不戦の王 15 式神(しきがみ)

<目次>
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高階経重が貞任にいいようにあしらわれていたころ、陰陽師八身はいっとき遠く播磨にあった。
播磨は、宮廷陰陽師から排斥された民間陰陽師集団の聖地である。
なぜ播磨がそうなったのか。
理由がある。
それは播磨が、あの天才陰陽師、安倍晴明の最強のライバルといわれた蘆屋道満の出生地でもあり、流刑された地でもあるからだった。
道満はこの地でおのれの血と秘術を残して一生を終わった。
道満はかつて、時の権力者藤原道長の政敵から道長を呪殺する依頼をうけた。道長のお抱え陰陽師は、くり返すまでもなく安倍晴明。晴明は道満の仕掛けた呪術を看破し(看破したことになっている)、その結果道満は生地播磨へ流刑の身となった。
こう言うと、道満。
陰陽師としてはけっきょく晴明以下だったのではないか、そういうことになるが、現実には天才晴明が、あるいは晴明の師にあたる賀茂氏が、天皇や高級官僚から受けている尊崇を危ぶむほどの巨星だったのであり、そのための追放劇だった。そういう解釈をすることも可能なのである。
歴史を物語る多くの書物は、権力の側に立って書かれるのが世のならい。『今昔物語』、『宇治拾遺物語』などにおいても、宮廷陰陽師として宗家の保証を得ている安倍、賀茂両氏に不都合なストーリーが盛り込まれるわけがなかった。蘆屋道満はいつも徹底して悪役、敵役。道長呪殺未遂事件の背景には、じつは宮廷陰陽師としての既得権益の保持という、今も昔も変わらない現実が横たわっていたものと思われる。

さて、そういう播磨である。
八身が訪れた1062年は、晴明の死後すでに五十七年。道満の没年記録は残っていないが、もちろん道満もこの世にはいない。
四月の半ばである。
淡い遅桜がぼんぼりを燈したように新緑の山々を彩る頃、八身は道満の出生地とされる印南の村を訪れた。十歳ぐらいの童子を一人連れている。
「介山法師はいずれにあられましょうや」
野良仕事をする村人にそう尋ね歩き、八身は、森に抱きすくめられたような、村はずれの草庵にようやくたどり着いた。
草庵に人の気配はない。
が、八身には、人がいて気配を消しているのと、ほんとうに不在なのとの違いがわかる。
(気の消された跡が見えている…)
跡とは、いわば熱である。獣が数分前に通り過ぎても、その跡はかすかなエネルギーとして空気中に漂っている。それが八身には感得できるのだった。
「お頼み申します」
八身は草庵の前で片膝をつき、声をかけた。もちろん返事はない。なくても、八身の接近を感知して、おのれの形づくる波動性のエネルギーを疎にした介山法師の存在が、かすかながら感じられる。
八身は確信に満ち、重ねて声をかける。
「お頼み申します」
突然、八身の眉間に当たる空気がずしりと重くなった。
(姿を見せる)
そう思ったか思わないかの瞬間、庵の板戸が引き開けられた。開けられたとたん、そこから直視できないほどの光があふれ出た。そのように八身には感じられた。
「よくぞ拙僧の存在を感得なされた。生半(なまなか)の修行ではありませぬな。そのようなお方を相手に無駄な時は費やせませぬ。さて、何用で来られた。どこのどなたであられるな」
介山法師はそう言って、八身の後ろ、10メートルほどのところで地面に座っている童子を同時に視界に入れた。その目にはなんの変化も表さない。介山法師は即座に袖の中におさめた手を組み、瞬間的に口の中で呪を唱えた。そのとたん、童子の姿が見えない刷毛で掃かれたようにかき消えた。
八身はそうとは気づかず、介山に応えた。
「私は陸奥の国の奥六郡を治める蝦夷、安倍貞任の血につながる者にござります。いまは八身と称しております」
「おお。あの源氏を、そしてその前には誰であったか、藤原の…」
「登任(のりとう)」
「登任。そう、登任をも含めれば、十五年もの長きにわたって朝廷に屈することのなかった奥州の王、安倍族のお方であられるのか」
介山は木彫りの仏像が風雪にさらされて、その凹凸を半ば失ったかのような顔立ちに精一杯の喜びを表した。
「ご存じであろうがな、播磨の陰陽師は朝権にこびる輩が嫌いなのじゃ。逆に、朝廷にまつろわぬ者には、並々ならぬ親しみを覚えるのじゃよ。して、その安倍のお方がどのようなご用向きで? 陸奥から日を重ねておい出たからには、相応の用件でありましょうな」
介山法師は、剃髪にした様子は窺えなくはないが、いまはごま塩の髪が1センチほど伸び、別に法衣を着ているでもない。年齢不詳だが、おそらくは六十を超えていながら、その半分ほどの歳にしか見えない、そういうことではあるまいか。そこらの貧農と同じく、いつ洗ったのかもわからない膝までの単物を重ね着しているだけだった。
しかし介山。
その身なりのみすぼらしさなど微塵も感じさせない。それどころか、糸ほどの細い眼光からは、四周のどんな微細な生きものをも畏まらせる威が溢れていた。さすがに闇の陰陽師集団の総帥である。
八身は地面にあぐらに座り直し、斜めに切れ上がった目に、清水にきらめいているような光をたたえ、もの静かに切り出した。
「私は盲目で生まれ、幼きころ宮廷陰陽道の宗家、安倍に預けられました。そこでありがたくも視力を得、その後十数年にわたって陰陽道を学ぶ幸運を得ました。しかしながら、蝦夷の血でありましょうか、長ずるにおよび、そのまま朝廷の蔵人所で陰陽師という名の役人になることにはどうしてもなじめませず、ついには恩ある家を出て、その後は武によって身をたてながら諸国を廻ったしだいにござりまする。そして近年、父頼時が斃れ、貞任の代になったのを契機に生国に帰り、いまは一族のために陰ながら力を尽くそうとしておりますしだい…」
「それで解せましたぞ。その油断なき身ごなし。そして何よりその眼からあふれる智の深さ。自然智(じねんち)を備えておられる。それをそなたが備えておられることは、草庵の中からも明々とわかっており申した。安倍からは、さぞ惜しまれて家を出られたことでありましょう」
「おそれいります。しかし、お言葉を返すようではござりまするが、かく言う私がたしかに安倍の者であると、どうしてお信じになられました」
「ははは。後ろを見られよ」
八身はそのとたん、言われた意味を悟った。が、いちおうは振り返った。やはり童子はいなかった。
「いつの間に隠されました」
「それはよかろう。それより、そなたの魂魄を分身させた式神が、そなたの言うことすべてが真実であると、先ほどからわが胸に伝えておるわな」
「では、わが式神はいま介山法師の懐に…」
「さよう」
介山、こんどはゆっくりと掌訣を結び、秘呪を唱えた。すると、介山の懐から童子が飛び出し、するすると元いた場所に戻った。
「他者の式神をも自在に生滅させる。それはまぎれもなく、安倍晴明にしかできなかったという式神の隠形術…」
「違うな。できたのは晴明だけではない。これはかの道満の隠形術でござる。それを後世の者が、あたかも晴明だけがなした業のように喧伝しておる。道満こそ隠形術の達意のお方であられたのでござるよ」
「これは、まことに失礼をいたしました。どうかお赦しくださいますように。では、その道満の掌訣と秘呪が、いま介山法師によって守られておるということでござりまするな。すでに安倍では陰陽道が形骸化し、誰も式神の使役ができぬやに聞いておりますに」
「播磨で式神の使役ができるのはわしだけではないぞよ。白紗坊も犀ノ坊もなんなくやってみせる。ほかにも二人おるわ」
「なんと。それが真なら、播磨にこそ陰陽道の本来の姿が息づいておるということになり申すが…」
八身はそこで、はたと介山を睨んだ。
「もしや、そのお姿、介山法師その人ではあられませぬな。ご自身は未だ草庵におられるのではありますまいな」
「さすがは八身殿。そういうことじゃ。これは我が魂魄の幻影。現(うつ)し身は、ホレ…」
再び草庵の板戸が開いた。そして同じ格好をした介山法師が現れ、それが目の前の介山法師と重なり合った。八身は、思わずひれ伏した。