炭山の御神木(1)

貧しい朝食を終えて外に出た。塩気の抜けきらないフキ、ゼンマイの保存食とジャガイモの塩茹でである。そろそろ保存食も底をついてきたようである。
緩やかにやませが吹いている。やませが切れ間なく濃霧を運んできた。雄大に裾を広げる坊主山(東ヌプカウシヌプリ)は深い霧の衣に包まれて姿は見えない。
「今年も駄目かもしれないな」
山内和男は、頭上を覆った分厚い雲を見上げて呟いた。指先で地面を掘ってみた。表土の数センチ下は未だ凍っている。頬を撫でる微風ですら体温を奪っていく寒い春だった。
炭焼小屋から一筋の煙が昇っている。今年最後の炭づくりである。仕上がった炭を出し終えると、日を置かずに救済事業の作業が待っている。
昨年は作物の販売収入より、炭を焼いたり救済事業で得た収入の方がはるかに多かった。これでは畑を耕し、種を植え、天候を気にしながら作物を育てる意味があるのかと、時々、疑問をおぼえる。
背後に人の気配がした。振り向くと、原口東馬が満面に笑みを浮かべて立っていた。
原口東馬は元道庁の土木技師で、和男はかって三か月ほど、原口の下で測量の助手をしていた。東馬はその時の上司だった。
今は退職して、東京に転居したと聞いている。
「元気そうだな」
「ハイ、お蔭様で何とかやってます」
「そうか。で、百姓の方は上手くいってるのか?」
原口東馬が何故訪ねて来たのか、和男には分からなかった。何しろ東馬と別れて五~六年は経っている。
「気候しだいで、悪い時も良い時もあります。全体的にみると悪い方が多いかな」
「百姓とはそんなもんだ。所詮天気任せの商売だからな。でも、辛抱強くやってるうちに良くなるさ」
当たり障りの無い会話が続いた。進展の無い無意味な会話には興味はない。
「ところで、今日は一体?」
「何しに来たってか?」
和男は首を横に振って俯いた。短い期間だったが、かっての上司である。不躾な問いに、東馬が機嫌を損ねたかも知れない。
「お前さ、土地を広げる積もりはないか?今お前が所有してる農地は五町歩だろ。五町歩で飯は食えんぞ」
「そったらこと言ったって、ここにはもう広げる土地は無いし」
「そうでもないぞ。実はよ、お前が持ってる土地の地続きに十五町歩ほどの未墾地があるんだよ」
「この先の土地かね」
「そうだ。パラメムの丘ってたかな。ミズナラの木の辺りまでだ」
東馬は遠くを指さした。霧が深くて遠くまでは見えない。だが、ミズナラの巨木があるのは知っていた。
「そこまでの土地の所有者は俺なんだよ。お前の親父が、民有未墾地二十町歩に入地したんだが、結局五町歩しか開墾出来んかったのよ。それで、残りの十五町歩は俺が引き受けたんだが、何しろ俺も歳だしよ、それに東京に住むことにしたもんだから、十五町歩は宙に浮くことになるんだ。けどよ、早いとこ開墾しないと、契約違反で取り上げられちまうんでな。そこで、お前さんに権利を譲ろうと思って相談にきたんだ」
「十五町歩もかね」
「そうだ。でもな、これからは、百姓で飯を食って行こうとするなら、最低でも十町歩は持たんとな。農業なんて言えんぞ」
「でもな。これから十五町歩も開墾するのは荷が重いな」
「何言ってるんだよ。俺の土地の雑木林を無断で伐って炭を焼いたんちだろ。見てみろ、いいとこの木は綺麗に伐られているじゃないか。あとは残った太い木を倒し、伐根すればいいだけだ。まっ、俺に無断で木を切って炭を焼いたのは見逃してやる。それにだ、十五町歩の開墾がすんだら、半分の七町歩はただでやるよ。残りの八町歩は買い取ってくれればいい。どうだね、悪い話じゃ無いと思うよ」
一気に捲し立てて、東馬は和男の顔を覗き込んだ。鋭い視線に有無を言わさぬ強引さが潜んでいた。
「それとよ、何事も口約束って訳にもいかんから、お前の腹が決まったら手付金として二十万。十五町歩全部の開墾が終わったらその時点で移転登記してやるよ。それで、お前が欲しけりゃ残りの八町歩は時価で売ってやってもいい。どうだ、いい話じゃねえか」
「悪い話じゃないけど、俺の一存では決められんよ」
「だろうな。カカァと相談しな。でもな、返事は長く待てないぜ。この条件なら、誰でも飛びついてくる話だ。俺とお前の関係だから、真っ先に持ってきた条件なんだからな。一か月後に返事を貰いに来るよ」
言い残して原口東馬は帰って行った。霧の中に東馬の姿が消えるまで見送った。
太陽は分厚い雲に覆われ、何時もなら明るい光に包まれる時間だが、薄暗く、まるで夕刻のようだった。肩から腰にかけて露に濡れていた。
原口東馬の出現で、午前中に終える予定の炭出し作業は、結局何も出来なかった。
家に戻ると、妻の富美が卓袱台に突っ伏して眠っていた。卓袱台の上に小豆が積まれている。正月過ぎから始まった種子の選別作業は総て富美に委ねられていた。春に蒔く種子と屑豆を選り分ける作業は根気のいる仕事である。細くて小さな肩に、大きな責任と疲労が圧し掛かっているのが分かる。選別された種子を大地に蒔いても、確実に発芽するかどかすら分からない。太陽もない霧で湿った土塊の中で腐ってしまうかも知れないのだ。それでも、一縷の望みを託して、指先から血が滲むほど一粒一粒を選り分ける作業に意味があるのかと、ふと、疑問に思う。
「炭出しは終わったの?」
富美は和男の存在に気が付いて微笑んだ。居眠りをしていたことがバレて、気まずかったのだろう。
「イヤ、まだだ」
「この霧だもの、炭を出しても乾かないよね」
和男は黙って頷いた。
「ねっ、何かあったの?」
富美は何時もとは異なる和男に気が付いた。富美の表情に不安の色が走った。和男の雰囲気から嫌なことがあったと直感した。ここ数年心から喜べることは何一つなかった。だから、和男の身に慶事があったとは思えないのだ。
「実はよ、富美は知らないだろうけど、俺が測量の助手をしていた時の親方で、道庁の原口東馬って人が訪ねて来てね。俺に地続きの荒地を開墾しないかってね。十五町歩の土地を拓いたら半分ただでやるってんだよ。残りの半分は開墾が終わった時点で売ってくれるそうだ」
「いい話じゃないの。ウチの土地は五町歩しか無いンでしょ。五町歩じゃ将来ご飯たべていけないもの」
「それは分かってる。けど、土地を広げても、こうも不作続きじゃ将来の見通しが立たんと思うんだよ」
「このまま今の生活を続ける積もり?」
「俺とお前の二人暮らしだ。俺が街に出て働いたほうが余程生活は楽になると思う」
「中卒で学歴も無い私達が、街に出ても碌な仕事に就けないわよ。それに私は夢の無い生活はイヤ」
「そうは言ってもな」
「他に何か不安でもあるの?」
「手付金として二十万を払えっていうんだよ」
「二十万も」
いって富美は溜息をついた。
「二十万はきついね」
「そうなんだよ。預金は二十万ちよっとあるけど、その金は馬を買う金だしな」
「今の馬、もう二~三年働いてくれないかしら」
「いずれにしろギリギリってとこだな」
「いいわよ。馬が斃れれば斃れたでその時考えようよ。借金してもいいじゃない。今時借金をしてない家なんかないんだから。何とかなるわよ」
意外にも富美は乗り気だった。度胸にかけては和男は及ばなかった。だが、和男には一抹の不安があった。
「煮え切らないわね。何か不安でもあるの?」
「いや、別に」
「ならいいじゃない」
とはいったものの、和男には危惧するものはあった。原口東馬が信頼できないのだ。かって、東馬の助手を務めていた時、度々お金を貸したことがある。だが、未だかって一銭も返済されていないのだ。やりくちは実に巧妙で、返済を迫るような金額ではないので黙っていると、東馬も知らぬ振りで、何時までも平気な顔をしている。更に、自分より目下の者には平気で嘘をつくし、目上の者にはあげつらう。そんな東馬の人柄が嫌いだった。
「で、何時返事をするの?」
「一か月後に来るからその時に返事をすればいい」
「そうなんだ」
「それより、これから二人で十五町歩の開墾するのは大変だぞ」
「分かってる。でも頑張ればなんとかなるわよ。未だ若いんだし。このチャンスを逃したら、一生悔いが残ると思うよ。私達に巡って来たチャンス。そうラストチャンスなのよ」
「でもさ、俺達には跡取りは居ないんだぜ。折角開墾しても跡継ぎが居なけりゃ、開墾なんて徒労だよ。徒労」
「徒労じゃないわよ。第一、波風の立たない人生なんて、面白くも無い。それにね」
「何だよ」
「鹿追町の未墾地をさ、天理教団体が開墾したよね」
「ああ、確か七百十町歩を四年で開墾したんだよな」
「ウン。その土地を十六万四千円で、北海道製糖株式会社に売った」
「その売却代金で、天理教の湖東大教会が抱える負債を一掃して立ち直った。ということは、ウチも未墾地を開拓して高く売ろうってことか」
「そうじゃなくて、七百十町歩もの土地を開拓した意味は、これから先、何百年、イヤもっと、何千年も何万年も間、人の生活を支え続けることになる訳」
「でも、ウチには跡継ぎは居ないしな」
「分からないわよ。人生だもの。でも、仮に跡継ぎはなくても、土地は残る。土地は消えないし、代々に亘って、誰か生きて行ける。こんな素晴らしい仕事って他にある?」
「お前の理想は分かるけど、いずれにしろ大変だよ」
「本当は国益に資するんだから、国が資金を出すべきだと思うけどね」
「国は個人には絶対に金は出さないからな。税金は個人から取るのにな」
「ねっ、絶対にチャンスだから、開墾して地主になろうよ。見回してもウチの近くには開墾できる土地はないし」
「分かったよ。原口さんに電話してみるよ」
正直なところ、妻の富美がこれほどまで開墾に積極的になるとは思わなかった。街に出て、稼ぎ人になれば、生涯、家の仕事をしていればいい、生活が苦しくなればパートで働けばいい。農業で汗水をたらさなくても、安逸な生活が送れるのだ。それなのに、富美が、過酷な開拓事業に身を投じる人生を選択するとは思わなかった。
翌日、近くの郵便局から原口に電話を入れた。原口は和男の決心を歓迎して、契約書類は郵便で送るから、よく読んで異存がなければ送り返して欲しいと告げて、電話は切れた。
決心はしたものの、和男の胸中には釈然としない蟠りがあった。
ともあれ、少なくても収穫まで食い繋ぐ資金が必要だった。所有する馬はそろそろ更新しなければならない時期だし、炭出しに炭焼窯の修理にも金がかかる。それが終わると国の救済事業、畑を耕し、種を蒔く。除草作業が終わると、今度は道庁発注の救済事業と、息つく間もなく労働が続く。開墾する余裕は無かった。