不戦の王 11 化生(けしょう)の者

<目次>
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「八身さま。八身さまは我らのところにお越しの頃、異なことを…たしか、この身は異類婚で生まれたゆえにと…」
朱鳥はまだいちども自分を見ようとしない八身に業を煮やし、話しかけてはならないとわかっていながら、半ば独り言のように言ってみた。それは以前からいちばん尋ねてみたいことだった。
二人の姿は衣川柵(平泉の中尊寺西北の山中。関山)を遠望する対岸の洞穴にあった。
八身は護摩を焚いていた。ただ火炉があるわけでもなく、くべる乳木(ちぎ)があるわけでもない。しかし八身は、
「智慧の火で煩悩を焚き、息災を祈願するのです」
と言いおいて、朱鳥に背を向け、何事か一心に念じている。朱鳥としては暖がとれれば、煩悩が燃えていようと智慧が燃えていようとどちらでもよい。それに、この八身がいてくれるだけでも。
外は雪。
庚申(こうしん・干支の一つ。きのえさる)の日の夜、八身は寝ない。
人間には生まれると同時にサンシという虫が棲みつき、それが庚申の夜、人間が寝ている間に天に昇り、宿主の犯した罪業を天帝に報告するという。天帝はそれを聞いて、宿主の寿命を削る。
中国の道教に由来する俗信なのだが、宮中ではサンシを天に昇らせないため、清涼殿に天皇以下が集まり、歌合せなどしながら寝ないで一夜を明かすことになっていた。これを庚申講というが、この習俗、平安の世に始まり、江戸時代まで盛行を極めた。
「私の出自のことなど、庚申の夜にふさわしい話題とは思えぬが。サンシに聞かれたくもなし」
八身はそのときやっと朱鳥の方に向き直り、今宵初めて正面の顔を見せた。その刹那、朱鳥は火がはぜたように頬を輝かせ、まぶしげに八身の目を見つめた。八身の目は、いつもながら掌に掬い取った清水のように涼やかだった。
「陰陽師のお言葉に逆らうようですが」朱鳥はやっと言葉を見つけた。「サンシなどと、そのようなもの、ほんとうに? 毛無にはそのようないたずら者、おりませぬ」
「おや。サンシを信じたから、ここに来られたものと思うていたに」
「そ、それは…ただの口実です。わかっておいででしょうに。わたしにそのようなことまで言わせて」
朱鳥は口をとがらせて、火にばさばさと枯れ枝をくべ足した。不意に覗いた朱鳥の狼狽に八身はほほ笑み、それから貞任にもらった清酒(すみさけ)の壷を取りに立った。

八身は衣川柵の者に庚申講を勧めたわけではない。ただ酒宴に加われない理由として、それを述べただけだった。貞任は言った。
「陰陽師には陰陽師としてのお務めがありましょう。我らに倭人の貴族の真似はできませぬが、八身のお方はどうぞご自由に。清涼殿には及びませぬが、館の内のどこなりとお使いください」
「いや。今宵は護摩を焚きとうございます。ふさわしい場所はすでに見つけてあります」
「どこ…?」
唐突に朱鳥が口をはさんだ。
「川向こうの洞。そちらで寝ずの一夜を明かす所存にございます」
「あのう、わたしのサンシも鎮めていただきとう存じます」
「朱鳥。何を言うのだ、ぶしつけに。天下の陰陽師様に、もったいなや」
乙比古が制した。それを八身がまた、あっけらかんと制した。
「かまいませぬ。この後の毛無の武運を祈り、その身に呪を封じてさしあげましょう」

二人だけの時をつくったのは初めてのことだった。
八身は、関白頼通にも臆することのない度胸をしていながら、朱鳥にかかると、その積極性につい押され気味になる。
少数民族の毛無一族は、近親婚を避けるため混血を意図的にすすめ、その結果コーカソイドとしての身体的特性が損なわれつつあったが、朱鳥にはまだそれが色濃く残っていた。
まず背が高い。腰の位置もモンゴロイドよりは相当高く、またたくましい。顔の造作も、からだの線も凹凸がはっきりしているが、しかし顔だけは小さい。髪は栗色。目は大きく深く、瞳はブルー。肌は淡いピンク。口は顔に比して大きいが、唇は薄い。
宮城県でも岩手県でも秋田県でも、先祖代々この地に住んでいながら、まったく欧米人と外見の変わらない人、まさに朱鳥の外見と同じような人にいまでも出会えるが、それはまさしくコーカソイドの血ではあるまいか。
「私の馬は名はなんと? よい馬だ。毛無の馬はみな素晴らしいが、とくにあの馬は聡い。人の気持がわかるとみえる」
「話をそらさないでくださいませ。異類婚とは、何のことでありましょう」
「馬の名を。そうしたら答えましょう」
「きっとですね」
八身はうなずく。朱鳥の目は八身といると内側から発光しているように輝くが、それがいまは二人の間の炎を映し、さらに明々と燃えていた。
八身はその視線を避けながら、清酒を赤漆の酒盃二つに注いだ。
「イイと申します」
「なに、イイ? イイとはどのような字を?」
「字はわかりませぬ。毛無では、その時代で一番の馬にイイという名前をつけます。もう何百年、いいえ何千年かもしれませぬ、毛無の誇りを表す呼び名です」
「そのような素晴らしい馬をこの私に? それは長である乙比古殿の乗るべき馬ではありませぬか」
朱鳥は、とんでもないと言うように、首を左右に振った。
「安倍もそうだと聞いておりますが、毛無も長だからというて、獲物や宝飾をより多く持つようなことはいたしませぬ。富は平等に分け合います。長だからというて、倭人のように権力を持つこともありませぬ。ただ、長に伴う役割をやっているだけのこと。ほかより偉いわけではありませぬ」
「そうか。だからこそ蝦夷だ。蝦夷が倭人に教え、導くべき徳だ」
「倭人のことはよく存じませぬが、わたしも人の上に人を置かないのは素晴らしいことに思います」
「そう思う。ならば、よけいわからぬな。なぜ一番の馬を私に?」
「一族の感謝と尊敬の気持をイイで表したのでございます。ほら、あのお婆さまの霊、赤頭の母禮さまでありましたか、あのお方の霊を鎮めていただき、さらには御言葉までその唇に宿し…」
「ああ。そのことであったか。それにしても、かたじけない。このたびの源氏との戦が終わったら、すぐにお返し申そう。いまは拝借するということで」
「そのように遠慮なさらずとも、走るということでは他の馬も決してひけはとりませぬ。八身さまだけがよい馬に乗っているわけではありませぬからご安心なさいませ。それより、異類婚の意味を。お約束ですよ、さあ」
朱鳥が炎のあちらで、いたずらっぽく身を乗り出した。
「では、清酒で喉を潤して」
八身は酒盃の一つを朱鳥に渡した。朱鳥は香りを嗅ぎ、それからうさんくさげに舌の先で少し嘗めた。
「私も初めて飲む。どんな味がする?」
「ああ、なんと芳しい、なんと甘い。これはとても、いつもの濁り酒ようにしては戴けませぬ」
朱鳥はそう言うと、いきなり髪の元結を解き、頭を一振りした。そのとたん、花が開いたように、護摩の火色が栗色の髪に躍った。
毛無の女性は倭人と違って髪を伸ばさない。まして戦闘に参加するときは、男と同じように肩までの髪をポニーテイルに後ろで束ねているのだが、その程度の長さであっても、これは充分すぎるほど扇情的なしぐさだった。それを朱鳥は意図してやった。
「さあ、異類婚のお話を」
八身は朱鳥を、朱鳥は八身の目をまっすぐに見て互いを飲みほし、それからゆっくりと酒盃を置いた。八身が二人のつくった静寂の中に言葉を落とし始めた。
「異類婚というのは、人間の男と禽獣の変化した女とが夫婦になること、そのことはご存じであろうが」
「はい、そのことは。でも、その男とはどなたさまでしょう。その女とはどこの狐か蛇か、はたまた龍なのでござりまするか」
「その男とは、さる豪族の頭領とだけ申しておきましょう。そしてその女とは、白狐の変化した類まれなる美女であったということになっております」
白狐は聖獣の王。神の御使いである。
「八身さまは蝦夷の言葉を巧みにお話しになられます。ということは、そのさる頭領とは、陸奥か出羽の豪族ですね」
「はあ。なるほど。そういうことかもしれませぬ。が、どうでありしょう」
「また、そのような。先をお話しくださいませ。ごまかしは許しませぬよ」
「わかりました」
八身は双方の酒盃に再び清酒を注いで話し始めた。
「私の父は狩に出たおり、珍しい白狐を見つけ、犬に追わせました。やがて犬たちは白狐を崖淵に追い詰めたのですが、白狐は死を前にしてもいっこうに脅えたふうもなく、凛とした眼差しで人間と犬たちを迎えたとのこと。父はその白狐の放つ威に感嘆し、誰にも矢を射させなかったばかりか、わざわざ馬を下りて叩頭(こうとう)し、その場をあとにいたしました。その三日後のこと、遠乗りに出ていた父の馬が窪地にはまって脚を折り、やむなく徒歩で館までの道を帰らざるをえなくなったのではありますが、途中で日が傾いたため、急ぐこともあるまいと、ある農家に宿を借りることにいたしました」
「わかりました。すると、そこには見たこともない美しい娘がおり、それが白狐の化身、だったのですね」
「そのとおり。どうも異類婚の話というのは、どれも似ておりますし、すべてお伽話のように聞こえます。が、父の場合もそういうことであるらしい。どこまでがほんとうでありましょうか、私にもわかりませぬな」
「農家にいた美しい女というのは、きっと事実でございましょう。でも、白狐の化身かどうかは…」
「疑念はそのままにして、先に話を進めましょう。ところで、この清酒というのは、魔物のようで。それこそ何かの化身のようではありませぬか」
「わたしには、そう…八身さまのその涼やかな眼差しに思えます。先ほどからまるであなたさまの光を口に含んでいるように思えてなりませぬ」
「なんと。私には、この酒が、朱鳥殿の、その火を映した髪のように燃えております」
「いいえ。このような短い髪。それに、わたしは黒髪ではありませぬし。そのようなお上手を。ほんとうは、醜いとお思いでございましょう?」
「倭人が、長い黒髪でさえあれば美人のように言っておるのは事実としても、あいにく私は長く京にあっても、寸刻たりとも倭人であったことはありませぬ」
「まあ、嬉しいこと。でも、ああ、やっぱり。八身さまはどこぞの蝦夷なのですね!」
「私には毛無の、その青い瞳と白い肌、栗色の髪が、どんな宝玉よりも美しく輝いております」
二人はしばらく硬直したように見詰め合っていた。互いに放つ一語一語が、実体のあるもののように相手に触れ、その感触になお身の内が硬直するのがわかった。
ようやく八身が硬直を解いた。
「横道にそれました」
「あら、八身さまがそらせたのですよ」
「そうでありました。そう、清酒の話をしたのがいけなかった。それでは、元に戻りましょう。父はその農家の娘をひと目見たとたん気持を惹きつけられ、翌朝館に同道した。そして夫婦の契りを結び、やがて子をもうけた。それが私ということになっておる」
「その人はどうして白狐の正体を現したのですか。そのまま人間でいれば幸せでありましたでしょうに」
「それは、私が盲で生まれたことに原因があります」
「盲目で? ほんとうですか」
「ほんとうです。父も母も必死で祈願したが、どう祈願しても私の目は見えるようにならなかった。父は私が三歳になったおり倭人の都に上り、化生の者と噂の陰陽師、宮廷陰陽師の頂点に立つ人、安倍晴明であるなら、もしや私の盲も治せるのではないか、そう考え、私を連れて京に上りました」
「それで、治ったのですね。そのうえあなたは陰陽道までも学ばれた」
「そういうことです。しかし、治ったのはそのときから二年も後のこと。母は、父が私を連れて京へ立つと、幾夜も幾夜も泣き明かし、何も食べず何も飲まず、ひと月後、父が京の都から帰ってみると、母のいるべき部屋には一匹の白狐の亡骸があったとか」
「まあ…」
「とはいえ、それを母とするは、あまりもの空事。なんとなれば、母は現に、未だ黄泉の地(死者の行く所)には旅立っておりませぬゆえ。しかしながら、異類婚にまつわる昔語りには、目に見えること以上の出来事に信を置きたいという人々の心が映し出されております。こういった話をまことしやかに語ることも、またそれを信ずることも、特段悪しきこととは申せませぬ」