不戦の王 7 発端

<目次>
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前九年の役。
事の起こりは、姑息な欲から始まっている。
舞台は五年前、1051年。主役は時の陸奥守、藤原登任(のりとう)。
先に紹介した源氏礼賛の書、逆に言えば蝦夷を悪党、逆賊にみたてた『陸奥話記』によれば、郡司に任命している貞任の父、頼良(のち頼時と改名)が
「だんだんいい気になってきて、その増長ぶりはもはや捨てておけぬほど」と記されている。どう増長しているのかというと、
①郡司として委ねられた北上川沿いの奥六郡の外にまで影響力を発揮している。
②貢賦(税金)を納めなくなった。
③労役(労働奉仕)も果たさない。
などなど。
「それゆえに征伐いたしますから、どうぞご容認を」
と登任が京に訴え出たことになっている。
もし指摘の点が事実であれば懲らしめるに値するのだろうが、今日、歴史家でその記述を鵜呑みにしている人は少ない。
登任、じつは陸奥守の任期切れを間近にして、蓄財がまだ充分にできていないことで焦っていたのではないか、というのがもっぱらの見方だ。
「なんとか、これまでの陸奥守のように財を成して京に帰りたいものじゃ」
財とは、黄金であり鉄であり駿馬であり、熊や鹿などの皮革であり、横領した穀物であり、そのほか鷹、昆布、薬草など、京の上司たちに貢げば、猟官に効果てきめんの産品である。歴代の国司たちは、京の屋敷にそれらを貯える蔵を新造するほど、任官中に必死で陸奥から荷を運んだ。
運び役はもちろん蝦夷。運ばせている品も、もちろん蝦夷に政治的圧力かけてせしめた賄賂である。利権を握るワルのやることは、千年の昔から変わっていない。
そんなわけで。
武官貴族から任命される陸奥守というポジションは、蓄財をしたい者にとって垂涎の的だった。なのに、せっかくそこに座りながら登任は、その実をあまりあげていなかった。なぜなら、蝦夷の諸部族は安倍頼良が自分たちの庇護役に収まって以来、陸奥守をさほど気にする必要がなくなり、必然的に賄賂を持っていく必要もなかったからだった。
「にっくき頼良め!」
欲の皮の突っ張った登任、かくなる上は、イチャモンをつけて戦をしかければ、「そればっかりはご勘弁を」と、相応のみかえりを期待できるのではないか。そう考えた。
しかし。
いざ戦争を始める段になると、急に腰が退けてきた。
「確実に勝てるのかどうか…」
まったく自信がない。そこで隣の出羽国守、平重成と欲の皮連合を結成した。
そうやって1051年、前九年の役といわれる戦の火蓋を切るのだが、安倍頼良は知力に優れ、かつ勇武の人でもあった。挙兵の動きをいち早く察知するや、
「他の蝦夷に、我ら蝦夷の戦の手本を示してみしょうぞ」
と、陸奥の兵と出羽の兵が合体するその前に、それぞれをいとも簡単に個別撃破してしまったのである。
ただ、撃破といっても、そこは「手本を示す」とまで言った安倍だから、流血は可能なかぎり避ける。つまり接近戦には持ち込まない。夜襲で馬を奪い武器を奪い、丸裸にしてから火攻め、あるいは遠矢で攻める。
朝廷側の兵士は、もともと何のための、誰のための戦か承知しているから、端からはなはだ士気が低い。誰が他人の懐を肥やすために自分の命を投げ出すだろうか。だから、安倍軍を見たらさっさと逃げた。
欲の皮連合、ろくに戦もできずに敗退。
これを鬼切部(おにきるべ)の戦という。場所は、いまの宮城県鳴子温泉の近く、鬼首(おにこうべ)の山峡。出羽と陸奥とを結ぶ街道の要衝だった。

敗戦の報に接して驚いたのは関白藤原頼通以下、京の高級官僚たち。
朝廷軍が負けたまま陸奥を放置できない。さっそく、もっと強い者はおらぬかと探した。
そして。
白羽の矢を立てられたのが源頼義である。
源氏は、頼義の父頼信が二十年前に「平忠常の乱」を鎮めて以来、板東武士の信望が篤かった。頼義が相模の国司として赴任したときには、幼稚園の駆けっこにウサイン・ボルトが出たような驚天動地の大騒ぎになったらしい。
「それほどの頼義なら、板東の弓馬の士を糾合し、必ずや蝦夷を征伐できよう。頼義こそ救国の士よ!」
そういうことになった。
ただし、それはあくまでも表向きの世辞で、腹の底では
「血を流し合うような下賎の事は、源氏や平家の粗野な輩に似合いでござるよ」
と舌を出している。当時の貴族と武士の上下関係とは、しょせんそんなものだった。
が、源頼義にすれば、陸奥守とは一躍金持ちになれる大チャンス。おまけに、源氏の勢力を東北に伸ばす足がかりも築ける。大喜びで着任した。
ところが。
着任早々、頼義の出鼻をくじく政治が京で行われた。
前の関白藤原道長の娘、上東門院彰子(しょうこ)が病に倒れたので、その平癒祈願と称して現関白の頼道が大赦を発したのである。その結果、朝廷に抗った安倍頼良までもがお咎めなしとなってしまった。
意気込んでいた源頼義、から足を踏んでつんのめった。

この大赦の発令には、じつは一つの解釈ができる。
それは、源氏の伸長を恐れる藤原の権謀術数ではないかという解釈だ。
つまり、安倍は坂東武者の信望篤い源氏が国司になるというだけで、おとなしくなるはずだ。ならば、わざわざ戦を仕掛け、源氏に手柄を立てさせる必要はない。ここは一つ上東門院の病にかこつけて大赦を発し、「安倍は赦された。もはや征伐無用」ということにしてしまおう。そうすれば源氏を勢いづかせる機会をつぶせるし、なおかつ辺境の地、陸奥に追いやることができる…。
「一石二鳥とはこのことよ」
関白頼通のドヤ顔が見えるような策だった。
案の定。
頼義が来てから安倍頼良は、あっさり恭順の姿勢をとった。
まず、名前が同じ読みとなる「ヨリヨシ」では失礼だからと、「頼時」に改めた。そして陸奥守のメリット、蓄財に積極的に協力し、おとなしく京に帰ってくれる日を待ったのである。
ところが、頼義はおもしろくない。蓄財の方はよいとしても、ただ鎮座しているだけの無為の歳月が過ぎてゆく。このまま五年の任期を終えては、陸奥での橋頭堡づくりを期待している源氏一門に対して面目が立たない。
「それにあの黄金…」安倍貞任の顔を思い出すたびに過る、胸をかきむしられるほどの疑念。「隠し金山がどこぞに必ずある…陸奥には金がまだまだ眠っておるはずじゃ!」
鉱山で財を成した源氏の血が、北上山地の黄金を前にしておとなしく眠っているはずがなかった。
そこで、着任から二年たった1053年。
やったことの第一が、関白頼通に頼み込んで鎮守府将軍にしてもらうということだった。
鎮守府将軍というのは、陸奥守というのが行政職の県知事だとすれば、いわば県警本部長兼自衛隊東北方面隊の総司令官のようなもの。もともとは陸奥守の管理下にあったが、この時代には対等な存在に格上げされ、陸奥国をダブル支配していた。
だからこそ、もし好き勝手な戦を起こそうとする気なら、是が非でも兼任しておきたいポジションなのだった。
そして、第二にやったこと。
それが先代の陸奥守、藤原登任がやったのと同じように、安倍にイチャモンをつけることだった。
そのイチャモンというのが、毛無の乙比古も噂で聞いたという、
「安倍の貞任が頼義の家来の娘を権妻にと願い出たが、家柄が賎しいと断られ、その腹いせに夜襲をかけた」
というもの。
頼義は貞任を処刑しようと身柄の引渡しを要求するが、貞任は次期安部一族の継承者である。渡せるはずがない。もちろん、それは承知での無理難題。戦端を開ける口実さえできればよかったのだった。
安倍頼時、頼義のその腹を見すかしたうえで覚悟を決めた。
「安倍がここまで強うなければ討とうとはせなんだであろうが…」
いたしかたない。どうしても安倍の力を殺ぎたいのじゃな。
頼時は一族の頭を集め、結束を促し、奥六郡に至る南の最重要拠点、衣川の関を閉じた。徹底抗戦の決意だった。
このイチャモン開戦の許可を関白からとる背景には、「蝦夷の山を支配したあかつきには、その黄金を仰せのとおりに献上いたします」という黙契が当然あったにちがいない。

こうして1053年。
前九年の役、第二ステージ。源氏対安倍の戦端が開かれた。
しかし安倍はやはり強かった。
いや、強いというより、とにかく負けない。弾力のある壁のように、攻めても退いてもつねに同じ高さで、同じ距離でそびえ立っている。
源氏としては、完全に横綱相撲を取られてしまったような感じになった。
かくして板東の雄であるはずの源頼義は、いっこうに戦果をあげられないまま月日を重ね、他方藤原頼通は約束の黄金がもたらされないことは不本意だったが、かわりに人気者源氏の評判が落ちたので、まあ一勝一敗というところだっただろうか。
そうこうしているうちに、ついに頼義は任期切れの1056年を迎えてしまった。
「大そうな口をききおったが、源頼義、存外に弱い」
いや、強い源氏に安倍が決して負けないというべきなのか。
どっちであれ、重任を言いつのれるほどの功績もないし、頼通としても交替させざるをえない。朝議で新任の陸奥守を決めた。

ところが。
ここで信じられないことが起こった。
新陸奥守藤原某は、一度はその任を受けておきながら、赴任途中、現福島県の白河の関まで来たとき、「また新たな安倍との合戦が始まった模様」との報を受けると、驚くことにさっさと京へ引っ返してしまった。
「戦は向いておりませぬので」
というのが、その理由。
「自分は平時の長でありますゆえ」
はっきり言えば、殺されたくない、ということなのだった。
結果、他に適任者が見当たらず頼義再任。
しかし、昇進と蓄財チャンスを前にして、あまりにも現実性のない辞任と言わざるをえなかった。
もちろん、あの源氏でさえ勝てないほどの安倍が相手となると、誰もがビビルだろうとは思う。が、このあたりのこと、もしかしたら、源頼義の武力を手足に使って蝦夷の黄金を独占しようとする関白頼通の筋書きどおりの辞退、そして再任劇ではなかったか?
そういう気がしないでもない。

とにかく。
いよいよこの物語の始まり、1057年となった。
頼義はこの五年で、強大な安倍の力にまともにぶち当たっては埒があかないことがよくわかっていた。そこで、もっぱら蝦夷の内部分裂を誘発する作戦に注力し始めた。それは、かつて坂上田村麻呂がアテルイに対してとって成功した作戦の模倣だった。

そんななかのこと。
北部の蝦夷に安倍富忠という者がおり、それが源氏の甘言にのって寝返り、背後を衝くおそれがあるという極秘情報が安倍頼時に告げられた。そこで、頼時は自らわずかな兵だけを連れて説得に出かけて行った。
それは簡単な説得のはずだった。
なぜなら、武勇の誉れ高い源氏でも歯のたたない自分に対して、まさか弓を引く者があろうはずがなかったから。皆、勝ち馬に乗るのは当然だ。そう思った。しかも、血のつながった安倍の者なのだ。
しかし。
同族への信頼、あるいは自分のパワーに対する絶対の自信が油断となった。代々の味方のはずの富忠から信じがたい奇襲、待ち伏せに遭ってしまったのだった。
しかも、安倍一族ではご法度の毒矢を射かけられた。
安倍は狩りにも毒矢を用いることを禁じている。
「万有に礼を尽くせ」という安倍固有の倫理観からだが、その毒矢が、こともあろうに尊敬を一身に集める長の胸を射抜いたのだった。
頼時はそれでも二日間もちこたえ、三男の鳥海三郎宗任の柵まで逃がれた。
だが、そこが葬場となった。
藤原登任の仕掛けた欲の皮合戦から数えて六年。享年六十一歳の最期だった。