不戦の王 3 二百五十年前の英雄

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そんなわけだから、そもそも山や川や木や石にまで畏怖すべき霊的存在を認める毛無一族が、殺生崖の出来事をこの世に念を残す怨霊のパフォーマンスと確信していても、なんら不思議ではない。
おまけに、彼らにとって殺生崖の怨霊は、桓武天皇を逃げ回らせた怨霊以上に、確かなリアリティを持って、目に見えてそこにいるのである。
来て早々、村人からこの話を聞いた僧形の男は、深くうなずくとあっさり言ってのけた。
「やがて時が来ましたら、その怨霊を鎮めてみせましょう」
そして、二ヵ月後、その日がなぜ怨霊の調伏にふさわしい日なのか、毛無の人々にはわかりようがなかったが、男が突然、
「ついに約束を果たすべき時がまいりました。いざ殺生崖へ」
そう言った。
男は僧衣を脱ぎ、立烏帽子を取り、毛無の人々の好奇の視線の中で裸身となった。やはり「滝口では?」との憶測を裏づけるかのような筋骨をしていた。毛無の男たちも立派な筋骨と色の白さでは決して負けていなかったが、その無毛ぶりには男も女も憧れの眼差しを隠せなかった。
なぜなら、毛無という蝦夷の間での呼称は、この一族があまりに毛深いからこそ揶揄してつけられたものであって、なかには全身が猪のような剛毛に覆われている者まであった。
毛がない、という一事で、調伏に向かう男の神秘性はなおいっそう深まった。朱鳥も二尾も、乙比古の後ろから一心にその裸身を見つめた。
男は新緑の始まったばかりの五月の沢に下りると、光に水滴をほとばしらせながら身を清め、終わると黒布をまとった。黒は蝦夷の聖色である。そして、栃の大樹への道を毛無の五百人すべてを従えて歩き、殺生崖に着くと黒布の中で印を結び、何事か呪(じゅ)を唱え始めた。毛無の人々は物陰に身を潜めるようにして成り行きを見守った。誰一人言葉を発しない、いや発することができないほどに、その場の空気が透徹していた。
しばらくすると…。
突然、栃の枝に、頭には丸鍋を伏せたような鉄の兜をかぶり、腰には柄の模様がワラビに似た蕨手刀を帯びた白髪の戦士が仁王立ちになった。
初めて見る亡霊である。
皆、ぎょっとして目を凝らす。が、よく見ると、その顔は初めてではなかった。例の老婆が、きょうは戦仕立てでそこに現れたのだった。
男はまだ一心に呪を唱えている。
さらに時がたった。毛無の者が目を凝らすなか、老婆戦士の姿が一瞬、白金色に輝き、男の剃髪した頭頂部から中に入ったように見えた、そのとたん。
印を結ぶ男の全身の骨という骨が震え始めた。喉に巨大な塊でも引っかかったかのように上体を喘がせた。が、やがて、男は目に見えない生きものをどうにか呑み下したかのように静まった。
瞑目したまま、男が毛無の人々の方に向き直った。
白い頬に気品をたちのぼらせ、その額をゆっくりと右から左に振って毛無の人々を見渡した。閉じた瞼の奥に感じられる眼光が人々を射た。誰もが威に打たれたように首を垂れた。亡霊をその身に呑んだ男は、荘厳ともいえる口調で語り始めた。
「毛無の民よ。われは磐具母禮(いわいのもれ)である。二百五十年前、母禮の肉体を離れた霊である」
なんと、伝説的な蝦夷の英雄アテルイと共に、朝廷軍十万余をわずか数百の兵で何度も打ち破った副将のモレ、そう老婆は名乗った。
言われて毛無の人々は思わず顔を上げかかり、しかし畏れ多くて頭(こうべ)をあわてて垂れた。
「このたびの朝貢に白鷹、牡鹿の角、そして玻璃(琥珀のこと)を用意しようとしておること、つとに承知じゃ」
そのとおりだった。しかし、それはまだ首長以外には、誰一人知らないはずだった。首長は驚愕し、次の瞬間なおいっそう畏れ入って地面に額をこすりつけた。他の毛無の人々はそれを見て、モレの霊が隠された真実を言い当てたことを悟り、首長に倣ってひれ伏した。
「朝貢はもはや無用である。朝貢とは何のためであるのか。公民となった南の蝦夷は、賜姓されるを尊び、従五位下という位階を授けられ、おのれを失っておる。人は人に仕えるものではないこと、申すまでもない。朝貢の見返りに綿布や農具を下賜されることとて同様である。すべては支配を意図した賜餐である。ただ生まれ出たこの生を生きるのが蝦夷ではなかったか。その心、よもや忘れたわけではあるまい」
それは、男の声帯を使っているにもかかわらず、男性、女性を超えた声だった。肉声の持つ生々しさなどない。しいて言えば遠雷を聞いているような、天の一角から降り注いでくるような大音声だった。その声は続けた。
「朝権は富と権力でこの北の地をも汚そうとしておる。毛無の民よ、蝦夷とは何であったか、思い出すがよい。すべてのものは、天が下に等しく生まれ、等しく尊い。それが蝦夷ではなかったか。朝権のもたらす富と名誉に、決して迷ってはならぬ。朝権は人の世にいわれなき貴賎をつくり、富をその力により偏在させた。時来たらば南に行き、朝権を退けよ。安倍の蝦夷が、すでにその朝権との最後の戦いを始めておる。毛無の民は陸北の山河を走り、志ある蝦夷を束ねよ。そして安倍の蝦夷に応じ、南に向かって馬を走らせるのじゃ。安倍の蝦夷と共に戦え。朝権の悪から、末永く我ら蝦夷の心を守れい!」
再び、巨きな手で揺すられているような震えが僧形の男を襲った。震えが去ると男は崩れ落ち、肩で大きく息をし始めた。
毛無の人々は、たったいま精霊の預言者と化した男を驚きと尊敬の念を持って見守った。このように、精霊を宿し、預言をする者がいるという話は聞いたことがある。が、現実にそれを見たのは初めてだった。
男はやがてゆるゆると身を起こし、寝て起きたばかりの幼児のように、焦点を結べない目であたりを見回した。しばらくその肉体を離れていた魂が、ようやくその身に戻ってきたという様子だった。
毛無の人々もまた、腰がにわかには立たなかった。たったいま男に宿ったモレの霊魂が放った威は、それほどに圧倒的だった。その言葉もまた、容易に立ち上がれないほどの重さで毛無の人々にのしかかっていた。
毛無一族はしかし、これで二度と老婆の霊が現れないことを知った。