不戦の王 コラム「日の丸と日本は誰のものだったか」

<目次>
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日本という呼び名は、
畿内から起った朝権の国号ではなかった。
事実は、蝦夷(えみし)の国の俗称だった。

『新唐書』の「日本国伝」によると、七世紀頃まで、
日本列島は倭と称する西から南にかけての大国と、
日高見国(別称ひのもと。漢字表記で日本)と称する
東から北にかけての小国に分かれていたが、
倭が日高見国を併合したとき、
その別称を奪い、日本としたとある。
大国が小国の名前を奪ったのである。

理由は推察になるが、
聖徳太子が遣隋使に持たせた親書の中で、
自国を日出ずる国と言ったことにちなみ、
それにふさわしい国号として、
「ひのもと=日本」を頂戴したということは考えられる。

それともう一つ。
渡来人がこの列島の主権を握ったとき、
元々いた民族の誇りを大切にするのが得策と考えた、
という仮説も成り立つ。
つまり、ネイティブ民族の国名を冠する懐柔策をとれば、
併合され、倭の天皇を戴くことになっても
少しは抵抗を感じにくくなるだろう、
そう判断したのではないだろうか。

さて、その日高見国。
「そんな国があったの?」という声が聞こえてきそうだ。
が、『日本書紀』にも六世紀頃の東日本の状況として、
多民族国家、日高見国の存在が記述されており、
「是を総べて蝦夷と曰う」とある。
また、『常陸国風土記』にも、
常陸はそもそも日高見国だったと書かれている。
しかも、そこには「紅毛碧眼を始めとする多様な民族が
混在していた」とあるし、
室町末期に書かれた『人国記』にも
「陸奥には、元が日の本という国の民だからだろうか、
色白で眼が青い人が多い」という記述が見られる。
我々日本人というのは、古より黒髪で黄色い肌の
モンゴロイドだけだったと考えがちだが、
どうもそれは思い込みにすぎないようだ。

次に。
その日高見国のシンボル・マークが、じつは、
なんと「日の丸」だった知るとさらに驚かされる。
『清水寺縁起絵巻』に土佐光信(1434~1525)の
筆による証拠が残っている。
それは、かの征夷大将軍、
坂上田村麻呂と蝦夷の戦い(797年~801年)の場面で、
蝦夷の軍船の船腹が日の丸で彩られているのである。
船首にもでかでかと日の丸が一つある。
戦場での自分たちのビジュアル・シンボルとして、
蝦夷が日の丸を使っていたのである。

日の丸は太陽信仰に源を発していると言われるが、
色使いがまた心憎い。
白地は清廉、正義。赤は燃えるような真心。
そして円はそれらが完全なることを表し、
倭人がたてまえとして大切にしようとする
精神性と見事に合致していた。
そのため、たとえば那須与一の射た平家の扇にも
日の丸があったし、南北朝時代の後醍醐天皇も
日の丸を用いるなど、蝦夷の日の丸を
倭人たちは恥ずかしげもなく転用した。
戦国時代に入ると、
上杉謙信や伊達正宗をはじめ、石田光成、
藤堂高虎、佐竹義宣、榊原康政も日の丸をアレンジし、
あるいは色を変えて差別化しつつ、
それぞれ旗印に使っている。
また旗印ではないが、毛利元就も
金箔に真っ赤な日の丸を描いた扇を愛用していたというし、
さらに幕末には島津藩も軍船に日の丸を使った。

つまり日の丸は、誰が使ってよい、
そして誰もが使いたくなる、
それほど当を得た人気のシンボル・マークだったのである。

じつは、このスグレモノの日の丸、
江戸幕府も目をつけていた。
まず1637年、御用船の船印に使ったのを手始めに、
朝鮮使節を迎える際の幕府代表団にも日の丸を掲げさせた。
が、まだこの段階では
「日の丸は公のマークだ。民間で使ってはならない」
とは言っていない。
そうなったのは、幕末1854年、
頻繁にやって来る外国船との識別のため、
日の丸の幟を日本惣船印に制定したときのことで、
次いで1859年、日米修好通商条約調印の翌年には、
日の丸の旗が「御国惣印」と定められるに至った。

その後、日本が対外戦争に明け暮れし始める
明治、大正、昭和の世となると、
日の丸は日本国を表象する視覚的拠り所として、
否応なく全国民の心に浸透してゆくことになるのである。