操られる人々

灰色の空から、今にも凍りつきそうなみぞれが吹きつけていた。

失業中の大和(やまと)は、伸縮式の警棒を懐に忍ばせ、繁華街の路地裏を睨みつけていた。二年前、世界を震撼させた法律――通称「クリーン・エア・アクト(路上喫煙者特別処分法)」が施行されてから、この街の景色は一変した。

「歩きタバコを現行犯で見つけた場合、市民はあらゆる鈍器を用いた超法規的殺害(撲殺)を認められる」

あまりにも狂気じみた劇薬。だが、効果は絶大だった。
路上から煙は消え、誰もが「合法的な狩り」の標的になる恐怖から、背筋を伸ばして歩くようになった。

チッ、と小さく火花が散る音がした。
路地の奥、自販機の影。一人の青年が寒さに震えながら、一本のタバコに火をつけた。紫煙がゆらりと立ち上る。

(……現行犯だ)

大和の心臓が跳ね上がった。法に基づき、あの男を「処分」する権利が、今この瞬間に自分に与えられた。警棒を取り出し、足音を消して男の背後に忍び寄る。

だが、脳天に振り下ろそうとした武器は、男の顔を見た瞬間に止まった。

男は泣いていた。怯え、震え、まるで死刑台を待つ囚人のように、狂ったようにタバコを吸い込んでいる。

「た、頼む……あと一口、あと一口だけ吸わせてくれ……!」

男は大和の警棒に気づき、地面にへたり込みながら懇願した。

「吸えば殺されると分かっていて、なぜ吸う?」

困惑する大和の問いに、男は絶望に満ちた声で笑った。

「やめられないんだよ……! 政府が配っている『配給米』や『水道水』を口にしている限り、この衝動からは絶対に逃れられないんだ!」

「なんだと……?」

「知らないのか? このクソみたいな法律ができてから、タバコの価格は暴落した。なのに、闇市や一部の自販機には、なぜか無限にタバコが補充されている。国は……俺たちに『吸わせよう』としているんだ!」

その時、大和の脳裏に、かつてニュースで見た政府の統計データがフラッシュバックした。

「クリーン・エア・アクト」施行後の医療費削減率:80%
刑務所の収容人数:過去最低
社会保障費の財政赤字:完全解消

この法律の真の目的は、「路上喫煙の撲滅」などではなかった。

政府は、水道水や配給食糧に「ニコチンへの欲求を異常に高める依存性物質」を極秘裏に混入しているのだ。そして、ストレスや困窮で自制心を失った「社会の弱者」や「不適合者」をあえて喫煙へと誘導する。

屋外で喫煙した瞬間に、彼らは「合法的に処分していい存在」へと姿を変える。

警察を動かすコストも、裁判にかける時間も必要ない。正義感に駆られた一般市民(ハンター)たちが、自発的に、ボランティアで、政府にとっての「不要分子」を撲殺してくれる。

「クリーン・エア・アクト」とは、国が仕掛けた、合法的な「人口削減および社会の”お荷物”の自浄システム」だったのだ。

「俺だって半年前までは、タバコなんか一度も吸ったことのない、善良な『狩る側』だったんだ。それなのに……」

男は涙を流しながら、頭を抱える。

(……バカバカしい陰謀論なんかじゃなかった、のか……)

大和はゆっくりと警棒を下げた。手の中の金属が、急にひどく冷たく、悍(おぞ)ましいものに感じられた。

「おい、そこのお前! やらないなら俺たちに譲れよ!」

路地の入り口から、鉄パイプを持った集団が血走った目で走ってくるのが見えた。彼らもまた、国に踊らされているだけの「処分業者」に過ぎない。
目の前で怯える青年を見つめ、大和は静かに言った。

「……走れ。裏路地から地下道へ抜けろ」

男は目を見開き、何度も頭を下げながら闇の中へと消えていった。

遠くからサイレンの音が響く。清浄に澄み渡ったはずの街の空気は、どんな煙よりも深く、黒く淀んでいた。