不戦の王 コラム「ジャパニーズ・サッカー」

<目次>
https://www.gengoya.net/info/novel-6/

日本にサッカーが伝来したのは明治六年。
イギリス海軍がやってきたとき、
日本の軍人に教えたのが始まりだとか。
が、蹴鞠の伝来は約千四百年前の飛鳥時代にまでさかのぼる。
蹴鞠は仏教とともに中国からやって来た。

頼通が蹴鞠の技ひとつで宗任の文化度を看破したのは、
決してオーバーなことではなかった。
蹴鞠は「歌鞠両道」といって、
ただのボール遊びではなく、
天皇をはじめとする日本の権力と
文化を専有する階級の最高の嗜みとして
深く浸透していたのである。

歴代の天皇たちは高級官僚たちとの蹴鞠の会を
たびたび催した。つまり当時の日本では、
蹴鞠をやれることが何よりのステータス・シンボル、
蹴鞠は単純に汗を流せば楽しいだけの
スポーツではなかったようだ。

一部の権力者たちに専有された蹴鞠は、
必然的に高貴な処世の具のようになり、
したがってある意味では、
権謀術数、姦計の渦巻く朝廷社会の肉質そのものに
なっていったと言っても過言ではなかった。

たとえば、大化の改新の中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足。
彼らが手を結ぶきっかけとなったのが
じつは蹴鞠だったと伝えられているが、
雅な庭で鞠を蹴りながら、
ひそかにどのような密約を交わしていたのか。
まるでスパイ映画の1シーンを観るようでおもしろい。

蹴鞠は本場中国では衰退したにもかかわらず、
伝来した日本では近世まで
「蹴鞠道」として天皇家を中心に熱心に伝承された。
まるで、天皇の身につけるべき教養の柱に
なったかのような扱いだった。
その結果、天皇からは土御門、後嵯峨、亀山、伏見など、
枚挙にいとまないほど多くの名足が輩出した。
それもそのはずである。
天皇や一部の上流貴族は蹴鞠の練習場
「鞠場」を屋敷内に設け、政務そっちのけで
猛練習に明け暮れたというのだから。
そんなわけで、「蹴鞠がうまい人」とは、すなわち
「それだけのトレーニングができる特権階級の大金持ち」
という意味でもあった。

しかし、この蹴鞠の特殊性も、
時代が下るとしだいに国民スポーツ化、大衆化してきた。
ただ、当初は、貴族以外に広がったといっても、
まだ鎌倉幕府の高官たち、
たとえば源頼家や実朝などの間で
盛んに蹴鞠が行われた程度の広がりだったが、
それが戦国時代になると、
この前まで猪を追いかけていた野武士まで鞠を蹴り始めた。
当然ながら、城持ちの信長はぽんぽん蹴った。
秀吉も負けじと蹴ったらしい。

そして徳川の世になると、
江戸城内でも蹴鞠場「鞠垣」が設けられ、
一般庶民のためにも「蹴鞠道場」なるものが造られた。
もはや蹴鞠から淫靡な政治の匂いは
皆無になってしまった。
しかし、皮肉なものである。
蹴鞠は裾野を広げ、誰でもできる国民的娯楽に
なったとたんに、衰退を始めたのだった。
おそらくは、蹴鞠が単なるボール遊びになったとき、
その「道」としての哲学性、美学性を
失ったからではないかと想われる。
文化とは、そういうものであるらしい。