不戦の王 35 それぞれの壮図

<目次>
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九年の歳月をかけても終わりにできなかった朝廷の安倍征討戦が、八月十六日に軍を動かしてから一ヵ月後、九月十七日にあっさりと決着した。
源頼義に征夷大将軍を譲った形となっていた高階経重は、頼義が難渋し、戦が年を越すものとばかり思っていた。これまでの安倍の強さからすれば、雪の降る前に決着するとは、万に一つも考えられなかった。
つまり、
(年が明けたら、朝議でも源氏頼りなしの声が間違いなくあがることであろう)
そうしたら、疲弊した源氏に替わって自分が再び出て行く。
(その頃には、さしもの安倍も相当に深手を負っておろうし…)
顔の中心に目鼻の集まった狐顔をなお尖らせて、高階はひたすら生臭い野心を養っていた。
しかし、その高階に出番は巡って来なかった。
もちろん、朝廷に報告されたように、源氏が頑張ったわけではない。加勢した清原が非常に強かったわけでもない。そして、貞任に率いられた安倍が急に弱くなったわけでもない。
答は単純明快。
安倍はこの戦に勝ってはいけなかったからである。計画的に負ける必要があったからである。それが短期終結を呼んだ。
そう書いてきた。
陸奥の完全皇化を早く実現させてやろう、それに手を貸してやろうではないか、そういう考えである。
安倍の歴史をひっくり返す大転換といえよう。
ただし。
それには負け方があった。ただ負けては意味がない。負けたに見せて、じつは勝つ。
「安倍が栄えるには…」
と貞任は開戦に先立って一族の主だった頭たちに言った。
「もはや陸奥だけを我らの天地とは定めぬことじゃ。安倍の大知にふさわしい、もそっと大きな壮図を抱こうぞ」
その結果、貞任は清原を巻き込んで短期決戦に持ち込んだのだった。

では、その壮図とは、現実にどう抱かれていたのか。
フィクション『陸奥話記』のストーリーは忘れ、衣川村資料室に残る古文書をもとに、安倍貞任に血のつながる者たちの戦役後の姿を見てゆきたい。

●まず、『陸奥話記』では死んだことになっている貞任の長男、千代童丸(千代丸とも)のことである。
千代童丸は厨川の合戦の始まる前に、じつはすでに柵を捨てていたらしい。
目指したのは、母登和の生家である一方井家。そこには跡継ぎがなかったこと、また身分を秘めるためもあって、安倍姓を捨て入籍していた。
一方井家は、やがて中央政府が派遣するどの国守からも礼遇されるほどの名族となり、安倍の正流を堂々と遺すに至った。そして現在の岩手県央から北部にかけての一帯に根を張った。

●次男に高星丸(たかあきまる)がいる。三歳。
高星丸は、万一討手が入った場合、兄と同じ一方井家にいては貞任の血脈が途絶える危険がある。そこで兄とは方角違いの津軽内三郡(青森県の弘前を中心とする内陸から日本海にかけての一帯)にまず入った。
そして時を経て外三郡(八甲田山塊西麓から岩木川中下流域・津軽半島日本海側にかけての一帯)に拠点を展開していったことになっている。

●三男宗任について言えば、彼一人でいくつもの物語ができるほど波乱万丈だった。
まず第一に、無理な上洛の旅で二尾を病で失ったのだが、その傷はあまりに深く、剣を捨て、比叡山延暦寺で仏門に入った。そして現在の香川県、それから愛媛県へと寺を替えた。
しかし、土地の豪族河野氏に乞われて、再び剣を持つ身となり、そこで血脈を遺す。
が、突然京に呼び戻され、妻子と永別させられた。河野氏と安倍氏の姻戚関係を嫌う筋から工作でもあったのだろうか。理由は記録にない。
その後、母小真姫と弟家任とともに大分に渡る話が出て、京を去る。そしてその地で名族四穂田氏に入り、新たな血脈を遺すのだが、またも妻と死別。
するとこんどは、肥前(長崎県)の大領渡辺氏から、娘つきで松浦の地を譲られることになる。そこで大分は家任に任せ、自分は松浦氏の祖となった。その子孫は松浦水軍として名を馳せる全国ブランドに発展する。
宗任は、晩年、母と妻に先立たれると再び出家し、二度と還俗することはなかったという。当時としてはたいへんな高齢、八十三歳で入寂している。

●さらに、四男照任以下のその後。
照任、すなわち僧官照は、信州で武名鳴り響く仁科氏に入り、そこで安倍の血脈を遺した。
五男正任は陸奥の東海岸に移り、豊間根家として三陸一円に広く血脈を遺す繁栄を築いた。
厨川柵で死んだことになっている六男重任には、秋田県の生保内に入ったとの伝承がある。すなわち清原が陸奥に来るならと、逆に安倍は出羽への進出もはかったのである。
七男家任は前述のとおり、最後は大分に血脈を遺したが、その分裔は岩手県南部にも広がっている。
八男則任はいったんは津軽外三郡に行ったが、高星丸との関係でその後北海道に拠点を移し、安倍一族の血脈を北へ拡大することに貢献した。
九男。
九男に安倍二戸九郎行任という末子がいる。
前九年の役では幼すぎたためだろう、朝廷側の戦記にもまったく登場してこない。が、血脈という点でいえば、行任は陸奥最北で、強固な安倍の根を張ってゆく。
その地は、陸奥から津軽にまたがって、最後の最後まで朝権の及ばなかった山岳地帯、あの八身と朱鳥の落ち着いたコーカソイド系縄文人、毛無一族の大地へとつながっている。

●なお、高星丸について付言すれば。
高星丸は成人すると安東姓を名乗り、漂着した韓人に指導させ十三湊(とさみなと・青森県津軽半島の市浦村)で交易船を建造するなど、後の安東水軍の礎を築いた。
安東水軍とは、文永十一年(1274年)と弘安四年(1281年)の蒙古襲来のとき、頼りにならない朝廷軍や各地の武士団を尻目に蒙古軍とわたり合った、あの勇猛果敢な安東水軍である。
その安東氏が、じつは平清盛、重盛の後ろ楯となっていたと言ったら驚かれるだろうか。
安東氏は宋、高麗、天竺(インド)、南蛮諸島を相手に交易に励み、おそらく当時の日本でいちばんの大富豪になっていた。そして、その貿易で得た富の力で平家一門を統御し、結果、源氏を滅ぼしたのである。安倍氏からいえば、平家を手先に使って代理戦争を仕掛け、第二の対源氏戦争に勝利したということになる。
なんという壮図だろうか。
もちろん、貞任が第二の対源氏戦争まで壮図に含んでいたかどうかは定かでない。おそらく、結果的にそこまで発展したということではあろう。が、安倍の末裔は貞任の壮図を決してしぼませることなく、ある者は地味だが着実に、ある者は豪華絢爛、朝権からはみ出さんばかりに、各地で壮図を具現化させていったのである。

開花といえば。
もう一つ言い足しておかねばならないことがある。
なんと安東氏の末裔は、松浦氏となった宗任の子孫とも呼応し、北と南から日本の海をはさみ、制圧していたということである。
つまり、当時(鎌倉から室町時代にかけて)の日本の海運を牛耳っていたのは、陸奥で滅びたはずの安倍一族だったというわけである。
北上の産品にしがみついていた頃の安倍からすれば、これは予想だにできなかった大発展だった。

そんな安東氏だが、その繁栄に大きな転機を迎える出来事に遭遇する。
どういう運命のボタンを押したのだろうか。一大拠点、十三湊を興国二年(1341年)の大津波によって、一瞬にして失った。
死者十万余。
そのとき交易に出ていた安東船は五百三十六艘と言われている。それらは帰船すべき母港を失い、けっきょくは四散する道を選んだ。
いや、四散、というと正しい言い方ではない。
津軽に拘泥するより、諸国で新たな歴史を築く道を選んだ、そう言うべきだろう。
さすがは遠く海外まで我が庭同然にしていた一族だけのことはある。やることが非保守的、非縮小均衡的なのである。
十三湊が幻の中世都市となって歴史から消えたのはたしかに残念な気はする。だが、この大津波が新たな安倍一族の飛翔を呼んだのだと思えば、けっして暗いだけの話ではない。

以上が壮図の主な顛末である。
その壮途の実現に清原との戦前の約定が働いていたことは言うまでもない。
…しかし。
そう。肝心の貞任は? 
誰よりも貞任のことが知りたい。
なのに、安倍厨川次郎貞任のその後を語る資料はまったく存在していない。
時を同じくして死んだことになっている重任、千代童丸には伝承があるのに、貞任にはない(ちなみに経清にもない)。
当然である。
「じつは生きていた」などと、伝承といえど軽々に語れる人物ではないのだから。
貞任が生きているのか死んでいるのかは、歴史のストーリーを変えるほどの重みを持つ。そのクラスの人物がひとたび死んだことになった以上、歴史からはおとなしく姿を消さねばならない。せっかく朝権に呑み込ませた「史実」と、つじつまが合わなくなることは絶対に避けねばならない。
しかし。
このことは次のことを示唆していると言えないだろうか。
もしほんものの貞任が死んだのなら、義経がそうであるように、必ず「じつは生きていた貞任」といった類の伝説が、願望をこめて語り継がれたはずではなかったかと。なぜなら、陸奥の蝦夷にとって、貞任は義経の比ではないほどの大ヒーローだったのだから。
ところが。
そのカケラもないということは、死んだのはやはり影武者だったということが考えられる。人々はほんものが生きていると知っているからこそ、「じつは貞任は生きている」などと言う必要がなかった、いや、口が裂けても言えなかったのではあるまいか。

●さて、その貞任の戦後の話である。
もちろん推察の域を出ない。が、こういう推論は充分に成り立つ。
まず。
長男千代童丸はすでに十三歳となっており、嗣子のいない一方井家に即入籍していることを考慮すれば、こちらに貞任の心配の種はほとんどないとみてよい。
他方、次男の高星丸はそのときまだ三歳だった。
そうなると、もし行を共にするならどちらだろう。後見を必要とする高星丸の方だと考えるのがふつうではないだろうか。
ということは、である。
十三湊を拠点に、中世日本で未曾有の繁栄を遂げた安東氏とは、貞任が陰でコントロールしていた氏で、じつは貞任が大陸や南蛮貿易の礎を築き、海賊対策としての水軍化も図り、そういったことを少しずつ高星丸にバトンタッチしていった、それが真実だったのではないだろうか。
貞任の頃、陸奥の産金量は先細り状態だった。これからも、戦ではなく政治的に倭人をコントロールしていくためには、黄金に替わる手段が是が非でも必要だった。
「それには対外貿易しかない」
貿易で倭人の喜ぶ巨富を擁し、都の高級官僚たちを操る。そう貞任は考えた。
そして、それを可能にしたのが、じつは当時の最高の知性、最高の知識人、陰陽師だったのではないかという気がする。
そう。播磨から来たあの民間陰陽師たちである。
なぜなら、陰陽師というとすぐ摩訶不思議な方面の能力ばかり取り上げられるが、最初に触れたとおり、陰陽師たちこそ時代の最先端をゆくテクノクラートだったからである。
当時、外洋航海に必須の天文学、天体観測のできる唯一の専門家は誰だっただろうか。時刻を操ったのは誰だったか。また当時、さまざまな兵書を読み解いていたのはいったい誰だっただろうか。それは唯一、陰陽師にほかならなかったのである。
また、後の安東水軍と松浦水軍の連携プレーも、貞任、宗任を始祖としている同士だからこそできた、そういうふうに言っても許されるのではあるまいか。

●勝ったのは誰なのか。
奥州の王と崇められながら、権勢を望まず、富貴を尊ばず、そして人をして上下をつくらなかった安倍一族。
その名前は、康平五年(1062年)九月、歴史から消えた。
が、安倍一族は、陸奥を握りしめていた固い拳を開いたとたんに、それまで育んできた英知を一気に日本各地に飛翔させ始めたのである。
それは、倭人たちの価値観、すなわち権力や富、名誉の争奪に明け暮れる価値観に巻き込まれる闘争からはいちど身を退く形をとり、別な氏に生まれ変わって、あらためて自分たちの世界観をひそかに扶植してゆく、そういうことでもあった。
倭人的に言えば、蝦夷安倍が倭人社会に攻め入り始めた大転換、という表現になるのだろうが、倭人の側はそれにまったく気づいていない。
前九年の役とは、ほんとうはそういう戦いだったのである。

もはや愚問になろうが、真に勝ったと言えるのは、どっちだろう。
答えるまでもない。
いや、答える必要はないのである。
そういう問いを発してはいけないのである。
勝ち負けというモノサシを持ち出すのは、倭人の悪い癖だ。
安倍一族は倭人朝廷と競い合ったのではない。
倭人の言う勝ち負けなど、安倍一族には、そんなこと、どっちだっていいのだった。
勝ち負けという結果ではなく、プロセスを、生きて在るいまの様態を、すべて幸せと受け取ることのできる安倍一族にとって、倭人の後生大事にする成果主義など、どうでもよいことなのだった。