不戦の王 18 炎の戦士

<目次>
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営岡を発ち、盤井郡(岩手県)に入った朝廷軍は、小松柵(駒津? 古址が発見されていないが、現一関市と推測される)で安倍軍と遭遇した。
「緒戦は絶対に落とせぬ」
そう決心していた頼義は、大事をとり、たとえて言うなら何億匹というイナゴの群れが麦畑を食い尽くしながら進むように、小松柵を襲うつもりでいた。圧倒的な大軍団によるロード・ローラー作戦だった。
古寺の境内で車座になっての軍議。
空には低い雨雲が何層にも重なり、すでに長雨の予感をはらんでいた。
頼義の采配ぶりを窺っていた清原武則は、その雲の方に焦点の拡散した目を上げていたが、やがて下膨れの頬を左右に振ると、頼義の方を見もしないで言葉を放った。
「大軍は要しませぬな、頼義殿。十万の兵は、朝威の誇示に用いれば充分。仏の光背のように後方にそそり立たせておけばよいのでござるよ。それを見ただけで安倍は鉾先を鈍らせること必定。その隙を寡兵で衝くのでござる。よろしいか、寡兵、寡兵で衝くのでござるよ。大軍の我らがあえて大軍を用いず、炎のごとく奔り、風のごとく去る。すなわち安倍の得手を我らが用いるのでござるよ。長雨の来る前に大勢を決するを良しとするならば、安倍の意想外の手に打って出ることが肝要と存ずるが、如何!」
頼義は話の途中から、苦い汁でも飲んだように顔をしかめていた。言葉の端々から、征夷大将軍を嘲笑う不遜さが漂っていたからだ。
(なんたる無礼!)
名簿を差し出させたからといって、それは武則と頼義の間の暗黙裡の取り引き。朝廷から見れば、この戦の大将軍はあくまで源頼義なのだった。
しかし頼義は、時が時であり場が場であるだけに、武則の喉笛に両の爪をたてたいほどの怒りをなんとか呑み下した。
じつは。
怒りを覚えたのは頼義だけではなかった。この座に列する源氏方の武将たちも、清原方とは当初から、とても味方同士とは思えない睨み合いを続けていたから。
武則は、頼義や源氏の武将たちの気色ばみ方を口の端で冷笑すると、彼方の雲に視線を放ったままさらに続けた。
「蝦夷征伐のことは、我ら蝦夷にお任せあれ。朝廷も、頼義殿も、夷をもって夷を征するのが古来よりのやり方でござろうが。ならば、この戦、清原一族を鉾先として使いきられたらどうじゃな」
頼義は自分に視線すら向けようとしない武則を上目づかいに睨みすえていたが、品のない舌打ちを一つすると忌々しげな言葉を吐いた。
「ふん。よくぞ言うてくれたな。火のごとく奔り、風のごとく去るじゃと? 言葉では何とでも言えるわ。そうやって、そなたが舌三寸で言を弄しておるうちにも、安倍はますます守りを強固にしておろう。二戦、三戦で終わる戦ならいざ知らず、安倍を相手に大軍の利を活かさずして、どうやって最後の勝ちを掌中にするつもりじゃ、え? 言えるものなら言うてみろっ」
「さようか…そうまで言われるなら…では、逆にお尋ねしたい。大軍の利と仰せられたが、はたしてさようかと。その策、我ら蝦夷にはとても正気とは思えませぬな。なんとなれば、長期戦になればなるほど、大軍で、なおかつこの地に居を持たぬ遠征軍には不利なこと、それは十分おわかりでありましょう。よろしいか、頼義殿のお考えのように、大軍勢で北へ北へと進めば、兵糧基地は日に日に遠くに去る、そういうことでござるよ。考えてもみられい。北ほど早う雪が降る。安倍のことじゃ、必ずそこまで我らを誘い込み、同時に兵糧の補給路を断つはずじゃ。さすれば、雪の中でどうやって十万もの軍勢が生きられましょうや。凍え死にしたくなくば、坂東の者は雪の前に坂東に退く。それしかありますまい。そして、来春再び戦端を開いた折には、陸奥は再び安倍の支配下になっておる。来る年も来る年もそのくり返しじゃ。そのことは、幾年にもわたる安倍との戦いで、身をもって味わい尽くされたはずではござらぬか。もういちど言わせてもらえば、そういう事態にせぬための方策が、唯一、安倍の逆手をとることなのじゃ。安倍の逆手とはすなわち、寡兵による奇襲、急襲、夜襲、挟撃、火攻め…。そういうことでござるよ、頼義殿。おわかりかな、そういうことなのでござるよ」
そのとたん、源氏方の武将の憤りがみしみしと音を発するほど武則にのしかかった。中には刀に手をかけている者まであった。それを見て、清原方の武将も片膝を立て、即座に応戦の構えをとった。
「待て。皆の者、鎮まれいっ」頼義はなんとか征夷大将軍としての体面を保った。「これから緒戦というに、仲間割れをしておる場合かっ」
そして、珍しくずかずかとした歩みで武則の面前に立つと、
「おわかりかとは、ちと口が過ぎたな、武則殿。この源頼義、何年ここで国守を務めたと思うておられる。陸奥での戦の切言など無用なことじゃ」
そう言って、一本だけ伸ばした人差し指を曲げ、武則の兜を叩いた。
(なんという憎々しさか。名簿を取ったことが、ここまでこやつを増長させるとは!)
しかし。
とはいうものの、だった。
このたびは清原を徹底的に前面にたて、実益を取る決意ではあった。この場で何を言われようが、関白の耳には聞こえるわけではない。結果的に安倍を倒せれば、征夷大将軍である自分の手柄になるのだった。ここは、坂上田村麻呂以来の大武勲者として京に凱旋する確かな道を選ぶしかなかった。
(そうじゃ…ここは何とでも言わせておけばよいのじゃ。たかが出羽の蝦夷、蛮族じゃ。手駒として上手に利用してやればよいだけのことじゃったわい)
それから一呼吸。二呼吸。さらに一呼吸。
やがて頼義、八の字に下げた眉の下から武則を一瞥すると、こんどは自分がわざと武則に背を向けて言った。
「では、緒戦はまずそなたに先陣を預けてみようかのう。出羽の蝦夷のお手並み拝見じゃ」
「ふむ。ようやくおわかりいただけたか。では、そのように。源氏のお方は、遠矢の届かぬ高みより、どうぞごゆるりと御覧じろ」
そして武則、太った体躯に似合わない俊敏さで立ち上がると、清原方の武将に目配せし、礼もせずに去っていった。
座には頼義、義家以下、源氏方の将だけが残った。
「よいのでござるかっ。あのように好き勝手を言わたままにしておいて!」
血気盛んな嫡男義家が、眉を上げ下げしながらさっそく父に噛みついた。頼義は精一杯の余裕を演じて応じた。
「なあに、義家。安倍の刀の錆にならせてくれと言うておるのじゃ。死なせてやれ。我らの代わりに血を流してくれようという可愛い輩ではないか。蝦夷とは、しょせん倭人の手足、そこらの牛馬の同輩じゃよ。のう、そうであろう? ククククク…」
源頼義という男。
けっして哄笑はしない。ただ、唇の端から漏れ出る笑いとともに、前かがみの両肩を小刻みに震わすだけだった。

清原武則の方は、即座に手勢五千の先頭に立ち、小松柵に向かって発進した。
柵、または城柵。
それは古代国家、奈良時代に始まった政庁であり軍事基地である。
たとえば陸奥の県庁にあたる多賀城はその代表だが、多賀城の場合、四周の一辺が約1キロ。外郭は築地塀で囲まれ、中に京の政庁を模した官庁群と、駐屯する役人や鎮兵の宿舎、食糧倉庫、武器庫などがある。国府のある城柵は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれ、国の威信を地方に誇示するための装置でもあった。
他方。
役所機能もさることながら、蝦夷の征討に重きを置く柵もある。その場合は、築地塀だけでなく、材木塀、土塁などで二重の外郭線を構築したのもあるし、時に櫓を設けたりもしている。こうなると、政治施設というより砦に近い。
小松柵は後者、安倍一族の勢力圏の南に位置する平野部の城柵だった。
清原武則は躊躇なく弓の射程まで全軍を進めた。が、安倍は仕掛けてこない。その無抵抗を知っているかのように、さらに前進する。ついに櫓の上の見張りの顔が判別できる距離にまで近づいた。武則は間髪を入れずに命じた。
「それっ。小松を火の海にしてやるのじゃっ。安倍めらを地獄のかまどにくべてやれいっ」
いっせいに火矢が放たれた。数千本の火矢が、秋の長雨の先触れのように、延々と小松柵に降り注いだ。
小松柵を守るのは、一族の外戚、安倍良照。その火矢を合図のように退却を開始した。退却には、将士は馬を使う。馬に牽かせたソリのような馬車も使う。車輪つきの馬車は泥や凹凸にかえって難渋する。だから安倍は、現代風にいえば、戦車のキャタピラーのような構造の長楕円のソリを履いた馬車に、武器、食糧などを積み、脱兎のごとく北へ急ぐ。
速い! 速い!
三十分もすると、20キロも彼方にいた。
良照、全員の無事を確認すると、炎上しているはずの小松柵の方角を振り返り、まるで勝ち戦をしたかのように会心の笑みをもらした。
「ご苦労なことだな。焚き火にはちいとばかり早いからのう、さぞ熱かろう」

源氏に従う七万の兵は、武則の軍が帰って来ると、いっせいに左右に散って道をあけた。
たしかに先制パンチは安倍に向かって放たれたが、相手がリングにいなかった。
空振り。
しかし、武則が一人の死傷者も出さずに勝ちをおさめたのは事実だった。
ダメージを受けたのは、むしろ頼義だったのかもしれない。
源氏の将士の間には、「清原め、さすがに我らの頭領が長い間味方に引き入れようと苦労しただけのことはありそうじゃ」、そういう評価が、緒戦にして芽生えた。
しかし、傲岸な凱旋をした武則に、頼義は言い放った。
「たしかに小松は落ちたのう。しかし、敵将はどうしたのじゃ。首の一つもないではないか。食糧はどうした。武器は奪わなんだのか。まさか、手ぶらで帰って来たのではあるまいな」
「何を言われまする、頼義殿」武則も負けてはいない。「貞任、宗任ならいざ知らず、雑魚の首が何ほどのものかは。それに、小松程度の脆い柵に、貴重な食糧、武器を置いておくほど安倍はぬかってはおりませぬわ。元々なかったのでござるよ。じゃから、逃げた。清原怖しと一目散に逃げた」
そこで武則はいちだんと胸を張って言葉を継いだ。
「そのようなことより、頼義殿。ここは、火をもって遠矢で攻めた、その戦法をよく肝に銘じておかれることじゃな。人が戦うのではござらぬ。人が炎に戦わせる。炎を兵にするのでござるよ。おわかりか、源氏の頭領、いや征夷大将軍殿。これも蝦夷の流儀の一つでござるよ」

この言い争い、明らかに武則の勝ちだった。
が、真実は誰が清原武則に勝たせたのか。
先に、「源氏に戦をさせぬための策」と貞任は言っていた。そして、その策を武則に呑み込ませるのだと。
その第一矢が名簿だということはすでに述べた。
では第二矢は?
第二矢が、いわばこの炎の戦士なのだった。これは両軍ともに傷つかない、安倍貞任と清原武則の申し合わせどおりの戦のしようだった。
が、そんなこと、ここでは武則以外、誰一人知らない。
ただ。
緒戦にして早々に、誰がこの征夷戦を牛耳るべきか、朝廷軍はその答を垣間見ることになってしまったのは事実だった。
そして、その事実こそ安倍貞任にとっては大切なのだった。