不戦の王 23 武士道

<目次>
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源義家は、火に逃げまどう脚の短い農耕馬を一頭捕まえると、それでも徒歩よりはましと安倍の馬群を追った。
いつも前線には清原軍三万がいる。恥ずかしながら、このたびの合戦で未だに安倍軍と直接対峙していない。だから、戦う相手の実体を、その目でいちど、しかと焼きつけておきたかったのである。

安倍軍は衣川柵を余裕たっぷりに脱出していた。
大陸渡りの血を引く大型馬に跨り、日の丸の幟をなびかせ、青々とした北上川に沿って去って行く。その数、万余。まったくあわてていない。ゆうゆうたる行軍だった。
その、およそ退却軍とは思えない行軍ぶりに、義家は黄海の戦いで見せた安倍の強さ、とくに騎馬軍団の疾風怒涛の脅威、それを思い出した。
しかし。
これまでのところ、安倍軍はあのときの強さをまったく源氏に、清原に向けてこなかった。ただ戦場から去って行くばかり。蝦夷自慢の駿馬たちは、安全な退却のためにのみ用いられていた。
(もしや、かの坂上田村麻呂も手こずったという蝦夷のゲリラ戦とは、こういうことか。戦ってほしいときには戦わず、戦ってほしくないときに不意に襲いかかる)
義家は安倍軍を追走しながら、あらためてこの戦の困難さを思った。

安倍軍が、単騎追ってくる義家の存在に気づいていないはずはなかった。が、誰一人立ち止まることもなく、ゆっくりとした歩調を速めることもなく、北へ向かって進軍を続けていた。
「返せっ。返せいっ」
義家が、農耕馬ではもはや追いつけぬ、と悔しい叫び声をあげたそのときだった。安倍の馬群から、一騎、真っ黒い駒に白い衣装の、鎧も兜もつけない、ただ腰に一刀を帯びただけの人物が悠然と逆行してきた。
安倍軍はそのときになって初めて全軍脚を止め、義家の方に馬首を廻らせた。
義家も追う脚を弱めた。黒い駒の人物もゆるゆると近づいてくる。両馬の距離がしだいに縮まり、100メートルが50メートル、それが30メートル、そして20メートル、とうとう、ほんの十歩ほどの距離になった。
安倍軍の最前列には、朱の衣をたなびかせた騎馬軍団がいつのまにか出ていた。手には弩。事があれば、すぐさま義家を討ち果たす構え。あの黄海で源氏軍を翻弄した騎馬軍団だと義家にはわかった。
しかし、目の前の黒い駒に跨った人物は、おっとりとした頬に気品さえ立ち昇らせて、まったく敵意を表していなかった。義家は言った。
「もしや、安倍の盟主、貞任殿であられるか」
「その兜は源義家殿とお見受けいたした。安倍厨川次郎貞任にござりまする」
「おお。黄海の戦ぶりは見事でござった。また、あのような戦いのおさめ方。誰ばれにできることではござらぬ。心より感服いたしたしだいでござる」
「なんの。それより義家殿のあの武者ぶり。まるで、ただお一人で安倍全軍と戦われておられた。敵ながら天晴れなのはそこもとの方でござらぬか」
後世、一軍を代表する武将が陣頭に立って名乗りをあげるとき、源氏の場合、「やあやあ我こそは、前九年の役ではどうであった誰がしの何々、後三年の役ではどうであった誰々の子孫で…」と、自家の祖先に遡り、その功名をとうとうと並べ立てる風習ができるのだが、この頃にはまだそれがない。
義家は、戦場にあって鎧一つつけていない貞任の無防備さに半ば戦意を抜かれかかり、また、わざわざ引き返してきた貞任の真意をもはかりかねていた。それを察して貞任が言った。
「ご存じでありましょう。陸奥の冬はちと早うござりまする。まして、これより北へ行かばなおのこと。お望みなら、源氏軍を津軽まで、いや渡島の果てまでご案内いたそうか。もしお望みならばでござるが」
遠征軍の足元を見透かしたような言葉、といえば言葉だった。
(安倍は逃げながら、我らを北へ北へと誘い込む、そうして冬を待つ。冬を望むなら、冬のさなかに連れて行こうか。そう言うておる)
口調はおっとりとしているが、かわれているような気もした。義家はいかつい顎を噛みしめ、返す言葉を探した。
貞任はあいかわらず穏やかにほほ笑んでいる。人に嫌味を言うような性根にはとても見えない。
義家はようやく返すべき言葉を探り当てた。
それ以降のやりとりが、源氏の威にふさわしいエピソードを集めた『源威集』に遺されている。
義家は言った。
「ころものたては ほころびにけりいっ」
衣の楯、つまり衣の館(たて)、安倍の聖地である衣川柵はもはや焼失したのだ。強がりを言っても始まらぬぞ、そう義家は反論したのだった。
すると、貞任はそれを即座に前句づけして、なんなく返してみせた。
「としをへし いとのみだれの くるしさに」
合わせると、こういうことになる。

「年を経し 糸の乱れの苦しさに 衣の楯はほころびにけり」

別に義家の言を否定するでもなく、おっしゃるとおり、年功を重ねた衣川の館も陥落してしまいました。そう認めつつ、「糸の乱れの苦しさに」と、敗軍の将の心中を見事に吐露してみせた。
義家はうなった。
黄海では、「戦場を命がけで走る武士なるがゆえにわかることがある…」と、容易に止めを刺せた命を助けられた。貞任としてはもちろん戦略的判断に基づく行為だったのだが、義家はその半面の意味だけ理解し、貞任に敬意を払ってきた。
そしていま立場は逆転し、貞任は父頼時の館を失って北へ逃れている。そのさなかの、このゆとり。倭人の朝廷に攻められる宿運を掌にのせているかのようなほほ笑み。戦場にあるのに、まるで生死さえも超えているかのようではないか!
(なんという…)
義家は腹の底から感じ入った。
しかし。
翻ってみれば、「にもかかわらず…」である。朝廷軍はこの人物を、そして安倍一族をいま滅ぼそうとしている。それでよいのか。そうするには、あまりに惜しい人物ではないか。そういう気がした。安倍厨川次郎貞任とは、軽々とその命に手をかけられるべき仁では断じてないのではないか?
義家は貞任の目を正面から凝視すると衷心から言った。
同じく『源威集』より。
「汝、降せば、我が朝に奏上し、以って命を継がしめん」
降伏したら、朝廷に申し出て、命を助けるようにはからいますよ。そう言ったのである。すると、貞任がまたまた義家を感嘆させる一言を静かに吐いた。
「命は天にあり。義は前にあり。なんぞ降を乞うや」
私たちは、私的な利害にとらわれない、人間の行うべき道と向き合って生きているのである。命運というものは、あくまでその結果なのである。どうして命惜しさに降伏などできましょうか。
意訳すれば、そういうことになる。
貞任はその一言を最後に背を向けた。
安倍軍、再び北へ。

それにしても、貞任の最初の言葉は何を意味していたのだろうか。冬になる前に早く攻めよ。裏を返せば、そう言っているとしか聞こえない。
短期決戦こそ朝廷軍の取るべき道。しかも、それが安倍軍にとっても、最も国土を荒廃させず、人民をも苦しませずに破れることのできる道。戦が来年まで長引いたり、安倍の抵抗に対してさらなる戦力投下があったら、それこそ陸奥は荒土と化す。安倍がどんなに負けない戦を続けても、しょせんは一種族。多勢に無勢。最後には総がかりで攻めてくる倭人が勝ちを取る。だから、
「同じ勝つならあっさりと勝ってくれ」
それが双方のためだ。その念押しを義家に対してもした。そういうことかもしれない。
だが。
そのことは、義家にもよくわかっていたのではなかろうか。わざわざ引き返して念押しするほどのことだったのだろうか。
ならば。
貞任が引き返してきた真意は別なところにある、むしろそう考えた方がよい。
貞任はただ、源義家という人物にいまいちど会って、そうしてから北へ去りたかったのではなかろうか。
そういう気がしないでもない。
おそらく、この邂逅が最後になる。それが貞任にはわかっている。ゆえに、あの黄海の戦で敢然と死を跨いで勇武を見せた敵将、その潔い人格との最後の別れをしておきたい。
そう思って引き返して来たのではないだろうか。
こう言うと、センチメンタルな印象を持たれるかもしれない。
が、抒情的な解釈をしようとしているのではない。
それぞれに宿運を背負って、その中で精一杯に生きている魂として認め合う。互いの存在に対する共感。それは、言い換えれば、この生にしがみつかず、かといって微塵もこの生を無駄にせず生き抜こうとする、そういう覚悟のある勇者にのみ共有できる敬意とも言える。
貞任としては、その敬意で、いまいちど義家を照ら出してみたかったのではあるまいか。

義家も貞任に討ちかかることなど微塵も考えず、去り行く貞任の後ろ姿にいつまでも頭を垂れていた。
敵と味方であること。
殺し、殺されるということ。
そういう抜きがたい因縁に連座しているとしても、そのことを超えて大切にすべき徳目が武士にはある。
後に武士道の背骨となる清心が、このとき、戦場という修羅場において二人の間で炙り出された。
そう言ってもよいのだろう。