不戦の王 17 開戦

<目次>
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清原真人光頼は出陣しなかった。
弟武則だけが出た。
先述のように、光頼は高齢だった。だからだが、それ以上に考えられるのは、万一筋書きどおり事が運ばなかった場合にも、すなわち武則が命を落とした場合にも、清原一族の存亡に関わるような事態は避けられる、その配慮だった。

第一陣 清原武貞(武則の子)
第二陣 橘貞頼(武則の甥)
第三陣 吉彦秀武(同じく武則の甥)
第四陣 橘頼貞(武則の甥・貞頼の弟)
第五陣の一 征夷大将軍 源頼義
第五陣の二 清原武則
第五陣の三 陸奥国官人
第六陣 吉美侯(きみこ)武忠
第七陣 清原武道(武則の子・武貞の弟)

吉美侯も清原一族の遠い血縁にあたる。
その数、清原軍一万、頼義軍三千という記録がある。
が、清原軍三万、頼義軍七万、計十万という記録もある。
兵数があまりに違う。
前者の論拠は、頼義が長年安倍に手こずった経験から、狭隘な山岳戦では大軍をもってしても意味がない。それよりほんとうに戦力になる精鋭だけを選りすぐって三千にした、という説。
たしかに傭兵は士気も低く、また武器の扱いにも習熟していない者も相当おり、組織的な戦いの訓練も行き届いていなかったらしい。数がどんなに多くても、その数ほどには役に立たなかった。
しかし、ご記憶のとおり、鎌倉で陸奥の様子を窺う頼義のもとには坂東武者七万騎が集まったのである。それには異説がないことからすると、ここは後者に分があるし、また二百五十年前の桓武朝、坂上田村磨以来の大々的な征戦であることからしても、征夷大将軍にわずか三千の兵しかつけないことは考えにくい。
仮に三千であれば、安倍は山岳戦に持ち込むこともなく、数の優位を発揮できる平地戦で朝廷軍を撃破することも可能となる。いかに精鋭部隊とはいえ、負けるのが明白な数で頼義が乗り出すことはあり得ないのではあるまいか。

他方。
安倍軍はといえば、兵数四万五千騎とされている。
しかし、何しろ山岳地帯に散開してゲリラ戦を展開する安倍軍だから、その兵数は憶測の域を出ていない。
とはいえ、である。仮に清原が三万であるなら、奥六郡という豊かな地域の盟主、安倍一族の繁栄ぶりからして四万、五万、あるいは六万という数は、オーバーでもなんでもないのではあるまいか。

朝廷軍の将、源頼義は出陣にあたって縁起をかついだ。
かつて征夷に成功した坂上田村麻呂に倣って、営岡(たむろがおか・宮城県栗駒町)で出陣の儀を執行した。
進撃開始は八月十六日。
源氏が天下に初めて示すことのできた「威」、ということになっている前九年の役も、こうして最終章へと突入した。
天皇以下、京にある高級官僚たち、目指すは陸奥の完全皇化である。
皇化と言えば聞こえはいいが、その中身は単なる自分たちの物欲を満たすことにすぎない。第一に蝦夷の金鉱、第二に鉄、それともう一つ、第三に「親潮渡り」と言われる大陸産の名馬が欲しいだけのことだった。
早い話が、略奪目的に「皇化」という大義名分を戴いた強盗団が、金持ちの蝦夷家に押し入った、というのが実態だったのである。

さて頼義、ふだんは世間にすねたような暗い目をしているくせに、このとき八月十六日ばかりは、黄金の眠る遥か北上連峰の方角を睨みつけ、征夷大将軍としての第一声を発した。
「国の安危はー、此の一挙にあーり。全軍よろしーく、之を、勉むべーしっ」
しかし、これ、どこかで聞いたような言葉である。
そう、先に後冷泉天皇から頼義が賜った勅(ちょく・天使の御言葉、命令)のそのまんま。「将軍」を「全軍」に入れ替えて、自分の演説に使ってしまった。頼義はそういう抜けぬけとした男だったが、幸いなことに、そんな勅を知っている者は誰ひとりいない。
「さすがは源氏の頭領、学問がある。我らと違い、言うことに堂々たる格調があるぞい!」
並みいる坂東の武将たち、このときばかりは素朴な尊敬の念をもって頼義を振り仰いだ。

この八月十六日という日は、安倍貞任にとっても待ち望んだ日となった。
なぜなら、貞任には、倭人の魔手から蝦夷を守りぬくための準備が整いすぎるほどに整っていたから。
貞任、宗任、そして八身は、この戦に備えて数々の秘策を用意してきた。それは正任が孤立したように見せたことに始まり、そのことが黄海の戦いで増幅され、そしてさらに武則から頼義に要求させた名簿によって、決定的な楔が打ち込まれた。
が、用意された秘策はこれがすべてではなかった。
これまでは揺籃期。
これからがいよいよその開花の時なのだった。
しかも、数々の秘策は単体で実行されるのではない。それぞれが折り重なり、相乗し、さらなる効果を生み出すように仕組まれてもいたのだった。