エデュカントの星(第3話)

勢いよくドアが開き、目に涙をためてベルセリアが飛び出してきた。驚くガロの脇を走り去る。のんびりとシレオンがそのあとに続く。ガロが訊く。
 「どうしたんだ、ベルセリアが泣くなんて」
 「ああ、どうもマンガ『ヒトカケラ』に何かあったらしい。脱獄がどうとか…」
 「え、マンガぁ?!」
 外でベルセリアの絶叫が聞こえる。
 「エーーースーーー!!!」
 リーザカインド王国は今日も平和である。

 「ドラゴンはこの世で一番強くてかっこよくて美しい生き物だからな」

 新人たちが騎士団の館にきて三カ月がたった。相変わらず剣の訓練と騎士道の講義の毎日だ。日々一緒にいるせいで全員に友人か家族のような連帯感も生まれていた。
 昼食も終わり、くつろいでいた食堂でベルセリアが騎士団長トラントドンを見つけた。目を輝かせてつかまえに行く。
 「おっさん、午後から剣の相手をしてくれ」
 「なんだ、チビ助。相変わらず敬語が使えないのか」
 トラントドンはあきれる。
 「ベル、ずるいぞ。トラントドン殿にはオレも稽古をつけてもらおうと思ってたんだ」
 リューも先を越されないように立ち上がる。その様子を大男の騎士団長はやれやれと腕組みをして見下ろす。
 「君たちは強くなることばかり考えているようだが、騎士の本質は違うぞ。なぜ騎士が尊敬されると思う。わかった者から相手をしよう」
 ベルセリアとリューが競って手をあげる。
 「強いから!」「カッコいいから!」
 「強くてカッコいいだけで何十年も騎士への尊敬が保たれていると思うのか。騎士道の授業をまじめに聞いていればわかる話だ。そもそも騎士に必要な精神とはなんだ」
 「…そんなのサボってマンガ読んでる私にわかるわけないだろ(ブツブツ)」
 つぶやくベルセリアとは対照的にリューは元気よく
 「わかりました! 勇武と礼節、愛と名誉の尊重ですね!」
 「うむ、そうだ。それで具体的な意味は? …どうした、わからないのか。君たちは騎士について考えたことがあるのか。リーザカインドではなぜ兵士でも軍人でもなく騎士を置いているのかをまず考えてみるとだな…」
 トラントドンの説教が中庭の騒ぎに中断された。大勢の騎士たちが中庭に集まっている。その中にベルセリアは聞き慣れた声を耳にした。
 「おっさん、あとだ」
 ベルセリアはあわてて駆けだした。つられてリューや、彼らの様子を見ていたピン、ポン、パン三人組もついていく。中庭に到着してみると一匹のラブラドールレトリバーに似た黒い犬が数人の騎士たちに隅に追い詰められていた。犬は歯をむき出して警戒の姿勢で低くうなっている。犬を囲む騎士たちが口々に言い合う。
 「何だ、この犬は。迷い込んだのか」
 「すばしっこくて捕まえられないぞ」
 「爺!」
 ベルセリアが駆け寄った。「どけっ」と騎士たちを蹴飛ばして犬を守ろうとする。
 「おまえたち、爺に何をする」
 ベルセリアはしゃがんで犬の首に腕を回し、キリリとしたつり目をさらにつり上げて騎士たちを睨みつける。
 「ベルセリアの犬か。何するどころか、こっちが咬(か)まれたり蹴られたりでひどい目にあったんだが」
 「私を心配してきてくれたんだ。おまえたち、爺にさわるな」
 「いや、さわりもできないんだけど」
 剣幕に先輩騎士たちが押される中、人だかりからピン、ポン、パンが顔を出す。
 「珍しい名前のつけかたするな」
 「アルファベットのG(ジー)?」
 「ベル、センスねえ…」
 「なんだとう! 聞こえてるぞ、おまえたち」
 見かねた騎士団長の一人であるヌフドパフが仲裁に入った。
 「ベルセリア・エノテカ、騎士団で犬は飼えないぞ。実家に戻しなさい」
 「出入りするくらいは好きにさせろ」
 「じゃあこうしよう。入団試験をして合格すればおいやってもいいぞ。Gも立派な騎士犬(けん)だ」
 半ば冗談だ。ベルセリアと犬は顔を見合わせる。そんなわけで、犬、入団試験開始。

 騎士団の館に続々と報告が入る。
 「すごいぞ! 筆記試験を選択問題にしたらすべて突破した」
 「剣術はできないから格闘術にしたらこれも及第点だ」
 「迷いの森も難なくクリアできたぞ。総合点は飼い主のベルセリアより高い」

 よって合格。ただし、迷いの森の意志確認は「ベル様を守りたいから」だった。動機が不純なので、ベルセリアと同じ「見習い」となる。
 「わはは、これはいい。この飼い主にしてこのペットありだ」
 騎士団長ヌフドパフやトラントドンたちは愉快そうに笑う。
 「爺…」
 「ワン…」
 「おまえ、犬のくせして私より点数がいいとは何事だ!」
 『あなた様のために必死になって合格したのになんて言い草です!』
 ケンカするベルセリアと犬の様子を見ていたシレオンやリューが感心する。
 「ベルセリアはすごいな。犬と会話ができるのか」
 「さすが野生の子だ」
 こうして犬が騎士団に入団した。

 「今日はコートドールの谷で野外演習を行う。ドムラに乗っていくので各自準備にかかるように」
 騎士団長ティムールが新人たちに指示を出す。
 「コートドールに行くのか! ドラゴンの生息地じゃないか」
 ベルセリアが嬉しそうだ。瞳をキラキラと輝かせて鉄の甲冑を身につける。ベルセリアやガロたち見習いは正規騎士ではないので甲冑は鉄を加工したものだ。正規騎士になると特殊金属を加工したオーダーメイドの白銀(しろがね)の甲冑が装着できる。パンの脛当てつけるのを手伝うピンがベルセリアに訊く。
 「危険地帯に行くのが楽しいのか」
 「変なやつ」とポン。
 「いや、ドラゴンを見るのが楽しみなんだ」
 ベルセリアは声を弾ませる。聞いてポンの胸当てをつけていたパンが驚く。
 「ベルはドラゴンが好きなのか?」
 「当たり前だ。ドラゴンはこの世で一番強くてかっこよくて美しい生き物だからな」
 生き生きとするベルを見て
 「変なやつ~」とポン。
 「変とはなんだ、失礼な。それより、おまえたちドムラに乗れるのか。乗れない騎士は馬車だぞ。市民に見られるとかなりみっともなくてかっこ悪くてダサダサで情けないぞ」
 「感じ悪いぞ、ベル」
 「当然だ。感じ悪いのは私の得意技だ(ケッケッケッ 笑)」
 笑って一足早くドムラの厩舎に向かった。
 厩舎では一人ガロがドムラ「ツカサ」の世話をしていた。
 「どうした、ベルセリア、早いな」
 「…ああ、気が急(せ)いてな」
 ベルセリアは適当にドムラを引っ張り出して厩舎を出る。
 『いかがいたしました、ベルデッキオ様』
 犬が近寄ってくる。
 「いまガロが一人だったから首をかき切って始末してやろうと思ったんだがな」
 ベルセリアは懐に短剣を忍ばせていた。
 「なぜか気配を気付かれた。ついこの前もそれで機会を逃したが、あいつは常に隙がない。剣も相当な手だれだ。本当にただの学生だったのか怪しいものだ。それに…」
 ベルセリアは視線を送る。厩舎のそばでティタンジェがガロの様子をうかがっていた。
 「いつもあの鬼軍曹がガロを監視しているんだ。殺しづらくて仕方ない」
 『では私が代わりに…』
 「いや、余計なことをするな。ガロも鬼軍曹も面倒な相手だ。本格的に機会を作らないとしとめるのは難しいだろう」
 恐ろしげな話をしながら二人は集合場所に向かった。

 コートドールの谷では数頭のドラゴンたちがかたまってのんびりと昼寝をしていた。一般的なドラゴンの大きさは牡牛約5頭分だ。色はそれぞれあるが谷に眠るドラゴンたちは黒曜石のように黒々としている。ドムラの馬上からベルセリアが馬車に乗る三人組や犬に説明する。
 「見ろ、あれはシーバス種という種族のドラゴンだ。谷間のように日の当りにくい場所を好んで棲息している。瞳が赤く、他のドラゴンより黒くてうろこが硬いのが特徴なんだ。牙も鋭くてかっこいいぞ」
 「強いのはわかるけどどう考えてもかっこよくて美しくはないだろ。怖いよ、あれ」
 目を輝かせてドラゴンたちを見るベルセリアとは対照的に馬車の中の三人組は震えあがっている。犬はベルセリアの言葉一つ一つを神妙に聞いている。
 「寝ているドラゴンを起こしたら厄介だから早いところ行こうぜ」
 新人で正規騎士のガメイが馬上から仲間を促す。彼もベルセリアや三人組と同じくらいの年齢だ。それもあってみんな仲が良い。
 谷の開けた土地についた。ここは騎士が演習場として使う見晴らしの良い地形である。15名の新人たちと先輩騎士30名に騎士団長ティムールが演習の内容を説明する。
 「ドムラに乗れない新人もいるので、全員が白兵戦形式で行う。今日は『翼』の陣形をつくる。指令を出す騎士を主軸にしてV字型に広がり、敵が攻めてきたら入口を封鎖して敵を包囲し叩く。仲間との連携が大切だからまずは陣形作りからだ。慣れたらチームに分かれて対戦する」
 新人たちは元気良く返事をする。ガロは隣りのベルセリアの頭をコツンと叩いた。
 「なんだ、その気のない返事は。いい若い者(もん)が」
 「痛いな。集団行動に興味ないんだ。あと『いい若い者(もん)』って、おっさんぽいぞ」
 ガロは恥ずかしそうにコホンと一つ咳払いをして
 「連携攻撃は戦闘の基本だ。剣の腕ばかりあげても指示を守れない騎士は戦闘では負ける。連携をバカにして今日の対戦に負けたら谷にいたドラゴンたちに笑われるぞ」
 痛いところを突かれて悔しいらしく「集団行動なんて意味ないのに。私が強ければそれで解決するのに」とブツブツと文句を言いながらベルセリアは配置につく。
 ティムールの合図で騎士たちは剣を構えた。
 直後、空から動物の声が轟いた。ドラゴンたちの鳴き声だ。騎士たちは上空へ注意を向ける。さきほどのドラゴンが目を覚まして襲ってきたのかと全員が動揺した。ドラゴンは生物の頂点に立つ最強の生き物だ。鋭い牙と爪を持ち、破壊力も桁外れのうえ空も飛ぶ。ドラゴン使いならともかく、よほどの剣士でもなければひとたまりもない。ティムールは急いで指示を出す。
 「撤退する。5人ひと組になり防御態勢を整えろ。乗れる者はドムラで応戦の準備だ」
 だが、彼らが動くより先に頭上が暗くなった。十数頭もの青緑色のドラゴンの群れが谷間に覗く空を覆ったのだ。上空のドラゴンたちは騎士団の姿を捉えると雄たけびとともに平地めがけて降下してきた。恐怖が降ってくるような光景に全員の顔が蒼白になった。
 ベルセリアは目を疑った。
 <レミー種?! この種は海側に棲息するドラゴンだ。なぜここに?!>
 理解のできないドラゴン使いの少女をよそにドラゴンたちは着地するや異様に猛り狂い、騎士たちを襲い始めた。牡牛5頭分もあるドラゴンが鋭い牙や爪で甲冑ごと騎士たちの体を引き裂き、強靭な尾でなぎ倒そうとする。木陰につながれたドムラにたどり着くどころか逃げる間(ま)も与えられない。騎士たちは応戦よりも防戦一方となる。そもそも誰も本物のドラゴン相手に戦った経験はない。
 その間をベルセリアは一人駆けまわって戦いをやめさせようと奔走する。
 「やめろ! レミー種はおとなしいんだ。人を攻撃するのにはわけがある」
 説得もむなしく、誰一人ドラゴンとの戦闘をやめない。ドラゴンの鳴き叫ぶ戦乱の中、ベルセリアの声はむなしくかき消されていく。そんなときベルセリアの目の前でドラゴンに力負けしたガメイが踏みつけられてしまう。
 「ベル、助けて…」
 恐怖でこわばったガメイの顔に死相が浮かぶ。
 チッと舌打ちしてベルセリアは助けに向かう。ドラゴンの脇で大きく跳躍した。その素早い動きをドラゴンは止められない。ベルセリアはレミー種の弱点である首筋を切りつけた。青緑色のドラゴンは悲鳴をあげて血を流しのけぞる。そのまま真横へ大きな音を立てて倒れた。「いまだ。とどめをさせ!」と先輩騎士が叫んだ。ドラゴンに駆け寄るベルセリア。首筋めがけて振りかぶるように大きく剣を構えた。だが体は動かなかった。とどめがさせないのだ。服従させるために倒すことはあっても大好きなドラゴンを殺すことはできない。そのわずかな躊躇が形勢を逆転させた。隙をついてドラゴンが起き上がった。そのまま羽ばたいてベルセリアをはねのける。「しまった!」とドラゴンを追ったが遅かった。彼女の見ている前で逃げる途中だったガメイがドラゴンの牙の餌食となったのだった。白銀の甲冑で守られてはいたが、狂気のドラゴンの岩をも砕く牙の力は防ぎようがない。
 呆然とするベルセリアの横をシレオンが走り抜ける。ガメイを襲うドラゴンの背中に飛び乗り、剣を突きたてた。悲鳴を上げ、ガメイを離すドラゴンを、シレオンに続き、騎士たちが4人がかりでその体に幾度も刃(やいば)を突きたてる。ドラゴンは血しぶきを上げ、断末魔の叫びとともに動かなくなり、息絶えた。ベルセリアは口がきけないほどショックを受けた。ドラゴンが無抵抗な人間を襲うのも、集団リンチのように殺されるのもいままで見たことのない残酷な光景だった。すべてがこの小柄なドラゴン使いの少女を打ちのめした。幸いにしてガメイは一命を取り留めた。しかし傷は深く意識をなくしていた。
 一方、ガロは剣と楯を片手に戦闘の間を駆け抜けながら探していた。
 <この統制のとれた攻撃はドラゴンを操る者がいる>
 いち早く気づいたガロは冷静に周りを観察した。平地の離れた場所で手綱をつけたドラゴンの背に乗る黒いマントの人物を発見する。走ってドムラの中からツカサを探して背にまたがった。
 巧みな手綱さばきで騎士とドラゴンたちの戦闘を避けながら指揮官へとツカサを猛進させる。その様子に気づいた黒マントの男がドラゴンの手綱を引いた。四足で立っていたドラゴンは馬のように前足二本を振り上げてガロとツカサの前に立ちはだかる。
 ドラゴンが5メートル以上はある大きさとはいえドムラも巨大な馬だ。頭まで4メートル以上あるので、その差はドラゴンの頭一つ分。戦闘的な性格のツカサはひるみもせずドラゴンに挑んでいく。
 ガロは右手に剣を高々と構え、左手でツカサを操りながら人馬一体となってドラゴンに飛び込んだ。ドラゴンの雄たけびとツカサの大地を蹴る蹄(ひづめ)の音、ガロの気合の叫び声が混然一体となって谷に響く。すれ違いざまに剣を振り下ろした。剣先はドラゴンの右翼をとらえた。
 苦痛と怒りの鳴き声をドラゴンがあげる。右にかしいだが、致命傷ではない。傾くドラゴンを操りながら黒マントの男は鼻で笑う。
 「はずしおったか。他愛のない」
 ガロはすぐツカサを転回させ、ドラゴンの背後から再び突進させる。いまの一撃で倒せないのは百も承知だ。少しの間ドラゴンの動きを封じたかっただけなのだ。
 <最初からオレの狙いはおまえだ>
 ツカサからドラゴンの背へと飛び移った。翼を傷めてぐずぐずと飛び立てないドラゴンの操縦にてこずっていた黒マントの男が振り返って驚く。ガロは剣を構え、容赦なく一刀の元に男を葬った。男は落下した。乗り手をなくして暴れるドラゴンからガロは器用に降りて再びツカサに乗る。狂乱のドラゴンは谷を逃げるように飛び去った。
 その頃、ベルセリアは茫然自失となっていた。ドラゴンを倒せず、見ている目の前でドラゴンが殺され、仲間も助けられなかったショックから立ち直れなかったのだ。そこへ怒り狂ったドラゴンがベルセリアに襲いかかる。
 ワン!
 犬が鳴き声とともにベルセリアに体当たりして弾き飛ばした。と同時にピン、ポン、パンの三人がそのドラゴンの太い尾に剣を突きたてる。すかさず尾から背中に駆けあがったリューがドラゴンの首元にかじりつき、弱点の首筋に深々と剣を突き刺した。ドラゴンはしぼり上げるような悲鳴とともに倒れ、事切れた。三人組とリューはともに歓声を上げる。
ベルセリアの腕をくわえて犬は戦乱から外へと遠ざけた。落ち着いた場所で犬がベルセリアを離す。
 『しっかりしてください、ベルデッキオ様。少し休んでいてください』
 「爺、私は…」
 ベルセリアの顔からいつもの覇気が抜けていた。
 「私は、なんでこんなに無能なんだ」
 『ベル様…』
 黒マントの男のドラゴンが飛び去った直後、崖の上から青緑色のドラゴンが飛来してきた。戦況を睥睨するように谷間を旋回するその背には人を乗せていた。彼が去ると生き残った他のドラゴンたちもそれにならい撤収していく。
 ドラゴンに乗る人物を見てティムールは愕然とした。彼だけではなかった。ガロもまた硬直していた。
 傷を負いながらも幸いにして死者はないまま騎士団は撤収した。

 「オリビエが騎士団を攻撃しただと?!」
 その夜行われた騎士団長緊急報告会でバローロが叫んだ。全員が愕然とする。
 「確かにラムー河の戦い後、行方不明になっていたが、まさかあの正義感の強い男が騎士団を襲うなど…」
 「ではやはりリーザカインド王国を裏切ったという噂は本当だったのか」
 「有り得ない!」
 ティタンジェが思わず声を荒げて叫んでいた。
 「落ち着け、ティタンジェ。まだ決まったわけではない」
 隣りにいたヌフドパフがいきり立つレディナイトを制する。バローロは再度騎士団長ティムールに問いただす。
 「人違いではないのか」
 「いえ、私がオリビエ・ピエモンテ騎士団長を見誤るわけがありません」
 その暗い回答に全員が絶望的な顔になった。
 ティタンジェはめまいを覚えた。このまえからしきりに立ちくらみがする。頭痛もする。しかしいまは体調不良にかまっていられない。
 彼女の瞳に宿った悲しみは誰にも気づかれなかった。
 <オリビエ、おまえに黒い野心があったとは考えにくい。何が変えさせたのだ>
 いくら考えてもティタンジェには理解ができなかった。

 町の路地裏に術師の店がある。演習の翌日、背の高い少年が入ってきた。店内は薄暗く、本や薬品が棚に所狭しと並べられている。客の気配に気づいた小柄でメガネをかけた老人が店の奥から出迎えた。少年がおずおずと老人に尋ねる。
 「ラーマヤーナさんですか。リグベーダさんの紹介できました」
 「なんじゃ、わしよりよほどあやつに頼んだほうが病気でも何でも早く治るじゃろうに」
 少年は言いにくそうに口ごもる。
 「まあ、ええわ。リグベーダに言えん事情もあるんじゃろうよ。それで、おまえさんは何が望みだ。病気か怪我の治療か。それとも」
 術師の老人は心を見透かすように彼の目を覗きこむ。
 「誰か呪いたい相手でもおるのか」
 「逆です。呪いを解きたいんです、オレと、ある人の」
 「ほう、そこにすわれ」
 少年は老人と机を挟んで椅子に座った。こっそりと手に入れた相手の愛用の手袋を老人に見せる。ラーマヤーナ老人は二本の小さな綿棒のようなもので手袋と少年の体をそれぞれこすった。綿棒を薬品に浸す。先が青紫色に変わり嫌な刺激臭が立ち上る。
 「ふむ、手袋の持ち主のは禁断の封印呪文『パンドラ・ボックス』か。発動すれば大いなる禍に見舞われる呪いじゃよ。発動条件まではわからんが」
 「解けるんですか」
 「まず無理じゃろうな」
 「そんな…」
 「まあ調べといてやるが、しかし厄介な呪いじゃわい。かけたのは誰じゃ」
 「辺境の魔物です。ヒト型でした」
 「呪いを使えるヒト型となると、魂を喰らって生きる死喰い(しくい)か。面倒な相手だ。相当な知恵もつけておる」
 「それで、オレのは」
 「おまえさん?」
 老人は明るい表情を少年に向ける。
 「安心せい。おまえさんにはなんともない」
 「えっ?!」
 少年は思わず椅子から立ち上がって叫んだ。
 「オレにも呪いがかけられているはずです。たとえば姿を変えられているような…」
 「おまえさんは健全そのものじゃよ。ほれ見い。なんも反応しとらんじゃろ」
 老人が指で彼をこすった綿棒の先を示す。綿棒は臭いもなければわずかの汚れさえない。老人は静かに立ち上がった。
 「何かあったらまた来い。名前は聞いといてやる」
 「オレはガロ・ソノマです。でも…」
 「ガロか。何もない以上、してやれることはない。つらいこともあると思うが、エデュカントの星の守りがおまえさんにあるよう祈っとるよ」
 店主は店の奥に引っ込んだ。ガロは茫然と立ち尽くすだけだった。