身が総毛立つ。泣き声に混じって背後から女性の声が聞こえた。
「昌男さん、助けて…!」
妻だ。どうしてここへ――。振り向こうとして理性を取り戻した。妻がここにいるわけがない。ましてや子供は生まれていない。やつらの仕業だ。僕を振り向かせようとあらゆる手段を使ってきているのだ。僕は心を閉ざし、さらに前進を続けた。
やがて山の風景が変わってきた。木々の間隔が広がり、開けたところから村の明かりがまばらに見えるところまできたのだ。その頃になると背後からの気配も消えて行き、秋の涼しい風が頬を撫でるまでとなっていた。
ああ、ようやく出られるのだ。時計を見ると山に入ってから40分経過していた。途中で急いだのが功を奏したらしい。これで怪異ともおさらばだ。最終の新幹線に間に合う。僕の気持ちは舞い上がった。
ふと、前方に人影が見えた。ギクリとして思わず立ち止まってしまう。その相手には見覚えがあった。ヒョコヒョコ歩くその動きはまさに竹田先生の母上だった。
僕は嬉しくなって手を振って大声で叫んだ。
「お母様、無事に出られましたよ。僕です、秋谷昌男です」
ところが、僕と距離をとったまま反対側の道を歩く老女はまるで僕に気づかず通り過ぎて行く。変だと思いながらも僕は「お母様」と繰り返して呼びかけた。
一切の反応がないまま彼女は僕の横を通り過ぎて行った。
仕方ないので坂の出口へと向かう。よく考えたらどうやって彼女は村の反対側のかごめ坂までたどり着いたのだろうか。村の土砂崩れが片付いて竹田先生から車に乗せてもらい僕を迎えに来たのだろうか。しかし、それならどうして僕に気づかなかったのか。歳のせいか?
すると通り過ぎていった彼女の足音がとまり、振り向いて声をかける気配が伝わった。
「あんれま、秋谷先生でねえの」
「はい」
振り向くとそこには――誰もいなかった。
しまった!――そう思ったが遅かった。
僕の背後にはまたもや視線の数々と何者かがうごめく気配がいくつも感じ取れた。強烈な獣臭が鼻を突く。僕のすぐ後ろにいままでとは比較にならないほど禍々しい存在感を放つ相手がいる。生温かな吐息が耳にかかるたび、僕の全身にはそれとわかるほどの鳥肌が立った。
やつらの罠にかかったのだ。母上は言っていた。「振り向いて誰もいなければ後ろの正面に喰われる」と。異界で振り向いた僕は取り返しのつかないことをしてしまった。そんな僕をあざ笑う声がいくつも聞こえてきた。
後ろの正面――もしかしてここからが勝負じゃないか? 後ろの正面を見ずにわらべ歌の遊びどおりに相手を当てたら救われるのでは…?
僕が「御母体様」と叫ぼうとしたそのときだった。坂を転がり落ちるように何かが突進してきたのだ。それは巨大で真っ黒なイノシシだった。このままでは跳ね飛ばされる。逃げようと、僕は反射的に正面へと振り向いた――。

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大学講師の秋谷昌男が○○村の山道に入った後、旅行鞄を残して行方不明になったと報道されたのは翌日の夜のニュース番組でであった。

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