炭山の御神木(8)

叺(かます)を洗い終えると、再び開墾地の作業が始まった。秋の収穫時期までに何とかかたずけたかった。
昼食で家に戻ると、一通の封書が届いていた。田舎では新聞と手紙は昼頃に配達される。
差出人を見ると、豊田渋皮株式会社 代表取締役社長 豊田誠三と縦印が押してあった。先日突然訪ねて来たスーツに長靴を履いた恰幅の良い紳士の風貌が脳裏に浮かぶ。嫌な予感がした。開封するのが怖かった。
封を切って紙切れを取り出した。冒頭、突然訪問した非を詫び、近日中に会社に来てほしいと、達筆な文字で綴られていた。追伸として、印鑑を忘れずに持参して欲しいとも認められていた。
「誰から?」
富美が立ったまま手紙を読んでる和男に声を掛けた。
「こないだ家に来た社長さんからだよ」
「フーン。何の用事かしらね。もしかして・・・・」
「何だよ」
「会社の土地の木を勝手に伐採したり、耕したからお詫びに来いってことかしら」
「まさか。そんなもんで、何でハンコ(印鑑)がいるのよ?」
「損害賠償とか、住居不法侵入とか」
「それにしたって、ハンコ(印鑑)なんかいるのかな」
「とにかく来いって云うんだから行かなくちゃね」
「そうだな。何か気が進まんけど、行ってみるか」
「そうしな。私も一緒に行くからさ」
「お前はいいよ」
「いいよ、一緒に行くよ。どうせ、健診で病院にも行かなくちゃならないし」
「そう言えばそうだな。ついでに用事を済ませちゃうか」
翌日は朝から雨が降っていた。ここ一週間ほど晴天続きで、そろそろ植物が水を欲しがる頃だった。
二人は雨合羽に身を包んで、馬車に乗り込んだ。一直線に延びる砂利道の先は靄で霞んでいる。老馬は心得たもので、ところどころぬかるんだ場所を巧みに避けてくれる。
二人とも寡黙だった。どんな話があるのか、見当もつかないのだ。それに、豊田社長は怖い人のようである。どんなに考えても、どんな要件なのか思い当たるものはなかった。不安だった。
豊田渋皮株式会社は幕別にあって、広大な敷地に巨大な工場が数棟、辺りを睥睨するように立ち並んでいた。工場群に囲まれるように、こじんまりとした事務所があった。馬を止めて恐る恐る事務所に入って名前を告げると、若い女性事務員が丁寧に応接間に案内してくれた。女性職員はお茶をテーブルに並べながら、社長は工場の見回りに行ってるので、間もなく戻りますと告げて部屋から出て行った。
「さすがにでけェ会社は違うな。俺達みてェな貧乏人でも、こんなに親切にしてくれるんだからな」
和男は出されたお茶を啜りながら応接間を見回していた。そこは、清楚な空間で、壁に絵一枚の画が掛かっていて、他にはサイドテーブルに紫陽花が一輪生けられている程度だったが、落ち着いた雰囲気が会社の格を偲ばせる。
富美は膝に手を乗せ、身を固くして俯いていた。不安なのである。
「やあ、すまん、すまん。待たせたな。貧乏会社は社長が汗を掻いて働かんとな」
言いながら顔に笑顔は無かった。
「雨ン中来てもらってすまんかったな。何、そんなに急ぐ話じゃ無かったんだけど、ワシは問題が起こると直ぐに解決せんと気が済まない性質でな。で、早速だが、アンタ達は一生百姓を続けたいんだろ」
豊田社長は和男の顔を真っ直ぐに見て言った。
「勿論です。学歴も無くて世間も知らん俺に出来ることは百姓しかありませんので」
「それより、社長さん。知らなかったとはいえ、勝手に木を伐ったり畑を作ったりして、本当に申し訳ありませんでした。ただ、私達にはどんな償いをしたら良いのか見当も尽きません。保障しろというなら、何年かかっても支払います。どうか勘弁して下さい」
富美は今にも泣きそうな表情を浮かべて頭を下げるのだった。
「まあな。事情は分からんわけじゃないが、何しろ見様によっては、勝手に人ン家へ入って木を伐ったり畑を作ってたんだからな」
「それは、本当に申し訳ありませんでした」
和男も富美に倣って深々と頭を下げた。豊田社長は厳しい表情を浮かべて、腕を組んで二人を見下ろしていた。がやおら立ち上がると、一旦部屋を出て、大きな紙を持って来た。持って来たのは地籍図だった。テーブルにそれを広げると、
「いいかね、ここからここまでが、ワシが国から払い下げた土地だ。約一千町歩ちょっとある」
豊田社長が指で指した部分が赤い線で囲まれていた。
「それでだ、詐欺師の原口の野郎がアンタに売りつけようとした土地がこの辺だ。パラメムの丘の辺、ウムこの辺だな、この辺から西のこの辺までが、確かに十五町歩ある。それでだ、ここから、炭の原料として持ち出した原木が、そうだな、カンでいうより仕方ないが、まず、金に換算して五十万、土地の貸し料として五十万、慰謝料として五十万、ワシの土地を流れる川から獲れた魚が二十万、山菜代が十万。合わせて百八十万を現金で払って貰おうか。ハンコ(印鑑)は持って来ただろうな。
豊田社長は厳しい表情を浮かべて一気に条件を突き付けたのだった。
富美と和男は余りにも法外な要求に言葉を失った。今年が豊作だったとしても、とてもじゃないが、そんな売り上げはない。途方に暮れた。
「社長さん。今の俺達にはとてもじゃないが、払えません。もう少し何とかならないでしょうか。助けると思ってもう少しまけてくれませんか。でなきゃ、ここで働かせてもらえれば、いや何年かかっても必ず返しますますから」
和男を手を合わせ拝むように懇願した。
「馬鹿垂れ」
突然和男の頭上に罵声が飛んだ。続けて、
「アンタがウチで働いたら畑はどうするんだ。まさか、奥さんに畑仕事をさせるのか。これから子育てをしなけりゃならん奥さんが、畑仕事なんて出来る訳ないだろう。物事ってもんは少し考えてから云うもんだ」
強い言葉を発しながら、豊田社長の顔は笑っていた。厳しすぎる表情は必死に笑いを堪えていた証だったのだ。
「いいかい、今のは全部嘘だよ。我が社は一千町歩ちよっとの土地を所有している。だから、その内の十五町歩なんて、屁みてェなもんだ。アンタらは嘘も付けず、みたところ誠実だ。気掛かりなのは人に騙されやすいとこだ。騙されたって分かった後でも、荒地を綺麗に片付けてたっていうじゃないか。ウチの社員から聞いたぞ。ワシはアンタたちのような誠実に生きてる人間を裏切ったり、騙したりはしない。心配ないぞ、アンタが騙された土地十五町歩は五十万で売ってやる。支払いなんて何時でもいい。実は、渋皮の仕事はもう終わりだ。戦争が終わって軍隊の需要がなくなったからな。それで、わが社の所有する土地一千町歩を分筆して、小作人を入れようと思ってんだ。お前さんを小作人の第一号としたかったんだが、十五町歩あれば立派な自作農家になれる。どうだ、頑張って見るか」
不覚にもテーブルに涙が零れた。暫くの間顔が上げられなかった。隣では富美も肩を震わせて泣いていた。張りつめていた緊張が一気に解けた。信じられない程の好条件である。
「どうだ。不満か」
豊田社長は満面に笑顔を浮かべていた。和男も富美も言葉を失って、ただ首を横に振るばかりだった。
「あのう。例の小作料っていうか、つまり、社長さんの土地を勝手に使った賠償っていうか、そのう、その支払いなんですが、収穫が終わったら必ず持って来ますんで、何とかそれは、収穫まで待ってもらえんかと・・・・・・・」
「何ぐちゃぐちゃ言っとるんだ。そったらもん、始めっから貰うつもりなんか無いわい」
言葉はきついが、目が笑っていた。
「納得したんだな。じゃ、これにハンコ(印鑑)を押してくれ。これはな、売買契約書だ。それに、これは仮登記の申請書類だ。支払いが完了した時点で本登記、つまり所有権の移転登記を我社で責任をもってやってやる。分かったか」
和男と富美は言葉もなく、ただ何度も頭を下げるばかりだった。
「分かったらこれに記名捺印してくれ」
豊田社長は出来上がった書類に目を通しながら、
「いいか、これからは、働いて稼いだ分は全部自分のものになるんだ。頑張るんだぞ。それと、無暗に人を信じちゃならんぞ。さて、これで商売は終わりだ。面倒をかけたな」
豊田社長は完成した書類を封筒に入れながら立ち上がった。
「変だなと思うことがあったら、何時でも相談に来いよ」
和男と富美は何度もお辞儀をして事務所を出た。女子事務員が、お疲れ様でした、と笑顔で見送ってくれた。
篠突く雨が降っていた。敷地の一角に繋がれた老馬が、和男の姿を見て、何度も首を縦に振って、早く来いといってる。
馬車に乗ると
「私すごく緊張したわ」
富美が初めて微笑んだ。
「それにしても、偉ェ社長だな。人間あれほど大きくなんなきゃいかんな。俺にはとても真似は出来ねェな」
「神様って本当にいるんだね。私達みたいな、見捨てられたような人間でもちゃんと見てくれてるんだ」
「一時は本当にどうなることかと思ったけどな。もう人生も終わりだって覚悟したよ」
「私も目の前が真っ暗になったわ」
「それにしても、考えてみりゃ意地の悪い社長だよな。緊張しまくっている俺達を、わざと叱りつけて魂消すんだから。本当に底意地が悪いもんだ」
二人は顔を見合わせて笑った。腹の底から喜びが湧きあがって来た。十五町歩の土地が手に入る。父が残した五町歩と合わせて二十町歩である。堂々と胸を張れる大農家になれるのだ。二人の門出を祝福するように雨があがった。明るくて暖かい日差しが眩しかった。
「昨日までの悔しさは何だったのかね。私はお義父さんが残してくれた五町歩の土地を確かりと守って、ゼロからスタートしようと決めたんだよ。それが急転直下、私達の人生をガラリと変えてくれたんだよね。あの社長が」
富美は中天に顔を覗かせた太陽に向かって、両手を大きく上げて清澄な空気を思い切り吸い込んだ。空中に漂っていた塵は、午前中に降った雨で綺麗に洗われている。
「人生ってのは、悪いことばかりじゃ無いな」
「私はね、きっとパラメムの丘の熊と、ミズナラの御神木が助けてくれたんだと思う。熊はね、きっと欲深い人間が嫌いなのよ。人を騙してまで財産を作ろうとした人間が嫌いなのよ。だって、熊なんてさ、財産を作って豊に暮らそう、豊な老後を送ろうなんて考えてないし、その日の糧があれは満足だし、可愛い子供が出来れば幸せだと思ってるんだよね。だから、悠々と人生を楽しんでるんだわ」
「ハハ、富美、考え過ぎだよ。俺は熊は熊として生まれた環境に、従容と従って生きてるだけだと思うよ」
「何よ。夢の無い人ね。全く物語も何もないんだから。私達には他人には分からない物語があったっていいでしょうよ。全く夢が無いんだから」
「分かったよ。悪かった。ハイ、富美の言う通りです」
和男は笑いながら老馬に軽く鞭を入れた。小さくてもいい、貧しくてもいい、富美は日々健康で楽しく暮らせれば良いと願っているのだと和男は理解している。今日、期せずして十五町歩が手に入ったのだ。父が残した五町歩と合わせて二十町歩の土地持ちとなった。だが、富美はその大半を自然のまま残し、自然の中に溶け込んで生きていこうと思っているはずだった。自然の中で野鳥や鹿、熊を育み共生する生き方を理想としてるのだろう。
「人生って山あり谷ありっていうけど、本当だな」
和男はしみじみと呟いた。
「良いことも悪いことも、そう長続きしないよね。どんなに苦しくても時が解決してくれる。良いことばかり続いてくれれば良いけど、それも、時が経てば良いこととは思わなくなるもんだよね」
「そうだな、とにかく、俺達は見栄っていう鎧を脱ぎ捨てて、そのまんまの姿で生きてこうや。見栄を捨てたら、人生気楽だぞ。ところで、どうだ、前祝いにラーメンでも食って行こうか。音更に旨いラーメン屋があるんだ」
「ウン。嬉しい。二人で外食するなんて久しぶりね。ラーメン食べて炭山のミズナラの御神木と、熊さんにお礼に行こ」

(完)