新月の音 1部 3章

(本作の物語は全て虚構であり、実在する人物や集団、場所、出来事、法律、特許技術とは関係ありません)

 重藤(えとう)小晴(こはれ)は大学の最寄り駅から二つ離れた大型駅に降り立った。雑多な都市部であり、若者と外国の人間が歩き回る中にスーツ姿の人間が混じっていた。乗り継ぐだけであったから屋外に出る必要はなかったが、駅から見下ろせる屋外の大交差点は商業的に活気づいていた。交差点のどこからでも見ることができる高所の巨大な液晶画面には、「暦時計」という音楽グループの新しい曲の宣伝が流れていた。
 暦時計は五人からなる時流の軽音楽演奏集団であったが、構成員のうちの数名は既に音楽以外での活動も栄え、世間では成功した芸術家といった印象を勝ち得ていた。小晴が高校生であった三年前は一部の軽音楽愛好家達の間でしか知られていない、小さな演奏会場で活動する集団だったが、小晴が大学に合格した時期から世間的に注目を集め始めていた。小晴が暦時計を知ったのも世間人並みにその時期のことであった。
 しかし小晴が暦時計を知った経緯は世間人並みではなかった。彼女の婚約者である秋山が、ベーシストの如月夕(ゆう)と知り合いで、日本での代理人として最も信用していたから顔合わせの機会があったという異常な経緯であった。
 如月が音楽活動をしていたのは半分趣味であり、半分は社会の暗部で活動している際の擬態先としてであった。売れない音楽集団である内は、擬態先として有効だったようであった。しかし彼女は脱退する機を逃し、いつの間にか真紅の髪のベーシストとして有名人になってしまったのだった。彼女が日本で目立たずに歩ける土地と言えば、小晴が現在通過している渋谷の街くらいであった。
 尤も如月が脱退の機を逃したのも致し方がなかった。暦時計という団体名が、彼女の如月という名字と、夕という名前に起因していた。彼女だけが本名であって、他の構成員は如月に合わせて、水無月夜、葉月朝、卯月暁、霜月昼という芸名を採用していた。如月は最も静かな構成員であったが、集団の核心にいたのであった。暦時計が有名になることはないという前提が、如月の誤算だった。
 その如月夕が、真紅の髪を揺らして真白な上着を着て、楽器を収めた黒い筐体を背負い、駅の構内で一人の青年の手を引いて、足早に小晴を追い抜いて行った。
 小晴は一瞬で緊張した。見間違いようのない赤髪だった。メディア越しで見る如月夕は自分と関係のない興業芸術家であったが、直接見る如月夕は、小晴が知らない婚約者の側面を完全に把握する一方、小晴にとっては詳細が不明な、得体の知れない人間だった。
 その動揺で歩行の拍子が乱れ、履きなれない踵の靴であったから足が止まった小晴の腕に、如月が手を引く青年の体が接触した。青年は骨張った細身の体で、小晴の大学には珍しくない男子学生の体型だった。青年は横顔だけ振り向いたが、立ち止まることなく「御免なさい」という謝罪も言い切らない内に去って行った。
 青年はカードケースを落として行った。小晴が拾って前を見た時には、その青年も、目立つ赤髪も視界から消えていた。
 青年が落としたカードケースには二枚のカードがあり、鉄道会社が発行した電子決済可能乗車券カードと、見慣れた意匠の学生証カードが入っていた。そこには「大学院修士課程情報理工学系研究科数理情報学専攻高野蒼良」と記載されていた。
 小晴はそれを拾うことにした。同じ大学の人間の個人情報を、人通りの多い街中に放置しておくことが躊躇われた。届ける宛はなかったが、届けられるはずであった。
 彼女は歩きながら如月に連絡を送った。そして少し待つことにした。高野が鉄道に乗れない方に賭けて、気づいて返信を寄越すことを期待したのだった。そして小晴自身が何時の電車に乗れば予定に間に合うかを確認し始めた。そして確実に間に合う乗車時刻と、辛うじて間に合う時刻を端末で調べ終えた後、如月から連絡が届いた。
『私が連れていた学生です
 この後の予定は?
 回収させてあげたいですが、二人とも渋谷を離れてしまいました』
『そうですか……
 私は恵比寿に予定があります』
『都合がいいです。彼が恵比寿に歩いて向かっています』
『本当ですか』
『恵比寿のどこかに置いて去ってもらいたいです。彼を追いかける人間に、あなたが接触するのを見られるのは良くない』
『置くってどちらにですか?』
『あまり目立たず、知っている人はすぐに拾える場所がいいです。拾得物として移動されない内に回収されるのがいい。彼は徒歩なので、あなたの目的地の近くでいいでしょう。自販機の下でもゴミ箱の横でも。置いた場所の写真だけください』
『分かりました
その………気をつけてください』
『ありがとうございます。あなたの方も。善は急げです』
 如月の状況は分からなかったが、立ち入らない方がいいことは確かであった。
 重藤は高野蒼良の学生証を腹部のポケットに収めて移動を始めた。