猫のいる夜

お風呂上がりのご主人様はいい香りがする。パジャマの柔らかい生地に包まれたご主人様の脚にボクは体をこすりつける。
「なーに、もう眠くなったの?」
タオルで髪を乾かす手を止めて、ご主人様はボクを抱き上げる。
眠いんじゃなくて、そろそろかまってもらいたかっただけだよ。ご主人様が気づいてくれたからとりあえず満足。もう降ろして。
「あ、もう、急にあばれないの。ほら、行きなさい」
そっと床に近付けられ、ボクは軽い足取りで降り立った。ご主人様を見上げると目が赤い。いまもうっすらと涙が溜まっているように見える。
ねえ、泣かないでよ、ご主人様。あんなやつ、もう忘れようよ。
「ニャーッって、あんたまたお腹空いたの。ごはんは明日の朝だからね」
わかってないなあ。あいつのことはよくわかるのに、どうしてボクのことはわからないんだよ。不公平だぞ。
ご主人様は片手でタオルを使いながら髪を乾かし、別の手でスマホをさわる。手が止まり、浅いため息。ご主人様はあいつが帰ってからずっとスマホを肌身離さない。来ないだろうあいつからの連絡をずっと待っている。期待している。

ボクがご主人様のところへきたのは冷たい北風の吹くとにかく寒い日だった。それから長い冬が終わり、暖かい春が来て、季節が一巡し、いままた春を迎えたばかりだ。振り返るとここに来て一年がすぎていた。
ご主人様は優しい人だ。いくつ季節が変わっても、優しさは最初の頃と変わらない。それはボクらの繰り返しの日々も同じだ。
ご主人様はきまって毎朝、ボクと自分のごはんを用意した後、シリアルとヨーグルトの朝ごはんを食べる。片付けたあとはキレイなメイクをして、髪きちんと整え、会社へ行く。ボクはといえば、部屋で寝たり起きたりして適当に過ごし、たまにベランダに来る友達のカラスと窓越しに世間話をする。夜になるとご主人様が戻る。帰ってきたらまずボクを撫で、自分とボクのごはんを用意する。静かで優しい音楽を聞きながらたまにミルクティーを飲む。
膝に乗ればかまってくれるし、おねだりすれば遊んでもくれる。
こんな感じ。
どれだけ季節が廻(めぐ)ろうと、ご主人様とボクの住むこのワンルームのマンションの空間は、ボクたちの小さな一つの世界であり、ここは穏やかで単調ながら平和に満ちていた。
ご主人様の様子がおかしくなったのは二か月前からだった。会社から帰ればボクにいつもどおりに接してくれる。ボクのごはんもトイレ掃除も忘れない。それなのに、自分のことは何もしない。食事もせず、テレビもつけず、ただ、椅子に座って何時間も無表情で、テーブルに置いたスマホ画面を眺めている。
何かあった? と何回か声をかけるとやっと抑揚のない声で反応する。
「んー、どうした? ごはんならさっき食べたでしょう」
うつろな目はスマホから離れない。ボクの背中をひと撫でする手の動きも条件反射でしかない。そして、思い立ったように止まりがちながらも画面に指をすべらせ、何か長い文章を入力する。ため息をついて全部消す。それを繰り返す。疲れたようにスマホを手から離したらようやく終わりだ。
おかしな様子はそれだけではなかった。週末にはオシャレな格好をして必ず出かけていたのに二か月前からどこにも行かなくなった。
「珍しい。あの人、今週は仕事だって」
週末が近づいたある日、スマホを見た後、ボクにそういったあれが最初だった。
次の週から、「今週も仕事だって」「今週もだよ。忙しいのはわかるけど、どうなってるんだろうね」とあきらかに不満げにうちにいた。その頃から、帰ってきては何もせず無表情でスマホを眺めるようになった。そのうち週末が近づく日にスマホを見ても何も言わなくなった。いや、最後にはつらそうにそっとつぶやいていた。

「うそつき」

あの頃からご主人様の笑顔を見ていない。

今日、あいつが家に来た。ご主人様の“カレシ”さんだ。
二人ともご主人様が淹れたコーヒーに手をつけずにテーブルをはさんで、静かで長い話をしていた。
「それじゃあ、いつからなの」
「半年前に会社の新人研修で彼女のOJTを任されて、そのときはなんとも思わなかったんだけれど、彼女の彼氏の相談をされているうちにオレがどうにかしないと思って、それで三カ月前に……」
「わかった。やめて。もういいよ。人がいいのは知ってたけど、そんなことで簡単に気持ちが変わるなんて」
「オレもそんな関係になると思ってなくて」
「でも、いまは彼女の方がいいんでしょう。私があきらめるしかないんだよね」
両肘をテーブルにつき、ご主人様はその手に顔をうずめる。
“カレシ”さんは言葉に詰まる。そして、心からの「ごめん」をいい残して帰っていった。

ご主人様のマンションの部屋は暖かい。季節が秋から冬、そして春になりたてのいまも寒いと思ったことはない。エアコンかストーブがワンルームの空間を暖め、ときとしてミルクティーの漂う甘い香りが居心地をよくさせてくれる。ボクのいた「里親の森」とは大違いだった。たくさんの猫が狭いケージに入れられているいつもどこか寒い場所のある家。正直、あまりいい印象がない。
お母さんと離され、何人もいた兄弟たちも一人、二人といなくなっていく中、ボクだけがいつまでも残った。兄弟たちと全然変わらないのに、なんでボクだけが素通りされるのかわからない。あとから来た小さな仲間たちまでどんどん引き取られていき、ボクはいつも取り残された。
「可愛い子だったのにもらう人のタイミングが合わなかったから」
「先に小さい子供に目が行くからね。これだけ成長すると癖も出るし」
「里親の森」のおばさんたちがボクを憐れむ目で見ながら言い合う。
ボクはいらない子――。
何にも期待しなくなってから何日もたったある日、明るい声で「この子がいいです」と他の子には脇目もふらずにボクを選んでくれたのがご主人様だった。
初めてご主人様のマンションにつれてこられた日、部屋は暖かくて花みたいないい匂いがしたのを覚えている。ボクはいっぺんでここが好きになった。
「今日からここがおうちだよ」
そう言ってボクの頭を撫でるご主人様の柔らかい手からもいい香りがした。いつも手に何かを塗っている。ハンドクリームというらしい。ボクはこの香りする手で触れられるのが大好きだ。
しばらくして知ったのは、ご主人様が、週に五日間は会社へ行き、週末にはオシャレをして出かけて、出かけたら長い時間戻らない人であるということ。そして、たまにここに来るのが“カレシ”という名前の気の弱そうな男の人であること。
ボクは“カレシ”さんには全然興味がなかった。ご主人様とボクだけがこの部屋という世界にくらし、その世界は不変にして、取り止めなく繰り返されると思っていたから。この世界の住人じゃない“カレシ”さんはただの脇役だとボクは考えていた。でも、ご主人様はあいつに脇役以上の役割を与えていた。ボクとは別の特別な存在として見ていた。
その証拠に、ボクには言わないワントーン高く明るい声で“カレシ”さんに話しかける。キラキラと輝く笑顔を“カレシ”さんに一心に向ける。“カレシ”さんは楽しそうに微笑み、笑顔を受け留め、笑顔で返す。なんだか面白くない。ボクはそれを無視していた。けれど、ご主人様のすることで誰かが喜ぶのを見るのは嬉しかった。誰かを幸せにするような力を持っているご主人様が誇らしかった。
それがこうなってしまった理由はわからない。そして、あいつにつけられたご主人様の傷はとても深い。ご主人様はあいつが部屋を出てからずっと泣いている。そばにいるボクを撫でたり抱き上げたりもせず、椅子に座ったまま、肩を揺らし、顔を覆う細い指のあいだから涙を流している。
春先はまだ空気が冷たい。でも、部屋は静かに燃えるストーブのおかげでぬくぬくとした温度を保っている。にもかかわらず、椅子のうえでご主人様は急に腕をさすって震えだした。
「寒い――」
それがあいつがいなくなってからの初めての言葉。
そしてシャワーを浴びに行った。

ドライヤーで髪を乾かしたご主人様のあとについていく。
ワンルームの部屋はさっきまで点いていたストーブの名残りで暖かい。テーブルや椅子、タンスやベッドにもそのぬくもりが移り、戻ってきたボクらを蓄えておいた暖かさで迎えてくれたように感じる。
今日は部屋が特に静かだ。ご主人様がいつものようにテレビをつけないからだ。
外では屋根や壁を叩き、道路を濡らす水音がしていた。春の雨は冷たい。そしてしっとりとして眠気を誘う。明日も降り続けるんだろうか。ベランダに友達のカラスが来るかもしれないのに。
あっ、と何かに気づいて声を上げ、ご主人様がキッチンへとって返す。すぐに部屋に戻ってきた。その手には水を入れたグラスを握っていた。窓辺の小さなアイアン・ラックに近寄る。その上には鉢植えが置かれている。小さな白い花をひとつだけ咲かせた鉢植えは先日から春の訪れを部屋に伝えていた。流れ落ちる髪を耳に掛け、花に微笑みご主人様は水を遣った。あいつが出て行ってから、初めてご主人様がスマホから手を離した出来事だった。スマホはテーブルの上に置き去りにされていた。
グラスを戻したご主人様はベッドに腰掛ける。そして思い出したように手の甲を見た。長い間、見つめる。哀しそうな目で、爪を、指をさする。ベッドに腰掛けたまま、そばにあったハンドクリームを塗り始めた。ボクはとても久し振りにその甘い香りを嗅いだ。丁寧に、指先まで温めるようにしっかりと塗り込む。真剣な顔。そんなご主人様の様子を一部始終その脚元で見ていた。
塗り終わった後、ボクに目を留めたご主人様が覗き込む。
「どうした、今日はずっとついてきて。私が心配?」
うん、と返事をする。
「ごめんね」
そんなことないよ。
「おいで。今日は一緒に寝ようか」
ご主人様がボクを抱き上げてベッドに入れてくれた。
ボクはいつもご主人様が用意してくれた自分の寝床で寝ている。ご主人様の部屋に来た日から、ボクは大きくてふわふわでフッカフカで真っ白な布の塊が気になっていた。寝場所にちょうどいいと思って、初日からさっそくそこで寝るようになった。
「そのクッション、気に入ってたんだけど、ベッドに使いたいなら仕方ないか」
よくわからないけれど、ご主人様が何かに使っていたものらしい。ほんのりとご主人様が使う香水の香りがした。
ご主人様のベッドも好きだ。スプリングの柔らかさが心地いい。布団もあったかくて大好きだ。
横を向いた姿勢のご主人様に抱っこされて、ボクは目を閉じる。
背後の気配でご主人様が目を開けているのがわかる。その手はいつものようにボクを撫でない。腕でそっと抱えているだけだ。寂しさを打ち消したくて、しがみつくように。
頭の上でため息が聞こえた。深くて長くて、一日の疲れをすべて吐き出したような重い呼吸。それはボクの知らない初めて聞く種類のため息だった。
「疲れちゃったね」
仕方ないよ。ずっと泣いてたから。
「結局、どうしたって私じゃダメだったんだろうな」
悪いのはご主人様じゃないよ。ボクの知っているご主人様は、キレイで優しくて、誠実でいつも真面目で、つねにボクや“カレシ”さんを喜ばそうと努力している。どんなものにも優しい笑顔を向けようとする。穏やかで頑張り屋さんだ。そんなご主人様はダメなんかじゃない。
「あーあ、どうして明日は仕事なんだろ。これじゃやっていけないよ」
ねえ、休みなよ。それで、ボクと一日のんびりしようよ。ボク、ずっとそばにいるよ。あいつみたいにいなくなったりしないよ。
「プレゼンの資料作って、デザイン事務所に電話かけて……。そうだ、見積りも計算しないと。嫌だなあ。また粗探しされるんだ。なんでこんなときにあんな人が上司なんだろう。全然、いいことない」
このまえご主人様が離れて暮らしているお母さんと電話で話してた“ジョーシ”さんのことだ。あんな人でも結婚できるのが不思議だってご主人様と会社の仲間から言われている人か。
ご主人様は今日何度目かの浅いため息をつく。
「ホント、いいことない」
ご主人様の腕に力がこもる。ボクはちょっと息が苦しいのをこらえる。
「簡単には、いかないよ。本当に好きだったから。忘れるなんて……ホント、私、どうしたらいいんだろう」
息を吸うのにもがいたボクにご主人様が、ごめん、と腕を緩める。いつもなら腕をすりぬけて自分の寝床へ行ってしまうところだ。でも、今日はずっとご主人様のそばにいたかった。だってご主人様の声が涙でかすれているから。
ポタリと枕に水の落ちる音がし、ボクの耳に吐息がかかる。それは熱くてヒリヒリとし、まるで鑢(やすり)の粒子が混じっているように思えた。
いまご主人様を助けられるのはあいつだけだろう。あいつが戻ってきて、ごめん、やりなおそう、と手を差し伸べればご主人様は救われる。
ありえない光景。それでもご主人様が一番望む決して叶えられないかたち。
いまご主人様に見えているのは別れ際のあいつの姿で、思い出しているのは耳に残った最後の言葉だ。話した時間は長かったのに、幕切れはあっけないほど短かった。それが返ってやりきれないほどたくさんの悲しみをもたらした。
ねえ、無力なボクはそばにいることしかできない。話を聞いても何もできない。だとしても、それでご主人様が受け入れてくれるなら、ボクはそんな自分の存在を許したいんだ。だから、ご主人様も自分を責めないで。
重い空気が部屋に満ちて滞留し、雨音は絶え間なく耳に届く。哀しみのぶんだけ時が止まればいいと願うにもかかわらず、緩慢(かんまん)とはいえ、冷たく確実に、夜は過ぎていく。ベッドの中ではご主人様が小刻みに胸を震わせながら、かすかな声ですすり泣きを続ける。顔は見えないけれど、きっと閉じた瞳からとめどなく悲しみの感情があふれているのだろう。
大丈夫だよ。大丈夫だよ。
ボクは口に出さずに何度も繰り返す。
ボクはご主人様が大好きだよ。いつもこれからもご主人様の味方だよ。
あたなは悪くないのだから。きっとまた幸せになれる。
ボクたちの体温が布団の中で柔らかくとけてひとつになる頃、いつしか涙のせいで乱れた呼吸が規則正しい寝息に代わった。それを聞き、ボクも眠りについた。

ベッドから気配が消えていたのには気づかなかった。パタパタと部屋を移動するご主人様の足音で目が覚めた。
布団の外は寒くないかな。
試しに、ボクは丸まった布団の中から顔だけ突き出してみる。ヒゲをフニフニと動かして気温チェック。それを見たご主人様が、カワイイ、と言って笑った。部屋はストーブのぬくもりでまたまどろんでしまうほど暖かかった。
ボクは布団から這い出す。背中を反らして大きく伸びをする。部屋に射す外からの日差しをみて、雨は上がったのだと知った。
カーテンの開(あ)いたベランダの窓へ歩み寄り、外を覗く。淡くて清潔な水色の春の空と、道にはコートに身を包んだ急ぎ足の人たちが見えた。
魚の甘い匂い。ごはんだ。振り向くとご主人様がボクのごはんを用意してくれていた。
「おはよう」
おはよう、ご主人様。ボク、ちょっと寝不足。
でも、ごはんを目の前にしたら食べるのに夢中になってしまった。ご主人様はベランダの窓を開けた。外から冷たくて身の引き締まる空気が流れ込んでくる。
寒いよ、閉めてよ。
「ん? ああ、寒かった? ごめんね」
振り向いた顔には哀しげな陰が落ちていた。カラリと音を立てご主人様は窓を閉めた。
それでも、朝のニュースを見ながらヨーグルトをかけたシリアルを食べ、メイクをして髪を整える頃には、ご主人様はボクの知っている出かける前のいつもの表情になっていた。
ボクはごはんを食べ終わって口の周りの毛づくろいをする。その間にご主人様は目薬をさす。そして手鏡とにらめっこをする。まだ目に赤みがさしていた。
「んー、寝不足で通じるかな。着くまでには治ってるといいけど」
手鏡を置き、向き直ってボクの頭を撫でる。
「いってくるね」
寂しそうではあっても、顔からは悲しい陰は消えていた。指先からいつものハンドクリームのいい香りがした。
ベージュの厚いダッフルコートにくるまったご主人様のあとについて玄関まで見送る。
「あれ、今日はお見送り? いい子。お留守番よろしくね」
ハーフブーツを履き終えて、ご主人様はドアを開けた。
ボクは急いでベランダの窓へと駆け寄る。待っているとフェンスの隙間からご主人様がマンションを出てきたのが見えた。ぴんと背筋が伸びたベージュのダッフルコートの後ろ姿。小気味のいい靴音のリズム。間違いなく、いつものご主人様だ。
その姿が角を曲がり、見えなくなった。ボクはもう一度伸びをする。
今日は早くご主人様の「ただいま」が聞きたい。
ベッドへ飛び乗り、丸まっていた布団の奥にもぐりこんだ。ぬくもりは消えていた。けれど、満足だった。ご主人様の穏やかで規則正しい寝息を思い返す。
昨日は一人ぼっちでいたらもっと寂しかったしキツかっただろう。
哀しみを抱えるにも、一人ではつらすぎるときもある。
ご主人様、早く帰ってこないかな。あの人はボクから「いらない子」だった自分を忘れさせてくれた。ボクはあの人のそばにいられるのが幸せで、ご主人様のいるこの小さなワンルームの世界はボクをいつも優しい気持ちにさせてくれる。
布団から顔だけ出した。風が凪ぎ、木(こ)の葉を揺らす音が耳に心地よい。部屋に差し込む春の光を瞼に感じながら、ボクはまどろみ、二度目の眠りに落ちていた。