戦国茶鬼伝 4
天正十年、六月二日。京都、本能寺。
梅雨の湿った空気が、深夜の静寂に満ちていた。
織田信長は、わずかな小姓たちを従え、このお堂に滞在していた。
第四話:本能寺、焦土に天秤は傾く
枕元に置かれているのは、数々の修羅場を共にくぐり抜けてきた天下の大名物、小釜『九十九髪茄子(つくもなす)』。
信長が目を閉じたその時、突如として『九十九髪茄子』がガタガタと激しく震え出し、内側から警告の熱気が噴き出した。
「……何奴」
信長が目を開くと同時に、地を震わせる鬨(とき)の声が静寂を切り裂いた。
「敵襲! 敵の軍旗は水色桔梗(みずいろききょう)! 明智日向守光秀様が謀反にございます!!」
小姓の森蘭丸が血相を変えて飛び込んでくる。すでに本能寺は、一万三千の明智軍によって幾重にも完全包囲されていた。
光秀の謀反――だが、信長は驚かなかった。
むしろ、その獰猛な唇を不敵に歪め、歓喜に満ちた声をあげた。
「是非に及ばず! キンカ(光秀)め、ついに余の首を獲りに、己の『器』を試しに来たか!」
信長が『九十九髪茄子』の蓋を豪快に撥ね飛ばす。
ボコボコと沸き立つ地獄の熱湯の音とともに、本能寺の四方を覆い尽くすほどの、赤黒い炎を纏った百目の巨大化生が顕現した。
織田信長の茶鬼――『天下焦土(てんかしょうど)』。
「押し包め! 信長をこの一戦で屠るのだ!」
殺到する明智軍の足軽たちが、一斉に槍を突き出す。
だが、信長が傲然と手を一振りするだけで、周囲の空間からあらゆる「熱」と「光」が剥ぎ取られ、絶対零度の暗黒へと変わる。
そして次の瞬間、奪われたエネルギーはすべて大爆発へと変換され、押し寄せた兵たちを甲冑ごとドロドロのマグマに変えて吹き飛ばした。
「ハハハハハ! 燃えよ! 余の熱量は、天下のすべての命を喰らってなお膨れ上がるぞ!」
信長の『天下焦土』が放つ規格外の熱量によって、本能寺は瞬く間に巨大な火柱と化し、夜空を血に染めた。
これぞ一国一城どころか、天下全土を焼き尽くす最強の茶鬼の力。
だが、燃え盛る本堂の炎を割り、静かに歩みを進める一人の男がいた。
白銀の陣羽織を纏った男、明智光秀。
彼の手には、端正な青磁の茶碗『八幡太郎(はちまんたろう)』が握られていた。
「上様。あなたの炎は、あまりにも多くのものを焼きすぎた。今こそ、その業火を裁く時です」
光秀が『八幡太郎』を天に掲げる。
光秀の背後に、巨大な「白銀の天秤」を抱えた冷徹なる巨人、茶鬼――『正義の天秤(ディケ・バランス)』がその姿を現した。
「光秀ぇ! 余の焦土の中に自ら飛び込んでくるとは、焼き殺されたいか!」
信長が吠え、『天下焦土』の百の目から、空間そのものを融解させる超高熱の熱線が一斉に光秀へと放たれた。直撃すれば、塵すら残らない一撃。
しかし、光秀の『正義の天秤』の目盛りが、カチリ、と音を立てて傾いた。
キィィィィィン……!
本能寺全体に、耳を劈くような清廉な鐘の音が響き渡る。
瞬間、信長が放った絶大なる熱線が、光秀の鼻先で不自然に霧散し、ただの「心地よい夜風」へと変貌した。
「な、何だと……!? 余の『天下焦土』の熱量が、消された……!?」
信長が初めて目を見開く。
「消したのではありません。上様」
光秀が静かに告げる。
「我が『正義の天秤』の能力は【秩序の強制執行・因果の等価修正】。どれほど不条理な熱量が押し寄せようとも、この天秤の領域内では、右の皿の『破壊』に対し、左の皿に同等の『無力化』が与えられる。すなわち、あなたの炎が強ければ強いほど、我が天秤の拒絶(相殺)の力もまた、無限に等しく高まるのです!」
「ぬかせぇ! ならば、相殺しきれんほどの絶対の絶望を与えてくれるわ!」
信長は己の精神力(茶の心)を極限まで暴走させ、本能寺を包むすべての炎を『九十九髪茄子』の一点へと集約した。
炎は赤から紫、そして完全な「虚無の黒」へと変色していく。これこそが、信長の命そのものを薪(まき)とした究極の熱量。
「死ね、光秀!!」
黒い太陽の如き爆発が、光秀を呑み込もうとする。
だが、光秀の目は冷徹そのものだった。
『八幡太郎』を握る手に、凄まじい精神の格が宿る。
「……上様、あなたの天下布武の志は『不当な暴利』。我が正義が、それを適正価格(プラマイゼロ)へと引き戻す」
『正義の天秤』が、その巨大な天秤の皿を、完全に水平へと固定した。
「――『等価平定(イコール・ゼロ)』」
ゴオオォォォォ……!
地響きのような音が鳴り響き、信長が放った「虚無の黒炎」と、光秀の「秩序の盾」が正面から激突した。
空間が二つに割れ、光と闇が激しく鬩ぎ合う。
信長の『天下焦土』が熱を喰らおうとするが、光秀の『正義の天秤』はその「喰らう」という因果そのものを天秤で測り、完全に相殺していく。
バキ、バキバキバキッ……!
信長の手の中で、愛用してきた『九十九髪茄子』の表面に、ついに無数のひびが入り始めた。
茶鬼の限界――それは、主の精神の限界でもあった。
「おのれ、天秤ごときが、余の覇道をせき止めるか……!」
「上様、あなたの時代は、ここで等しく終わりを迎えるのです」
光秀が静かに一歩を踏み出し、天秤の目盛りをわずかに「左」へと傾けた。
瞬間、相殺されていたエネルギーの均衡が崩れ、信長が放ったすべての熱量が、天秤の因果の逆流(カウンター)となって信長自身へと跳ね返った。
ドガァァァァァン!!!
信長の肉体と、その背後の『天下焦土』が、自らの生み出した究極の黒炎に包まれる。
「がはっ……! 見事……見事なり光秀ぇ!!」
炎の中で、信長は血を吐きながらも、狂おしいほどに笑っていた。
「余の器を、余の焦土を、等価で圧し折るか……! 天下の器に相応しい、見事な茶の湯であった……!」
パリン、と美しい音を立てて、信長の手の中で『九十九髪茄子』が完全に粉々に砕け散った。
それと同時に、戦国最強を誇った覇王・織田信長の気配が、本能寺の炎の中に消えていく。
光秀は、燃え盛る炎の中で、主の最期を見届けた。
その顔には、勝利の歓喜はなく、ただ冷たい夜露のような寂寥感だけが漂っていた。
「上様の首は、決して誰にも渡してはならん。この寺ごと、灰にせよ」
光秀が背を向け、本堂から立ち去る。
こうして、一時代を築いた「焦土の覇王」は、己の炎と、それを測りきった「秩序の天秤」によって、歴史の闇へと葬られた。
だが、本能寺から遠く離れた備中(岡山)の地で、この大爆発の余波を、自らの茶器を通じて感知していた男がいた。
羽柴秀吉。
彼は自らの茶入『飾壺・金烏』が放つ不気味な輝きを見つめながら、ニヤリと下卑た笑みを浮かべた。
(……明智の旦那、本当に上様を測り殺しおったか。……よし、天秤の『限界』を超える、ワシの『大舞台』を始めようかねぇ)
天下の器を巡る戦いは、さらに混沌とした次なる章へと突き進んでいく。
