父の遺した三十一文字 6
●戦後の動乱のなか、再び社会運動へ。喪った支えをそれは回復させたのか。
人にはそれぞれ持って生まれたDNA特性、いわば属性があります。
また、時代や民族、国や地域、家庭といった環境条件の違いも生まれながらにしてあります。
いまさらぼくがエジプト文明の時代に生まれるわけにはいきませんし、アインシュタインやタイガー・ウッズに生まれるわけにもいきません。
我々人間は、そういう生得の条件下で、どんなに怠け者であろうとも幸せになろうとして、大なり小なり、一時的にしろ永続的にしろ、何らかの自発的な現状改善努力を試みます。
その健気(けなげ)な自発性は、いったいどこから湧き上がってくるのでしょうか。
第一の理由としては、自分を他人と較べることが(すなわち競い合うことが)生きていくうえでの大前提だから、それゆえ、よりよい立場を得ようとして努力をする。それが考えられます。
が、けっしてそれだけではありません。人間は他人と較べる以前にその人なりの夢を持ち、それに向かって突き進んでいこうと試みます。易きを選択するのが生きもののつねであるにもかかわらず、です。
本来なら生得のDNA特性と環境条件のままに安住し、そこから這い上がろうともがかなくてもいいはずです。そう生まれてしまったのだから、そのままで生きる方が自然なはずですし、楽なことです。しかし、我々はなぜか夢を抱き、その夢と現状とのギャップを埋めようと、自分を変える努力を試みます。
こういう自己実現欲求、言い換えれば生得の条件からジャンプしようとする意欲とは、いったいどこから生ずるものなのでしょうか。
その出所もまた、生得の条件以外には考えられません。
さらに言えば、人生が思いどおりに運ばないのも、残念ながらそういう生得の条件の必然的帰結にほかならないのでしょうし、また、そこからなんとか立ち直ることができるエネルギーの出所についても、生得の条件以外には考えられません。
そして、です。加えて、こういうことも言えるのではないでしょうか。
生死が偶然ではないことを何度か書いてきましたが、
「もしそうであるならば…」
です。どんなDNA特性と環境条件で生まれてくるかは生前に決まっている、そういうことにはならないでしょうか。
つまり。
生得の条件の決定には、ほかならぬ自分自身が関与しているということになるのではないかと。だから、その人生に全責任を負っているのは、親でも社会でもなく、当人であるということになりはしないかと。
非常に大胆なことを申し上げています。
大胆ついでに、もう一つ。
これは浪漫的な推論ですが、我々が巨細にかかわらず自己改善意欲を持つのは、①夢とは隔たったこの不本意な生得の条件も、②なかなか思いどおりにならない人生も、そのタネを蒔いたのはほかならぬ自分であることを、じつは意識下で知っているからではないのかとも思うのです。
ですから、人生とは生前に蒔いたタネを育て収穫する、あるいは途中で弱らせ、時として枯らたりしてしまう、そういうプロセスのように思えてしかたありません。
ま、この種のこと、賛否はどちらでもよいことです。
これは人生の神秘に属することがらで、この世のことが何もかも数値化され、目視できるようになる必要はないでしょう。人類の脳みそなど、たかが知れています。神秘は神秘のままに、そっとしておきたいと思います。
★
さて、父の「いまここにある人生」に戻ります。
文字どおり灰燼に帰した人生に直面し、父の場合、生得の条件のなかから引きずり出した結論は何だったでしょうか。
それは、
「再び社会的弱者の助けになる運動の担い手となり、それを生きる張り合いとしよう」
という決意でした。
深刻な無常観に囚われたのなら、いかにもそういう人らしく、ひっそりと息をひそめて、他人様のほつれた人生に関わる生業を続けていればよかろうというものです。おまけに国や県の公的な職務を十いくつも引き受けていました。だから、日常的には時間がいくらあっても足りないほど多忙だったずです。しかし、
「それでもまだ心の虚を埋めることができない」
というのが髙橋武夫の髙橋武夫らしい特質なのだと思います。
ご記憶でしょうか。
父はそもそも弁護士という仕事から心の充足を得ることができない、そういう人であることを既述しました。40、41ページでご紹介した二首がそのあたりの気持を歌ったものですが、被爆後にも父は、同種の真情を次のように表現しています。
吾とわが なすこの業にともすれば 価値を認めぬ自意識に生く
苦しみて あえぐ我のよすぎおば けふも終わりぬ亡き子ゆるせよ
感情に流れすぎているとお考えになる方もありましょうが、父の場合は「わしなんか駄目じゃ」と、このまま疎開先の山中で朽ち果ててしまいたいと感じたことも一度や二度ではなかっただろうと想像します。
平和への いけにえなりと人の説く されども消えぬこの哀しみや
また。
これも社会運動に足を踏み入れたときに解説させていただいたことですが、髙橋武夫という人は、一方ではおのれを律する強い意思の力を持ちながらも、他方、非常に情緒的な人だったことを強調せざるを得ません。
感情人間なのです。
理性より情動が生き方を左右する、そのような特性のある人が髙橋武夫なのです。だからこそ、よけい意志の力でおのれをコントロールする必要があったのでしょうが、戦争で何もかもを失ったショックは、感情の海に漂う時間をさらに多くしたにちがいないと察します。
うつし世の 生きのよすぎの険しければ 死にしひとは幸(さち)とぞおもふ
この歌は間違いなく感情の海に漂いながら生まれたものでしょう。だから…。
だから、です。父は、
「生き続ける意味をどこに見つけるか」
そのことを鉄道で働いていた十代の頃と同じように、必死で探し求めたのではないでしょうか。
そうしてもがきながら、一年たち二年たち三年たち…。
敗戦で国の形が崩れ、その再構築の途上にある日本には、アメリカによって枷を解かれた思想、言論が一挙にあふれ、さながら沸騰して吹きこぼれる大鍋のような状況を呈していました。
大規模なストライキの連続。弾圧。米よこせ運動。また弾圧。そこに渦巻く政争。人々は何も豊かな暮らしをしようというのじゃない、とにかくまともに三度の飯が食えないのです。困窮した国民は、一時期、日本社会党を軸とする連立政権まで誕生させました。まだ穏健な活動をしていた共産党も、労働者の人権を守るリーダーを標榜して党勢を急速に拡大していきました。
そういう、いっこうに形の定まらない国の狂騒。そんななかで、父は自分の依って立つ基盤をどこに置くべきか、模索したのだろうと思います。
そして模索の末の昭和二十三年(1948年)十二月二十六日のこと。
父はついに労働者農民党の広島県支部を発足させ、その委員長となりました。
労働者農民党は、日本社会党のなかの最左翼の人たちが、「社会党も共産党も困窮した勤労者のニーズを拾いきれていない」として、同年十二月初めに結成した党で、父も広島の地でそれに参画したというしだいです。衆参両院で十八名の勢力がありました。
それへの参画は、父にとって、長いものに巻かれて精髄を失った戦前の社会運動に対する失望、あるいはその挫折の苦々しさを打ち消すための行為でもあったと考えられます。が、それは同時に、結果として多くの公職から離れることを意味し、経済面でもいくつかの企業の顧問弁護士という安定的な立場を棄てることをも意味していました。
簡単な決断ではなかったと思います。
事実、その決断について、母が猛反対であったことを言っておかねばなりません。
それは、ある初冬の夕方の記憶によるものです。
その日、井戸端で母が漬物にする白菜を洗っていると、父が帰って来ました。ぼくはそばで独り遊びをしていました。父は鞄も置かず井戸端に立つと、興奮した口調で何かを母に告げたのです。具体的な言葉としては何だったか覚えていません。が、そのとたんに母を襲った恐慌、そして涙をほとばしらせてまで父に食ってかかった必死の迫力だけはいまでも鮮明に覚えています。
「何べん言うたらわかるんね! もう懲りたはずでしょうが! 脚を洗うたはずでしょうが! ちいとは利口になりんさい! いまからでもやめてちょうだい!」
そのとき父は社会運動に復帰したことを口にしたのだと思います。
★
母の気持はもちろん十二分に理解できるものですが、不肖の息子ながらも、父が「ちいとも利口になれんかった」ことの弁護のために、時代背景を簡単に記しておきたいと思います。
まず戦後、日本人の生活のスタンダードというものが粉々に砕け散った状況についてですが。
そもそも、スタンダードなんてものは戦前からすでに崩れていた、と言うべきなのでしょう。
それは、国家が合法的な権力(比喩的には「暴力」と言った方がわかりやすいのですが)を揮って国民を戦争に駆り立てていたことからも言えますし、結果、農業や工業の生産力を落とし、ほとんどの品物を配給制にしてしまった、そういう異常事態からも言えると思います。
ぼくには、当時の日本の状況が「人間動物園」のように思えてしかたありません。檻に入れられているのはもちろん国民であり、園長や園丁はその指導層です。動物たちは自由な行動も発想も制約され、視界もほとんど覆われていました。檻には自然な光があまり届かず、時おりほんのわずかな餌が投げ込まれるだけという状態です。あの伸び伸びとした大草原や広い森はどこに行っていたのでしょうか。
さて。
アメリカによる爆撃が内地に及び始めると、国民生活を支えるべき農工業がさらに破壊されていったのはご存じのとおりです。
そして敗戦。
ただでさえ食べ物にこと欠いていたのに、兵士として動員されていた人々と外地に進出していた人々が帰って来て、内地の生活者が一挙に10%も増えました。多くの工場は廃墟と化し、農地は荒れはて、すでに輸入も途絶えているさなかにです。
当然、猛烈な食糧難、生活物資難が襲いかかりました。
物価は戦前の三百倍以上にまでなったといいます。お金がお金として機能しない世の中です。大都市には何百万単位で失業者、浮浪者があふれ、飢えは人々から理性を奪い、本能を剥き出しにさせました。人殺し、窃盗は日常茶飯事です。父の歌にも、法廷での仕事が盗っ人、人殺しの弁護ばかりになったと嘆いているものがあります。
広島では生き残った飼い犬まで本来の野性に戻り、集団で人を襲いました。母とぼくも、薪集めに山に入っていたときそういう野犬化した群に遭遇し、崖を転がり落ちたことがありました。
また、白昼、軍刀を持った五人組の強盗団に強襲されたこともあります。
父は不在。子どもは山に逃がされ、夢枕のキリストに対してさえ臆することのなかった母が一人で立ち向かったのですが、首を絞められ気を失いました。死んだと思った強盗団はそのまま去りましたが、母は刀を素手で防いだとき手の指の神経が切断され、傷が治っても右手の中指が曲がらなくなりました。
言うまでもありませんが、強盗団が襲っても、我が家には盗られる食糧も物資もありませんでした。疎開してあった貴重品は、日々の食糧を得るための物々交換でとっくになくなっていたからです。ちなみに、どれほど困窮していたかといいますと、食事面では家族のなかで優遇されていたはずの幼児のぼくでさえ、薪用の松の小枝が軒下に積んであったのをかじって毎日飢えをしのいでいたほどでした。それが当時の生活のスタンダードなのでした。
そんな生活破壊を自らも味わい、目の前に大勢の同胞の苦しみを見ることが、父の社会改革意識に再び火をつけたことは容易に想像できます。
それは戦前の労働者農民の苦しみとは因果関係が異なるものの、「この世を暮らしよいものにしたい!」という一点では、同じ思いに収斂されていったことでしょう。
折りしも。
日本を「国民が主権を持てる国」に変えようとする連合国(実質的には占領主体のアメリカ合衆国)の改革が実行されていました。そのうちの一つとして、一部の層に権益が偏重している経済制度の民主化が図られ、それと表裏の関係にある改革として、民主的な労働政党や労働組合の結成も奨励されたのでした。
父の決断もそれに後押しされた面がないとは言えないと思います。
が、それがなくても、同じことをやったのではないかとも思います。
なぜなら、父は社会運動を計算ずくで始めたのではないからです。欲得のからんだ行為なら、現世的には失うものばかりのこんなこと、どうして踏み切れたでしょうか。
幼かった父を弁護士に憧れさせたのは、父の育った明治中期の弁護士が
「天下公衆の正義のために働く義侠的職務、そういう認識を持たれていたことが理由である」
とすでに述べました。
このとき父を社会運動に復帰させた動機にも、大いに同種の義侠的動機があったのではないか、そのような気がしてなりません。
髙橋武夫という人は、
「自分が自分らしくあるためには、背筋をまっすぐに立てていられるためには、自分のためではなく他人のために生きる。社会的弱者のために生きる。それしかない。それが自分の生きる張りになる」
そういう生得の特性を生きた人です。
だからこの復帰も、世間一般には「髙橋の政治的野心のなせる業」と映ったことだろうと想像しますが、父の内奥には、(おそらく外に向かっては一度も口にしていない)固有の生きがい観が横たわっていたのだということを家族としてぜひ付言しておきたいと思います。
「行蔵我にあり、批判人にあり」
とは、父が好んで口にしていた言葉です。
行蔵、すなわち出処進退ですが、父は孫(ぼくの長男)に「行蔵」という名前をつけたとき、
「わしは、信念に貫かれた行動、そういう意味で行蔵という言葉を使うとる」
と解説していました。
社会運動に復帰した当時の心境をその頃の歌でお伝えします。
この道を ひたにい行くが現実の 不幸となるもわれは退かざり
利己心を まったく棄てし時にこそ 指導者となれ働きびとの
★
このようにして心の虚を埋めるべく歩み始めた父ですが…。
しかし、戦前と同じように地方の労農運動のリーダーになったかに見えて、世の中と自己を見つめる視線には相当な違いが生じていたことをお断りしておかなければなりません。
それは、戦前と戦後の作歌活動の違いに如実に現れています。
戦前、社会運動に没頭しているとき、父はほとんど歌を作りませんでした。歌に向けるべき内的衝動が何も残らないほど、外に向かっておのれを吐き出し尽くしていたからです。
しかし、今回は社会運動に復帰しながらも、じつに穏やかな心の奥を数々の歌として遺しています。
それだけの距離感が世の中に対して、人生に対して生じているということだと理解できます。
それをゆとりと言うべきか、達観と言うべきかはわかりません。
想像としては、原爆で子どもたちの多くを、また研究成果のすべてを、そして全財産をも手放したことで、これまで自分を縛りつけていた現世欲のドロドロからふっと浮かび上がったような感覚。そういう感覚に繭のように包まれ始めたのではないかと思います。
命の管のなかをサラサラと流れている自分、それを感じている自分。
そんなような印象をぼくは持ちます。
それらの歌を少々ご紹介させてください。
平凡に 生くることこそ尊しと 悔いなく生くる我となりぬる
(政治的野心からではなく、義侠的使命感から社会運動に復帰したことの、これもその背景です)
豊かなる 心のゆとり持ちにつつ たつきする吾(あ)を望みつつ老ゆ
大き芋 掘りあてし子は笑(え)まひけり 空の真(ま)洞(ほら)はさ蒼に澄みて
(子とは、姉二人とぼくのことです。喪った子どもの哀しみは生涯消えないとしても、生き残った子どもたちとの交流をその哀しみにかぶせ始めたのがわかります)
ほの闇の 山路に咲ける野菊花 手折らむとしてためらひにけり
(戦前の父なら、おそらくためらわなかったでしょう)
子が死にて 心極まり世を遠み 山にこもらひ聴く秋の風
虫の音の 澄み極まりて草も木も 動かぬ山の晝のしじまよ
庭石の 濡れたるうえに蛙いて 暮れおそき宵をひさに動かず
しみじみと 雨降る宵や亡き吾子を しのぶゆとりを愛(かな)しみにけり
などかくも 人は憎みて争ふや 庭のあら草ひとり摘みおり
毬なきに 毬あるごとき手振りして 子ども遊べりひとりかそけく
子をつれて 旅するといふ一些事を ことさら幸(さち)と意識して発つ
(広島から尾道の簡易裁判所に出向くとき、幼いぼくはよくいっしょに連れて行かれました。瀬戸内を走る車中、父とぼくは毎度のようにゆで卵を一つ分け合って食べましたが、そういうことが父のささやかな幸せだったように思います)
山にして 晝のしじまにひとり聴く 虫の音澄みて天に通へり
ドブロクの 酸っぱき味もふさわしき われ敗残の民となりぬる
(敗残とは、大切にしていた支えを失った我が人生の無残でしょう)
木蓮の 花びら落とし春雨の 静かにすじを見せる夕暮れ
兵隊靴に 自転車踏みてわがいゆく この焼け跡の冬の黄昏
(重いペダルで踏んでいたものとは何だったのでしょうか)
わが咳に おののきおどろとび出せし 雛(ひよっこ)の眼の澄める朝あけ
(雛の眼に澄んだ朝を感じられる気持と、社会運動への復帰が、同じ人間から発している、その心境をどうぞご理解ください)
当時の世相を写した歌も多数残っています。
写実的なスナップ写真という趣ですが、父を再び社会運動へと促した要因を知っていただくために、これらもいちおうご紹介をしておきます。
店先に 一個十円の菓子見つめ 買ひもせで行くさびしき顔々
我が受くる 事件ことごとく窃盗なり さびしくなりて空に目をやる
胡瓜食ひし 口の臭さもただよひて 敗戦国の汽車は走れる
インフレの 浪とうとうと逆巻きて 民は喘げり死ねとごとくに
戦災の 孤児にてあらむ垢に汚れ パンツひとつで街をさまよふ
赤き旗 たなびかせつつ労働者 どよめき立てり怒濤のごとく
食えぬため 一家心中せしといふ 記事読めるときラジオの噪音
猫額(ねこひたい)の 土手の空き地を耕せる 失職人の手は青白し
★
労働者農民党の広島県支部を結成して二年ともう少しあと。
昭和二十五年(1950年)三月。
その父は、日本共産党に入党し、六月四日の第二回参議院議員選挙に、共産党公認で広島地方区から立候補します。
なぜ共産党に入党したのか。そして立候補したのか。
それについては生涯記にただひと言、
「戦線統一の必要を痛感し」
と表現されているだけで、詳しい事情はいっさい語られていません。
当時の状況を振り返ってみますと、悪性インフレを断ち切るための諸政策で社会的弱者の生活がますます窮地に立たされているというのに、その味方を標榜する革新政党が互いに対立し、批判をし合い、いっこうに国民のための結果を出せていない。そういういらだたしい状況が見て取れます。
父が戦線統一、すなわち「小異を棄てて大同につこう」と決意した背景には、それがあったのです。生涯記に書かれたひと言は、もっともな動機として受け取れます。
しかし。
ただそれだけの理由でしょうか、父が共産党に入党したのは。
家族としては、父固有の第二、第三の理由を掘り下げたくなります。
まず、昭和二十五年といえば、大戦で家族を失った哀しみと、生活基盤を崩壊させられたどん底から、国民がようやく将来に向かって頭を持ち上げかけた時期でもありましたが、同時に、隣の朝鮮半島ではアメリカとソ連を背負った南北朝鮮の衝突が秒読み段階に入っており、日本各地の米軍基地化が急ピッチで進められている、そういう異常な状況でもありました。
「日本がまた戦争に?」
もうやめてほしい! どれほど多くの国民が、泣き叫びたいほどの悲痛な気持に捉えられたことでしょう。
父は、そのことについて地元新聞に寄せた立候補の弁で、
「日本はいま、さながらアメリカの植民地のごとく基地化している。それを見ていると、あの憎むべき戦争の火の粉を再び浴びることになりはしないか、そういう恐怖をひしひしと感ずる。私は先の大戦で愛児を失った一人として、アメリカが日本を基地化して始めようとしている新たな戦争にも、それにつき従うのみの現体制にも断固『否!』を突きつけ、日本の平和のために起ち上がるものである」
その意味のことを語っています。またそれに続けて、
「戦前、国家の在りように異を唱える共産党への弾圧が、すなわち戦争準備にほかならなかったという歴史的事実を思い出してほしい。私はそれと同じ危惧を昨今アメリカが先導している対共産主義政策からも強く感じているしだいである」
という意味のことも述べています。
「だからこそ…」
そう。だからこそ父は、アメリカの主導するこの国体に異を立てようとするとき、他党ではなく、当時のアメリカ最大の対立軸である共産主義の政党に依って起つことに一つの意義を見出したのではなかろうか、と思うしだいです。
そして第三に、ぼくはこうも考えます。
父は、ここにご紹介している数々の歌、それらを亡くなった子どもたちに捧げました。言い換えれば、自分の人生を亡くなった子どもたちに重ね合わせたということです。
親子の情、家族愛とはまったく無縁で結婚までの年齢を過ごした父にとって、生まれて初めて得た家族というぬくもりは、何ものにも替えがたい幸せの源であったろうと想像します。
その幸せを形づくってくれた子どもたちが、長男の溺死のショックに追い討ちをかけるように、こんどは原爆で三人も亡くなったのです。自分もいっしょに死にたいほどだったにちがいありません。いや、事実上、このとき父は共に死んだのではないか、そういう気が強くします。
父が原爆後も生命を維持していたのは、「まだ残っている子のために生き続けねばならぬ」という理性が肉体を生かしていたのであって、人格的には何十%かすでに死んでいたのではなかろうかという印象を持ちます。
「ということは…」
何を言いたいのかといいますと、「絶対反戦」を主唱して、わざわざアメリカの最大の敵国を後背に戴く政党から立候補したのは、自分の子どもを殺した国アメリカに対する、じつは個人的な弔い合戦の意味合いもあったからではないのかと。
くり返します。
共産党への入党と立候補、その目的には、自分も幽鬼と化した父が、亡くなった子どもたちの霊を慰めるために、憎んでも憎みたりないアメリカに弔い合戦を仕掛けようとした、そのこともあったのではなかろうか、ということです。
愛する子どもが亡くなるということは、籠から果物がなくなるのとはわけが違います。髙橋武夫の七人の子どもたち、すなわち七つあったリンゴが三つ(姉二人とぼく)になったのとはまったく違うのです。子どもはリンゴではなく、この例えで言えば果物籠を編み上げている竹ひごそのものなのです。だから子どもが死ぬと籠が崩壊し、つまり人格が崩壊してしまうのです。
子どもを亡くした人の戦争に対する憎悪の念は、それゆえに強く深いのです。崩壊した人格は、残っているリンゴによって治癒されるわけではありません。それどころか残っているリンゴまで、往々にして壊れた籠から転がり落ちてしまうのです。それは事実です。
「一起ちゃんには悪いことをしたねえ」と九十を過ぎた母は言いました。「原爆でみんなが死んでから、父ちゃんもわたしも、なんか意欲がのうなったけえねえ。子どもらをどこにも連れてってあげんかった。いっしょに遊ぶこともせんようになったし」
わかりやすく言えば、原爆を契機に子育てへの情熱を失ったということでしょう。
が、ぼくはいま、そうはとっていません。
これは子育ての問題ではなく、父と母の人生に対する距離感の問題なのだろうと思います。いわば人生のあまりの仕打ちに、人生と深く関わり合うことをしなくなった、そういう態度が否応なく沁みて出てきたのではないかと思うのです。その結果、生き残った子どもたちに対しても、淡々とした距離のある接し方になってしまったのではないかと。
恨み言を言いたいのではありません。それほどの深手を負わせられたということなのです、両親にとって、水死に続いて原爆で子どもを喪ったということは。
こういう第二、第三の理由を共産党への入党、立候補と結びつけるのは、あまりに情緒的解釈に偏しすぎているという声はありましょう。
「あくまでもイデオロギーの問題ではないのか。共産主義を受け容れるか否かは、それほど重い選択なのだから」といった。
が。
しばしば訴訟の依頼人の不幸な立場に激しく感情移入し、依頼人同様にグッタリしていた髙橋武夫、その損得を度外視した、一種狂的とも思える灼熱した反骨精神を知る身としては、反戦の血刀をさげて巨人アメリカに斬りかかったドン・キホーテ髙橋武夫像に、かなりの真実を見出してみたい気がするのですが、いかがでしょうか。
反骨を こころよしとするわが性(さが)を 誇りとなしてわれは生くるも
★
こうして共産党に入党し、参議院議員に立候補した父ではありますが。
その人は同時に、
「平凡に生くることこそ尊し」
と、被爆を通じてすでに感得した人でもあります。
その点からしても父は、国会議員になりたいという野心を抱いて立候補したわけではないと断言できます。
だいいち当落について言えば、当選の可能性がゼロであることは現実に少し目をやっただけでも明らかなことでした。
その選挙があったのは、日本初の社会党を軸とした連立内閣が国民に大きな失望を与えて間もない第三次吉田内閣下です。左翼政党に猛烈な逆風が吹いていることは百も承知だったでしょうし、それに加えて選挙区の情勢を分析すれば、「あわよくば…」の思いさえなかったでしょう。
こういうこともありました。転校生のとても頭のよい友人が、
「君ンちのお父さんはどうして選挙に出たの」
と標準語で大人っぽく尋ねたので、そのことをわざわざ父に言うと、
「通るために出たんじゃない。わしの思いをちょっとでも世の中に広められりゃあそれでええ」
そう答えました。それは本音であったろうとぼくは思います。
さらに、落選後のある日のこと。
「選挙のことで、学校で何か言われたか」
と父が問うたので、
「上級生に、おまえのお父さん、オチタ、オチタと馬鹿にされた」
と答えると、しばらく遠くの方を見ていましたが、やがてぽつりと
「かわいそうなことをしたのう」
と言って背を向けました。
その言葉には、じつは後の幕引きを予見させる心情がすでに見え隠れしていたのでした。もちろん、そのときのぼくに看破できるはずもありませんでしたが。
髙橋武夫は共産主義について、いったいどういう認識を持っていたのか。
たとえば、血で血を洗うに似た諸外国における革命手法について。そして革命成立後に現出している自由と平等が偏した社会について、どのような見解を持っていたのか。
この歌集をまとめるに際し、ぼくはずっと疑問に思ってきました。
が、残念ながら歌にも生涯記にも、何も残された言葉がありません。父の存命中、ぼくからそのような質問をしたこともありません。
父の考え方を推し量る唯一の材料としては、選挙の同年、日本共産党が諸外国共産党機関から「政権奪取の闘い方が手ぬるい」と批判を受けたことで分裂抗争し始め、結果、ソ連や中国のように武力による政権奪取を主唱する一派が主導権を握ったと見るや、即座に離党した事実があるだけです。
「では…」
ほんの短期間(三月入党、十月離党)にしろ共産党員となり、そこから選挙に出たことを髙橋武夫は悔いたのでしょうか。
その答は、「戦線統一の必要性から」という政治的動機を重く見るか、「弔い合戦のため」という情緒的解釈を重く見るかで異なります。
後者については後ほど(結果として)触れることになりますが、ここで前者についてのみ言っておけば、戦前から戦後の回転軸を狂わせたコマのようになった国家には、人に大いなる相克を生きさせるカオスが渦巻いていたのだろう。そう述べるにとどめおきたいと思います。
くちなしの 香のこもりゐる部屋ぬちに 血のしたたれるビフテキを食ふ
(ぬち=の内。上代語)
ところで。
この時期、父の遺した異色歌。
ぼくはこの歌をずっと、ダリやミロを想わせるシュールリアリズムの一首と受け取ってきました。そこには、我々が内奥に抱える獣の本能に通ずる性情と、理性や感性、品性できちんとコントロールされた性情、それらの桎梏にあがく人間の現実が象徴的に捉えられていると。
もちろん、そういう解釈でよろしいと父は言うかもしれません。
が、
「……?」
何度目かの読み返しをしていて、ふと感じたのです。
先に「共産主義に対して父が抱いていた認識を表したものが何も遺されていない」と言いましたが、もしかしたらそうではないのではないかと。
この歌がもしかしたら、共産主義に対する父の決別の辞なのではないかと。
つまり。
「くちなしの香のこもりゐる部屋」とは、じつは革命後に訪れると語られた理想社会の隠喩であり、そして「血のしたたれるビフテキ」とは、それを熱く語っている指導者たちのその唇から、じつはたらりたらりと人民の血が滴り落ちている、そういう隠喩ではないのかという。