不戦の王 29 脅迫された関白

<目次>
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「敵将が目の前におるというのに首も獲らぬ。それどころか、蹴鞠なぞさせて感服しておる。関白頼通とか申す御仁も奇妙な人物よ。そうは思わぬか、のう?」
頼通は階の中ほどに腰をおろし、白砂に片膝をついている宗任にうそぶいた。頼通は蛮国陸奥からやって来た若者に、こうまで心を動かされている自分をおもしろがっていた。
宗任、無言。
宗任は頼通の腹のうちを読みきって、どう話を切り出したものか、その糸口を探っていた。
(頼通は自ら手を汚すようなことはせぬ。朝廷軍が勝つのは自明のこと。いまさら、こんな若僧の首を獲ってみたところで、なんの役にも立たぬ。それより、ずっとずっと大切なことがある、いや、頼通の頭にはそれしかない。それは…)
それは、欲である。この戦によって満たそうとしている欲である。
そして、その欲につけいって安倍の目的を果たすのが、宗任上洛の仕事なのだった。
「して、陸奥の戦はどこまで進んだ」
頼通の声音が突然、本来の怜悧なものに変わった。話はいきなり核心に触れてきた。
頼通との話し合いは、つねに頼通の欲心を念頭において進めることじゃ。それが、兄貞任の助言だった。宗任はその言葉をあらためて自分に言い聞かせ、頼通の横顔をまっすぐに見て答えた。
「きょう、あるいは明日には厨川で最後の決戦がなされるでありましょう。関白殿のご心中にあるこの戦の本義が、みんごと達成されるのか、されないのか、それが一両日中に明らかになるのでござりまする」
「よくもまあ、ぬけぬけと。わかったようなことを言うてくれることよ。しかしのう、そのような大事を措いて、そなたも呑気なものよ。安倍の次席が戦場におらいでよいのか」
「表の戦い以上に、裏の戦いに力を尽くすのが安倍代々の流儀にござりまする。弓や刀を用いて命のやりとりをするなど、つけたりのこと。裏の戦いにこそ、双方の利害を調停する道があろうと心得まする」
その調子。うまくいっている。こうして、利害得失を匂わせつつ話を進めるのだ。宗任は自らを励ました。頼通はもちろん誘いを承知で乗ってきた。
「ほう。安倍はなかなかの乙名(おとな)とみえるな。これまた源氏や平家からは聞けぬ言葉を吐きおった」
「畏れ入りましてござりまする」
「さて。そうなれば話は早い。ということは、そなたが裏の戦いをこの頼通に仕掛けに参ったというのじゃな」
「畏れながら、さようにございます」
「では、遠慮のう一の矢を放たれよ」
頼通。もちろん、宗任が放ちたい矢の推察はついている。安倍の財宝をこんなにもたくさん持って来たからには、主だった者の助命、そして何がしかの領土安堵の嘆願であろうと。
(それ以外に何があるか)
しかし、あえて頼通は尋ねたのだった。
宗任は一段と背筋を反らせると、敗者の側の卑屈さなど微塵も見せず、堂々と言い放った。
「私とその供の者たち五十六名が西国で新たな血脈を残せますよう、ご配慮いただきとう存じます」
その言葉で頼通は、顎の先の薄い三角髭をしごいて、初めてまともに宗任を見下ろした。宗任は目をそらさなかった。宗任出立のとき、一族をあげて別れの盃を交わしたわけは、この一の矢の中にあった。あれは永久の別れの盃だったのだ。
「ふむ。何を言い出すかと思えば。あの者たちは、財宝の用心に連れてきただけの武士ではなかったのか。なるほどのう。そういう腹であったか。では、陸奥の血脈の方はどうするのじゃ」
「そのことにござりまする。そこに二の矢が潜んでおります。陸奥は清原のみに安堵させていただきとう存じます。源氏は陸奥から去らせていただきとう存じます」
宗任は、ここで清原との間の密約を果たす大切な口火を切った。
「ほう。奇なる話をするものかな。そうすることが、陸奥の安倍の血脈を残すことになると言うのか…おお、そうか、わかったぞ。うっかりしておった。安倍と清原の血はすでに代々交わっておったのじゃな。それに、そう、源氏は安倍と同じく山の民。言うてみれば仇同士。なるほど、同類相食むか。そういうことであったか」
「どのようにお取りいただいてもよろしゅうございます。とにかく申しあげたきは、此度の戦、征夷大将軍は後方に下がったまま。実質は清原の老大将がすべてに采配いたしておるというのが事実。衣川はもとより、これまでのどの柵も、落したのは清原にござりまする。厨川でも源氏は決して前に出て戦いますまい。源氏のやっておりますことは、その大軍の足の下でいたずらに陸奥の豊かな田畑を荒地に変えておるのみ。つき従う坂東武者からの評判も、いまや地に堕ちております。どうぞその点をご勘案のうえ、戦後のご勧賞を天下に恥じることなく、正しく行っていただけますよう、衷心よりお願い申しあげます」
「なんと率直なもの言いをすることよ。ほっほっほっ、その口で源氏をないがしろにしろと言うのか。いや、源氏を褒めれば、褒めた者が笑い者になると言いたげじゃな。関白頼通をそそのかすのか。これはまたおもしろし、おもしろし」
頼通は扇で口元を隠しながら、本気でおかしそうに笑った。上機嫌でさえあった。明らかに、そういうことを言ってのける宗任を気に入っている風情だった。
笑い終わると、しかし、いまのいままで笑っていたとは思えない冷たい頬に変わり、そして言った。
「放つ矢はそれだけか」
「は。まずは以上二矢のお願いにあたり、陸奥より黄金を三駄、百貫余。駿馬百頭、屈強な荷駄馬三十頭。上布一千反、細布百反。さらに砂鉄、琥珀、毛皮などを運び入れました次第にござりまする」
「その土産のことはもうわかっておる。しかし、まさかそれだけの土産で充分と思うてはおるまいな」
「…?」
「貞任の命はこの戦のあと、どうする気じゃな」
「どのように、と仰せられますと?」
宗任は何を問われているかわかっていながら、わざと間をとった。宗任のこのたびの任、最大の難関はそこにあったからだった。頼通はしゃあしゃあと続けた。
「貞任と、それから先の陸奥権守、藤原経清両名の首級は、京にいただかねばならぬな。当然であろう? 両名の首級も土産につけるのじゃな。それなくして、帝に対し、どう戦のけじめをつけられる? そうであろう」
頼通は、宗任に兄や主だった者たちの助命嘆願させ、助命と引き換えに、安倍を身ぐるみ剥ぐ気でいる。それぐらいのこと、もちろん宗任にはわかった。
宗任は心の動きを読み取られないよう、表情を消した。
助命嘆願は必ず成功させなければならない。しかし、奥州の王と呼ばれるほど蝦夷の尊崇を集める安倍一族、そういう生き方を貫いてきた安倍の自尊心、それが倭人に対し、そう簡単に命乞いをさせはしなかった。
(膝を屈することはできぬ。命を乞わずして同じ成果をこの手につかむのだ)
宗任はやがて変化球を投げ返した。
「お申し越しのこと、ごもっともに存じまする」
「なに?」
「確かにその言、承りました。両名の命、どうぞ関白殿のよろしきように」
「なんと。それでよいと申すのか。これは意想外。そなただけ西国で生き延びれば、兄や叔父の命はいらぬ、差し出してもよいと申すのか。それが安倍の流儀か。偽りを申すなっ」
「偽りなどと、滅相もないことにござりまする」
「ふむ。では、そなた、貞任の前でも同じことが言えると申すのか」
「安倍一族を生かすためなら、この戦のけじめとして、兄とその義弟は喜んで命を差し出すでありましょう。私はその兄と義弟の志しを代弁したまでのこと。私が申したのではございませぬ」
「おお。よくも申したな。この関白に対してそのように言葉を弄するとはなかなかの度胸じゃ。おのれの言うたことがどれほどのことか、わかっておるな」
「わかっております。しかしながら、このことは、両名が戦に入ると決めたとたんに決意しておったこと。兄も義弟もこれほどの戦をしておいて、戦後も生き延びようとは露ほども思っておりませぬ。陸奥を安堵するためなら、自らの命はいつでも差し出す、それこそ安倍の盟主の本懐にござりまする」
頼通は、あきれたように首を振り、それから、宗任の魂胆を品定めする視線をしばらく宗任の周囲に廻らせていた。
宗任はその視線を意識しながらも、しかし平然と顎を上げ、闇の彼方を睨んでいた。
「ふむ。さすがは蝦夷の覇王よ。よい血脈を遺しておられる。いや、またまた感服いたしたぞ」
頼通は怜悧な口元を、瞬間、うっすらゆるめた。しかしすぐに真顔に戻ると、唇にそって弧を描く口髭を撫でながら、一段、また一段と階を下り始めた。
宗任は勝負の時が迫ったのを知った。
戦であれば、刀に手をかける、いよいよその瞬間が来ようとしているのがわかった。
頼通は宗任のそばに、わざとらしく顔を近づけると言った。
「宗任とやら。そなたの器量のほどはようわかった。夷族だとて、もはや侮りはしない。それどころか、都で政をする中にもこれほどの御仁はめったに出ぬ。それを認めたうえで言うのじゃ。強がりはもうよい。本懐の話はもうよいわ。本懐は本懐として、貞任には別の本懐もあるのであろうが、え? そろそろ、その話に入る頃合いではないのか」
「何を仰せられるのかと思えば…。畏れながら申しあげます。安倍の地はすべて清原のものに。宗任以下五十六名は西国に。それ以外の願いは…」
「もうよいわっ」
頼通は宗任の言を遮った。それから身を乗り出すようにして、宗任の目をしばらく覗き込んでいた。
(なんと誇り高き蝦夷であることよ。決して自らは膝を屈さぬ構えか。さようであるか。わかった。それが、神代の頃よりこの畿内に君臨しておったと伝えられる安倍一族の自尊であるのなら…)
やがて頼通は、喉仏をごくりと上下させ、一つの決意を呑んだ。そして、例の、時間の奥まで見透かすような目をどんよりと垂れた瞼の奥にしまうと、顎を中天に上げ、詠うように言った。
「ところで、のう宗任。そなたとその手の者たち、さぞや急ぎ旅で疲れたことであろう。寝所はどうしておるのじゃ」
「鴨の川原に、と考えておりまする」
「それはなんと慎ましやかなことよ。その心遣い、なかなかのものじゃ。しかしな、それはならぬ、それはならぬぞよ。あそこは疫病で死んだ者の捨て場所である。蹴鞠の名足と、それを生み出せる一族のおるような場所ではないぞ。すぐに手配いたそう。京での心地よい居場所を定めてくれよう」
宗任ははっと顔を上げ、一瞬後、光に眼差されたかのように顔を輝かせた。がばと両手をついた。
「ありがたき幸せにござりまするっ」
なんと!
それは、西国へ、という願いは聞き入れたぞという暗示なのだった。
頼通の方から先に歩み寄ってきた。
聞き入れないのであれば、この足で陸奥へ引き返すしかない。寝所の用意など必要ない。
まず、一の矢は頼通の的を射たのだった。
「それから…」頼通はさらに言葉を継いだ。「庭で飼う鹿は角を矯めねばならぬ。そういう声が朝議でも上がっておる。もう中秋じゃ。秋も深まれば、牡鹿の気性がとみに激しうなるからのう」
宗任はその言葉を聞くと、我知らず中腰になっていた。
「そ…そのお言葉、真にござりまするかっ」
本心であるかと、思わず問うていた。そのあたりの率直さが、頼通はむしろ気に入っていたのだろう。宗任を見てはいないが、深くうなずいてみせた。宗任はどすんと腰を落した。拳を握りしめた。ともすると弾み出しそうになる息を圧しとどめ、ようやく言った。
「まことに…まことに、ありがたき幸せに存じまするっ」
二の矢も的を射た。
「庭で飼う鹿」とは、もちろん源氏の暗示だった。この戦の功を源氏にやれば、平家と源氏の力の均衡が崩れる。源氏と平家の喧嘩御輿に乗ろうというのが公卿たちの基本戦略である。源氏が平家を大きく凌駕しては、扱いにくくなるだけだった。
宗任は、筋書きが思い描いたとおりに進行していることに震えだしそうなほどの興奮を覚え、いよいよ三の矢を放つ時機が来たのを知った。
頼通から歩み寄ってきたこのいま以上の好機がまたとあろうか。宗任は膝を進めた。
「申しあげます。すでにご案内のこととは存じますが、安倍は黄金をいっさい陸奥では用いませぬ。安倍の掘る黄金の山は、すなわち我らのためにあるのではござりませぬ。では誰のためにあるのか。それについて安倍一族は、父祖の代より変わらぬ宿志を養っております。兄貞任は、このたびの戦で、その宿志を戴いて死ぬ覚悟にござりまする。よろしいか、安倍厨川次郎貞任、万代の宿志を戴いて程なく死ぬのでござりまするっ。黄金を欲しがる源氏や清原に、どうしてその宿志が継げましょうやっ」
宿志を戴いて死ぬとは、すなわち万代の宿志が途絶えるということを意味していた。つまり、もはや陸奥の黄金は摂関家のためには掘られなくなりますぞ…。そういう意味だった。
(それでよいのか。摂関家がこの後も陸奥の黄金をひそかに私したければ、源氏や清原を頼まず、安倍を生かすしかないとは思わぬのか)
宗任はそう問いかけていた。
いや、脅迫しているのだった。
宗任はこの言葉によってしか助命嘆願の交渉をする気はなかった。これなら惨めな命乞いではない、対等な政治的駆け引きである、安倍の尊厳は保たれる。そう考えていた。
宗任は糸のように唇を引き締め、ゆっくりと頼通へと視線を上げた。振り下ろした太刀が相手の骨を砕いていくさまを、まるでスローモーション映像で見るかのように。
頼通は、何世代も前の世から覗いているようなその深い目の光で宗任を照らし返していた。が、不意に再び顎を中天に上げると、かつてないほどの哄笑を始めた。
「かっかっかっ…言うてくれたな、宗任、かっかっかっ…。気に入ったぞ、宗任。今宵はよう笑わせてくれる。心から礼を言うぞよ、かっかっかっ…」
その哄笑は、宗任ごとき若僧にこの頼通が脅迫された、それをおもしろがっている、そういうふうに宗任には感じとれた。頼通が怒り出さなかったのは、蹴鞠をはじめとして、宗任に爽やかな驚嘆を何度も与えられていたからだった。しかし、もちろんそのことは宗任の計算外、いや頼通にとっても慮外のことだった。
が、ともあれ、裏の意図、欲心に訴える太刀は、確実に頼通の骨に達した。
(だから、このように笑うておる)
それを宗任は確信した。あとは頼通が呑むかどうかだった。宗任は哄笑がおさめられるまで、息を詰めて頼通の大きな口の中を凝視していた。
頼通はようやく肉厚の頬の内に笑いしまうと、宗任に我が子にも見せたことのないような、柔らかな視線を注いだ。それから、世間話でも聞かせるようにのんびりと話し始めた。
「ほっほっほ。いまはのう、末法の世じゃ。輪廻の地獄から脱するには、この世に極楽浄土を造るしかないのじゃ。それには黄金がいくらあってもありすぎるということはない。知っておろう、黄金は御仏のご身体なのじゃ。であるからして、それを掘り出すという所業もまた、造仏をすることに等しいと言える。陸奥におる安倍という一族はうらやましいかぎり、そうは思わぬか。日ごと夜ごと造仏しておるからのう。不惜身命(ふしゃくしんみょう・仏のために命を捧げること)とはこのことじゃ。末法の世の鑑ではないか。そういう功徳をする者をいったい誰が妨げられよう。宗任、そなたも、そう思うであろう。はてさて、もう夜も更けた。陸奥におる安倍の者には、おのれの首が京に届けられるのを間違いなく見届けるよう、よう伝えておくのじゃな。よいな。では、しばしこれにて待て。宿所の手配をいたそう」
宗任は我知らず涙が頬に伝うのを覚えた。
平伏している肩が震えた。
三の矢もみごと的を射たのだった。
屈辱的な命乞いをすることなく目的は達せられた。そして頼通は当然のように実益を取った。
八身が事前に読み切って貞任たちに進言していたとおり、関白頼通は黄金を私する場合、できればそれは、いつ牙を剥くかもしれない源氏からより、そして倭人と同様黄金に執着する清原からより、自らのために黄金を掘ることはしない安倍からが最善なのだった。
そこを宗任はついた、いや八身と貞任はつかせた。その策が見事に頼通の肚におちた。
「おのれの首が京に届けられるのを間違いなく見届けよ」という言、届けられるのが偽首でなければ、見届けようがないのだった。
(ああ、なんという…安倍の血はこれで続く!)
宗任が涙に濡れた面をやっと上げると、頼通は階を昇りきったところだった。宗任は唇を震わせながら、その背中を凝視した。
やがて一つの思いを呑み込んだように見えた。膝をにじると、その思いを口に出した。
「関白殿っ。もう一つ…じつはもう一つ、お願いが…勝手なお願いがござりまするっ」
すべての終わったはずの宗任が必死に叫んだ。声がこれまでになく引きつっていた。その緊迫感に頼通が足を止め、肩越しに振り返った。
「じつは一行の中に高熱を発しておる病人が一名おります。薬を使う僧をなにとぞ…なにとぞっ」
頼通はふーっと息を吐き、なんだ、そのようなことであったか、というようにうなずいた。頼通の姿はやがて壁代の陰に消えた。
宗任にとってはしかし、そんなこと、どころではなかった。病人とは二尾のことだったのだから。
全身が火のように熱い。それがもう二日も続いている。意識も半ば身体を離れているかのようだった。もちろん不眠不休の急ぎ旅がたたったからに違いない。
(早く二尾の元に帰らねば…)
宗任は、無事大役を果たせた安堵感にひたることもせず、目の前の闇を貫いて心を二尾に放った。
とにもかくにも、後に前九年の役と言われるこの戦で、安倍貞任らの仕掛けた数々の秘策のうち最大の秘策は、こうして見事に成功をおさめたのだった。