不戦の王 33 戦場の婚礼

<目次>
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そのころ八身は、朱鳥とともに貞任の前にあった。
ところは安倍館。
四周を朝廷軍に固められ、川に二箇所の橋を渡されたこの段階に至っても、館内に騒然としたところは何もない。
三人は百畳の大広間の真ん中に座っていた。
車座。
余人がいない場合、貞任は決して八身の上座につこうとしない。八身は、貞任にとって、あくまでも長兄の安倍衣川太郎良宗なのである。しかし八身もまた、安倍一族において自分はすでに鬼籍に入った者であり、貞任の客人としての態度しかとろうとしない。
「さて。八身のお方」
貞任は平時のとおりの、深い知性と気品をたたえたお公家顔に、おっとりとした微笑を浮かべて言った。
「ほどなく安倍の治めた陸奥は無窮の時に入ります。宗任たちは西国に去りました。正任はその任を終えしだい山を越え、東の海岸を目指します。この身も、二度と安倍厨川次郎貞任と名乗ることのない身の上となり…さて、そこででござりまするが、略儀ながらご両人の…」
八身はすばやく手のひらを上げて貞任の先を制した。掌に掬い取った清水のような目。その目をちらっと朱鳥に走らせると静かに応えた。
「婚礼の儀については朱鳥とすでに考えておることがござりまする。我らはそれをきょう、この戦のさなかに行う所存にございます」
「なんと。戦のさなかに婚礼を?」
「それが婚礼であることは、もちろん朱鳥と私、そして共に駆ける毛無の一族にしかわかりませぬ。それは、勝利の瞬間に成立いたすのでございます」
「はて。この期に及んで勝利の瞬間とは。どのようなことをお考えか、よくはわかりませぬが」
「勝利と申しましても、もちろんのこと、力と富に支配されておる倭人の勝利とは異なります。そういう勝利がいかに虚しいものか、言葉を換えれば、我ら蝦夷の考える敗戦とはいかなるものであるか、それを源氏に、朝廷に、この最後の戦でよくわからせてやりとう存じます」
「それは素晴らしい。それこそ蝦夷にふさわしい婚礼と存じます。そこに席を列ねることができぬのが残念でなりませぬが」
「お館さまには、いよいよの時が迫りました。出立のご準備を。後日お目にかかれる日までどうぞご健勝にと、心よりお祈り申しあげます」
「八身のお方、そして朱鳥殿こそ。半年たち一年たち、やがて陸奥が落ち着きましたら、いまいちど、いや何度でもお目にかかりとう存じます」
「それは我らこそ望むところ。必ず、いつの日にか」
「お館さまの末永いご清祥をお祈り申しあげます」
朱鳥も豊かな栗色の髪に映える大きな深い碧眼を潤ませ、言葉を継いだ。
「毛無の者は元の北の大地、七時雨山を仰ぐ高原に戻ります。ご存じのとおり、そこは陸奥と津軽にまたがる悠久の大地にございます。森に精霊が棲む素晴らしい国にござりまする。どうぞいつなりとお訪ねくださいますように。お待ち申しております」

九月十六日。
西の空へと回る太陽が北上川を黄金色に染め始める頃。
八身、朱鳥、そして首長であり朱鳥の父である酋刈乙比古に率いられた毛無の騎馬軍団二百四十騎が、厨川柵から突然に、しかし粛々と姿を現した。
全馬、金糸銀糸に彩られた紅い馬飾りで胴を被い、それに跨る兵は、八身と朱鳥を除き、いまで言えば柔道着に近い印象の、純白の戦闘着。朱色の吹流しのような幌を背中になびかせている。
具足は、半首と呼ばれる目鼻口だけ出る白塗りの面具、それと短甲と呼ばれる胴を包む鎧だけ。鎧の色も白。
背中には十数本の手槍。腰には馬上の扱いに適した蕨手刀。左腕には白地に太陽を描いた手楯。倭人の将士に比べると、いつもながらの軽装だった。
「あれが音に聞きし蝦夷の赤鬼どもか…」
厨川を囲む兵たちは、紅の陽射しの中から湧き上がったような異人種に、畏怖に近い眼差しを送った。
存在の非日常性自体が、すでに一種の威を放ち、とくに多くの坂東武者は、かつて毛無の女御軍団で度肝を抜かれた印象を蘇らせ、その目に憧憬の念さえ漂わせていた。
金髪。栗毛。赤毛。
そしてローマン・ノーズ。
一重ではない。深く窪んだ二重の目。
瞳は、ある者は碧眼。ある者は、はしばみ色。ある者は緑色。
そして薄い唇、赤い肌である。
コーカソイド系縄文人の血をひく毛無一族。
以前は坂東でも、とくに常陸の国の海岸地帯でよく見かけたと古老から伝えられている人々だった。
八身と朱鳥だけは、半首も短甲もつけず、毛無で聖色とされる黒色の儀礼装。それに朱色のマントのような幌。幌にはそれぞれ八身、朱鳥と大書されている。
武器は小刀以外、何も身につけていない。
やがて首長の乙比古が右手を上げ、まっすぐに太陽を指した。
太陽は沈み行く前の紅の炎をあげ、その輝きを北上川に映していた。
毛無の一隊は八身と朱鳥を先頭に二隊に別れ、黄金色の川に向かってゆっくり移動を始めた。毛無の出現に、川向こうでは源氏軍がにわかに矢をつがえ、射殺に確実な射程に近づくのを待ち構え始めた。
厨川柵の南方、雫石川をすでに渡っている清原軍、そしていまや将軍頼義の命令から独立して動き始めた義家の源氏軍も毛無の一団に気づき、それを囲むように距離を徐々に詰め始めた。義家は是が非でもこの厨川で、貞任らの首級を挙げる決心だった。
八身の一隊も朱鳥の一隊も、身に迫る危険をまったく気にせず、夕日を溶かしているような川に向かってまっすぐに進んで行った。二隊はしだいに八の字に開いていき、その先端が100メートルの間隔となったそのとき、八身、朱鳥を中心にして二隊が向き合った。
乙比古が単騎その中間点に立った。
「何のつもりか」
「あのような寡兵で、いったい、どんな攻め口をみせるつもりじゃ」
誰の胸にも同じ思いが駆け巡った。
「寡兵であるからには、決して正面からは来まい」
正任がつねにそうであるように、蝦夷というのはどんな奇襲を仕掛けてくるか知れたものではない、そういう用心が全員にある。
徐々に取り巻く輪を縮めながらも、奇妙に硬直した間ができた。そしてその間が、圧搾されるように徐々に縮まってゆく。
一秒、二秒、三秒…。
そのときである、八身が叫んだ。
「アーケードーリーッ」
朱鳥が応えた。
「ヤーミーサーマーッ」
その声を合図に、八身、朱鳥二隊が一列横隊になって駆け寄り始めた。二百四十騎の朱色の幌が吹流しのようにたなびく。
「赤鬼どもを川へ追い落とせいっ」
義家、清原軍の機先を制していち早く命令を発する。義家の徒歩の槍隊三千が、いっせいに鬨の声をあげて突進した。騎馬隊はその後方から悠然と押し上げ、弓隊は毛無軍が川に追い落とされる瞬間を待って、左右に展開する。
武貞の清原軍も、遅れてはならじと馬軍を詰めようとするが、狭い河川敷のこと、すでに数を誇る源氏軍で行く手をはばまれている。
「かまわぬっ。進めいっ。源氏を蹴散らして先を取れいっ」
清原軍と源氏軍の先駈け争いが始まった。
八身と朱鳥は、そんな攻撃開始をよそに、二隊の距離を悠々と縮め続ける。
20メートル、10メートル。
真ん中では乙比古が待ち受ける。
そして両隊が乙比古の立つ地点で合体したその瞬間、突如、予想もしなかった現象が起こった。
黄金が…
噴き上がった…
の、で、あ、る…
まるで間欠泉が噴き上げるように、夕日の輝きをすべて集めて、黄金の粉が突如舞い上がったのである。
「ヤーオオウッ」
毛無軍から歓声があがる。そして二百四十騎全騎が、こんどは放射状に散った。そのとたん、黄金の花が天に放たれた。
言葉を失っていた源氏、清原両軍から、やっと驚きの喚声があがった。
「おおおーっ」
黄金は真横から射し込む夕日の中を輝く雪のように舞い散った。川風に乗り、風花のように源氏、清原の兵たちの鼻先にまで降ってきた。毛無の騎馬軍団は、夕日そのものを、そしてその夕日で輝く北上川の黄金色を纏ったかのように鞍の袋から黄金を撒き続けた。
「これが陸奥の黄金かっ」
最初の一声が前線の兵士から上がった。
「なんと、黄金の雪じゃぞよっ」
その声が号砲となった。兵たちは目の前の戦いを忘れ、我れ先に舞い散る黄金に手を伸ばし始めた。後方にいた兵たちも黄金の舞に殺到し、たちまち狭い河川敷とそれに続く森は魑魅魍魎のるつぼと化した。
毛無の軍団は整然と隊列を組んだまま、時に蛇行し、時に輪になり、時に放射状に開き。そうしながら、自らも降りそそぐ黄金を浴び、太陽の輝きと一体となった。
功を焦っていたはずの義家も、奇想天外な蝦夷の戦いぶりに手綱を弛めた。命のやりとりをする前に、敵のパフォーマンスをしばし拝見いたそうか、そういう構えである。
この時代の戦闘には、正任だけは例外と言わねばならないが、このように戦の情趣を重んずるようなところが充分にあったようだ。殺すにも殺されるにも、濡れた魂の裾が触れ合うようなところがあり、それは鎌倉時代、戦場での朗々たる名乗り合いがそうであるように、後世まで色濃く武士道を支配する美学の精髄となった。
(最期を迎えようとするこのとき、なんという美しき戯れをするものかは。貞任、どこまで奥深い男か)
義家は真から唸った。ほんとうは八身と朱鳥の考えた婚礼の儀だったのだが、それは知る由もない。義家は衣川での貞任の返歌の見事さをまざまざと思い出しながら、毛無の一隊が黄金の雪を降らせるにまかせた。
(死なせるにはまこと惜しい漢たちではある…)
返歌の後もそうだったが、またしてもそれを義家は思った。
やがて。
八身と朱鳥は毛無の馬群から離れた。
その距離、30メートル。
その間にも、二百四十騎は黄金の舞いを続けている。
馬群の周辺では源氏、清原の兵たちが四つん這いになって、金の粉を追っている。
八身と朱鳥は正面から向かい合った。
「朱鳥…」
「八身さま…」
二人の視線が一本に重なり、それから距離を失って溶けた。
二騎が同時に駆け寄り始めた。黄金の華の中をスローモーション映像のように二騎が奔った。
そして二人が寄り添ったそのとき、厨川柵から、これも黄金色の一抱えほどの玉が宙に放たれた。それは、石投げ器に飛ばされた金箔に包まれた玉だった。
玉はゆらゆらと放物線を描いて八身と朱鳥の頭上に達し、それに八身と朱鳥が小刀を投げた。
刀は玉の中心を貫き、真っ二つに割れた。
「めでたやーあっ」
「めでたやーあっ」
毛無の将士が叫んだ。
玉からは、薄く薄く延ばされ、そして雪ほどの細片にされた黄金が、降るでもなく、消えるでもなく、東へ北へ、西へ南へと空いっぱいに舞い始めた。
朱鳥は八身の肩に軽々と乗り、立ち上がり、両手を広げ、黄金の宙を戴いた。その瞬間、朱鳥を伝わって八身に黄金が降りそそいだ。それは朱鳥自身が、八身自身が、さながら黄金仏と化したかのような姿に見えた。
「めでたやーあっ」
「めでたやーあっ」
歓声のさなか。
八身は朱鳥を胸に抱き取り、ついに朱鳥は八身その人となった、そして八身は朱鳥その人となった。二人のシルエットが蝦夷の旗印、太陽を背にして一つに重なり合った。
「メデタヤアアアーッッッッ」
二人を乗せる馬が後足立ちをしていなないた。

にわかに出現した陸奥の黄金郷。
天も地も、沈み行く太陽の紅を受けて、まるで内側から発光しているかのように輝いていた。
八身と朱鳥は、義家のいる方角を振り返ると、いちど手を大きく振り、乙比古たち二百四十騎とともに、鮮やかな朱色の幌をなびかせながら厨川柵に姿を消した。それは毛無の天地、七時雨山の高原に旅立つ瞬間でもあった。
八身と朱鳥の婚礼は終わったのだった。
義家は自分がいつの間にか戦意をまったく抜かれていることに、初めて気がついた。
八身と朱鳥たちの去った後には、地を這い、昇れない天に飛びつく無数の魑魅魍魎たちだけが残っていた。
槍を捨て、弓を捨て、そして馬を捨て、四足の動物のように砂金を、金粉を漁る兵士たち。漂う金箔に届かない手を必死に伸ばす兵士たち。川向こうの軍も、黄金を求めて先を争って川を渡り始めていた。
義家はわれ知らず大きく息をついた。
「黄金は泡沫(うたかた)である」
金山で聞かされた言葉が、まるで自分の言葉のように蘇った。
「黄金で万福を得ようとするは、倭人の不幸である」
義家は、毛無騎馬軍団の消えた厨川柵に、遥か天上の国でも眺めるような視線を送った。
(蝦夷は黄金で倭人を操ると言うたが、本当であったな)
義家は心の中でつぶやくと、独り馬首を廻らせ、まるで敗軍の将のように自陣に戻り始めた。
空を舞う黄金は、そのあと、太陽が没してもなお残光を宿し、倭人を嘲笑うかのように、いつまでも厨川を漂い続けていた。