父の遺した三十一文字 5

●いよいよの時。昭和二十年八月六日、午前八時十六分。広島が一瞬にして屠(ほふ)られる。

それは雲ひとつない真夏の朝の、突然の暗転でした。
子どもの死は、長男だけではすみませんでした。
試練…。試練という言葉に違和感があるなら、困難と言いなおしましょうか。長男一驥の死の六年後、父母はもういちど子どもを喪うという陥穽に落ちました。
人口二十九万、軍人とその関係の来広者六万、計三十五万人の軍都広島に原爆が投下され、長女瑠璃子(二十歳)、次女紅(べに)子(十八歳)、三女李(り)羅(ら)子(十二歳)、そして瑠璃子の夫(柴田眞吾・二十八歳)、瑠璃子の胎内にいて十二月に誕生予定の子(のち、父により眞也と名づけられた)の五人が亡くなったのです。

一瞬に 三十万の生霊(いきりょう)を 奪い去んぬる世界史生まる

父は慟哭の淵に沈み、そこから這い上がろうとして生血(なまち)のように短歌を滴らせました。それは父の作歌活動のピークとなります。そんなピークなど、けっして迎えたくはなかったでしょうが。

四年前に始められた近視眼的で頑愚、かつ傲慢極まりない戦争は、多くの国民の心を金縛りにし、思考を羽交い絞めにして人命を徴発し続け、それがついに、自分同様に愚かで傲慢な行為を呼び込んでしまいました。
原子爆弾の使用です。
当初九万とも十二万とも言われた死者は時間を追って増え続け、けっきょく二十万人にも達しました。住民の約60%が死んだことになります。
それら一つ一つの死には固有のドラマがあり、涙があります。
億万長者の死であれ貧者の死であれ、王様の死であれ一市民の死であれ、そこで流される涙そのものに貴賎、優劣はありません。人命には、本来優れたも劣ったもないからです。すべての生が、すべての死が等しく尊いからです。
そういう真実が無惨に踏みにじられる蛮行が戦争にほかなりません。
国を挙げて殺し合いをするという狂気。いまなお堂々と行われて止まないそんな蛮行に対して、父の慟哭歌が必死の異議申し立てになれば幸いに思います。

              ★

最初に我が家の被爆状況から。
まず父ですが。
父は広島女学院で法制の講義を担当していた関係で、原爆投下時、中心地にほど近いその校内におりました。建物の中にいれば即死したのですが、なぜか休憩をしたくなったので外に出ていました。
外に出ると、小使いさんが通りかかったので二言三言雑談をしました。小使いさんは日なたに、父はたまたま日陰に立ち止まるかたちになりました。そのとき原爆が落ちたのです。目の前に畳十畳ぐらいの青白い火の玉が走り、身体が前後に揺れ、かけていた眼鏡が吹っ飛んだといいます。
父は焼夷弾が落ちたと思い、とっさにそばの防火水槽に飛び込みました。日なたにいた小使いさんは一瞬にして炭化、つまり真っ黒こげになったそうです。
お気づきでしょうが、ここに二つの偶然があります。
一つは、なぜかそのとき校舎から外に出る気になったということ。中にいた者は下敷きになり、全員圧死、焼死しました。その爆風の凄まじさは爆心地から2キロ圏内の建物を全壊させるほどでしたから。
二つ目の偶然は、立ち止まったとき、父がたまたま日陰にいたことでした。原爆の熱線は一瞬にして内臓の水分まで蒸発させてしまったのです。
これらを偶然と言うのか、見えざる意図による必然と言うべきなのか、それは論議しないことにします。
しかし、人の生死に偶然はない、そのことを長男の死と二男の誕生で学んだ両親にとって、このときの体験がさらにその思いを深くさせたのは事実でした。
父は学校からいくらも離れていない自宅の方に向かおうとしましたが、それは不可能だったといいます。父の話や当時の記録によりますと、生きていたときの姿のままのストップ・モーションで炭になった死体、飛び出した内臓を抱えてのたうっている人、裏も表もわからないほど肌が焼けただれた人、ちぎれた誰かの頭部を抱えて狂ったように走り回っている人などなど、正気を保つのが困難なほどの状況だったそうです。もちろん家屋という家屋は倒壊し、猛火と煙で東西南北もろくにわからないありさま。家には近づきようもありません。
「娘たちはそれぞれに逃がれてくれているだろう!」
逃げていてくれ! 大丈夫、きっと逃げている! 無理やりそう自分に言い聞かせ、父は近くの川、あの長男を喪った川に必死で飛び込みました。
「街路を行くと群集と猛火に呑まれて危ない」
とっさにそう判断したからです。それに、疎開先の修練道場は川の上流、広島市を取り囲む山の中腹にあるのでした。
父が泳ぎ疲れて川土手に上がると、人は本能的に川上へ川上へと逃れるものらしく、道路は半死半生の幽鬼のような人間であふれかえり、次々に斃れる死骸を踏み越えながら、次の一歩でこんどはその人が斃れる…。
絵巻物で見たことのある阿鼻叫喚の地獄とは、こういうことなのだろうと想像します。ここはこの世じゃない、もしかしたら自分はもう死んで地獄にいるんじゃないのか。そう錯覚したとしても不思議ではなかったのではないでしょうか。

原爆が落とされた翌日から、父は焼け野原となった広島をさまよい、凄惨な無数の死体を覗いてまわりました。もちろん娘たちを捜したのです。そのおかげで放射能をさらにたっぷり吸い込みました。
お産の準備で嫁ぎ先の東京から広島の実家に帰っていた長女瑠璃子は、茶の間のあった場所に骨が崩れない状態で横たわっており、腹帯を止める安全ピンが脊椎の上にのっていたそうです。
瑠璃子の夫柴田眞吾は軍需省に勤めていた関係で、戦時の統帥機関・大本営が移されていた広島に、六日の午前一時に到着して被爆しました。結果からすると、妻といっしょに死ぬために出張して来たとしか言いようがありません。全身にガラス片、木片が突き刺さり、血まみれのハリネズミのようになって疎開先まで逃れて来たのを
「薬もないのでミミズを煎じて飲ませた」
と母は言っていました。高熱を発し、からだが二倍ぐらいに膨れ上がって、妻を助けられなかった自分を責めながら号泣して息絶えたそうです。
ぼくは四歳でしたが、姉婿が修練道場に倒れ込んだ瞬間の母とのやりとりをその後何度も思い出しました。それは
「瑠璃子、来てますかっ」
「いいえ!」
「シ、シッ、シマッタァァァッッッッ」
我が身を垂直に切り裂くような声でした。あんなに絶望的な声をその後も聞いたことがありません。
次女の骨はありませんでした。
次女紅子は三味線を弾く、もの静かで地味な性質だったそうです。「女子挺身隊」という名の強制労働組織に入れられていたのですが、当日の朝はその隊がどのような行動をしていたのか不明でした。ひっそりと生き、ひっそりと死んだという印象を持ちます。ぼくにも写真のなかにしか記憶がありません。
ぼくとよく遊んでくれた三女李羅子は、学校が夏休みに入ったので両親の疎開先に起居していたのですが、その日は大豆だけの弁当を持って、早朝モンペ姿で出て行ったそうです。同級生二百名とともに市の中心地で建物疎開(爆撃の類焼を防ぐために建物を間引く作業)に従事するためだったとか。
八時過ぎには作業が始まっていたと想像されます。ということは、まさに頭上で原爆が炸裂したことになります。だから…。そういうことです、そういう最期です。骨はもちろんわかりませんでした。

爆弾の 焔をあびて火達磨と 化して死せしかあはれわが子ら

炎天下には、父のように死んだ家族を捜す人の群が肩を落として続いていたといいます。
だけど、捜しながら心を襲う空しさ。息をすることさえやっとだったのではないでしょうか。

我が家の 焼け跡に立ち子の骨を 捜すうつつぞ耐えられなくに

遁れゆき 生きてあらむの望みたち 子の骨は出ぬわが焼け跡に

そして。
嗚咽のその奥から湧き上がってくるのは、おのれの臓腑を吐き出すような憤り。原爆を落としたアメリカへの、戦争を仕掛けた国家への、いや、とにかくこの世のありようすべて、目につくもの、存在しているものすべてに対する理性をかなぐり捨てた憤り…。
それらは次のような歌となっています。

憎みても なほ憎みてもあまりある 敵に報いむこのこころ継げ

今よりは 夜叉ともなりて我生きん 人馬触るれば斬りてやむべし

戦えば かならずや勝ち常(とこ)永久(とわ)に 国は栄ゆと吼えにしは誰(た)ぞ

人間の 愚かしさこれも殺しあひ 破壊しあひて得しはなにもの

そしてこの一首。

戦争(たたかい)や うまきも食わずよきも着ず いのち儚く吾子(あこ)を死なしむ

最後のこの歌は、慨嘆ではなく、末尾に巨大な「!」マークが隠されています。これは、戦争を起こしたこの国の指導者たちの喉元に突きつけられた父の切っ先であることをご理解いただきたいと思います。

ぼくは、先に言いましたように、修練道場に疎開していましたので、直後は両腕に斑点が出た程度の被爆症状ですみました。原爆が落ちたとき、ぼくと祖母は縁側にいて、母はその前のナスの畑にいたのですが、突然火の玉が目の前で破裂し、同時にそばにあったワニの剥製がぼくの頭に落ちたのを覚えています。昔は坊主頭でしたから、相当に血が出ました。
「どうしてこうに寂しい山の一軒家に、わざわざ焼夷弾を落とすんじゃろうか」
母は瞬間そう思ったそうです。
爆心地からは直線距離で2キロ半ぐらいでしょうか。山陰ですから、爆風は弱められたはずですが、それでも大屋根が吹っ飛びました。

お終いになりましたが、ほかの子どもたち、ぼくのすぐ上の二人の姉、合歓(ねむ)子(十歳)と渚(八歳)は、その年の四月から山間部のお寺に学童疎開をしていましたので助かりました。
つまり。
両親は七人の子どもを持ちましたが、生き残ったのは下から三人だけということになりました。

              ★

長女、その夫、おなかの子、次女、三女。骨のある者は骨を、ないものは遺品を納めた臨時の墓が松風の渡る山中に造られました。木の柱に父が歌を書いて墓標としました。

松籟を 朝な夕なの友として 静かに眠れこの山のへに

この歌はいま、神奈川県茅ヶ崎に移した我が家の墓に彫られています。
「賛美歌を歌おうとしたのに、ただ泣いただけじゃった」
母はそう言っていました。

さて。
どんなに絶望しようと、父は教会に、神にすがりつくことさえ、もはやできなくなりました。
神と人間の関係など信じられなくなったのでしょうか。
あるいは。
長男の死と二男の誕生によって回復された信仰生活を思えば、神の存在自体は疑わなかったでしょうから、その仲立ちをする組織宗教の言葉に無力感を抱くに至った、そういうことでしょうか。
「艱難汝を珠にす」
その聖句が父をこれまで支えてきたことはすでに書きました。このたびも当然それを噛みしめたことだと思います。
しかし、もはや珠になろうがなるまいが、そんなことはどうでもいい。その前に、言葉を戴く自分という存在自体が揺らいでいる。タガの外れた桶のように、おのれの実体すら崩れかかっている。そういうどん底の状態だったのではないでしょうか。
「痛歎やるかたなく、深刻なる無常観に捉わる」(生涯記)
そして、父の心を覆っていたのは、我が子を殺したアメリカに対する強い憎しみでした。
そのアメリカ憎しの感情がアメーバ的に触手を伸ばし、アメリカっぽいものすべてに背を向けさせた、そのことは容易に察せられます。そのなかには西欧文明の象徴であるキリスト教が当然含まれていたことでしょう。父が教会に背を向けた理由には、当初それもあったと思います。
子どもっぽいとお考えでしょう。ですが、これは平時の話ではありません。原爆で、自身も、まわりの皆も地獄を見ているさなかの話です。
そういう、理性の介在する前に人を貫く直情が、原初的な情動が、じつは髙橋武夫らしさを形成している源であるようにぼくは思います。前にもお話しましたが、弱者の人権を守るため社会運動にのめり込んでいった動機も、理屈ではなく、まさに感情の論理でした。
髙橋武夫は理性の徒たる法律家でありながら、一方ではそういう火の玉のような情動を抱え込んでいる人でもありました。
母は戦後も教会員を続けましたが、
「父ちゃんは聖書も開かんようになった」と母は言っていました。「あの人は極端から極端に動く人じゃけえ。なにしろ感情家じゃけえねえ」
それでは、無常観にあえぐ父の歌をいくつか。

何もかも 空しくなりぬけふよりは 生きながらえて何を為すべき

生くる身は 死せし者よりさいはひと いふ人の言葉(こと)われ諾(うべな)はず

いくとせを なほ長らへてわれ生くや 子の失せし世にのぞみあらなく

目当てなき 生(しょう)の苦しさただ生きて 我あるゆえに生きて居るなり

暗けくに ただ模索するけだものの あはれさに生く我にてあるか

被爆してから一か月。
父は歯茎から出血し、髪の毛が抜け落ち、全身に斑点が出て高熱にうなされ、危篤に陥ります。薬も何もありません。子どもを喪った絶望感のさなか、父は足首から這い上がる死と対峙し、次の一首を枕もとの手ぬぐいに書きなぐったといいます。

わが生命(いのち) 窮まるといふ今にして ひたに心のもとむるは何ぞ

自分が生き残ったこと、子どもの方が先に死んだこと。それらは偶然ではない。それを受け容れて、生き残っていることの意味をまっとうするのだ。
仮に理性がそう考えようとしたとしても、ほんとうは、子を喪った困難を生き続けるよりは、死ぬことの方がむしろ楽であるというのが、そのとき父を過った思いだったのではないでしょうか。母が書き取った瀕死の父の歌です。

人の死は 永久(とは)のいのちの門出とぞ 思わば歎きうすらぐごとし

先立ちし 子らとあい会ふ天つ国 いまぞわれゆく心やすけく

しかし、です。母。髙橋マサエ。
母としてはそうはいきません。
「このうえ夫まで失っては…!」
何か薬効のありそうなものはないか、そうだ、ニンニクだ、せめてニンニクでもと思い立つと、朝鮮から来た人々が住んでいる集落に行って必死でニンニクを分けてくれるよう頼みました。最初は、日本人である母に対して、けんもほろろだったといいます。よく言う「どのツラさげて」の類でしょう。なにしろ、そういう態度をされて当然のことを日本は朝鮮にしてきたのですから。
が、とにかく母の思いが通じたのか、ニンニクを入手することができました。
父はそれを生でかじり、何日かが過ぎ、そして…。
放射能毒にはニンニク成分が効くのか、あるいは(生死が偶然ではないとしたら)まだ死に時ではなかったからなのか、父の被爆症状はどんどん軽くなっていきました。爆心地からわずか数百メートルという距離での被爆と、翌日から放射能に最も汚れた市の中心部で子どもの亡骸を捜し回ったことを考えれば、これは奇跡的なことでした。脳溢血で亡くなるまで、父は広島の原爆病院で定期的に健康診断を受けていましたが、医師たちからは、それゆえ「非常に貴重なサンプル」として注目されていたということです。

いつ夜が明けて、日が暮れたのがいつなのかもわからない日々が続きました。
我々家族は修練道場まで逃げて来た、どこの誰かもわからない多数の死体と寝起きしました。死体を気味悪がるのは平時のことで、たしか怖くもなんともなかったように思います。
きのうまで息のあった人が、もしいつまでも同じ姿勢をしていたら、それが事切れたという合図でした。そういう人を見つけると、ぼくは母に知らせに走りました。
しかし…。
死んだからといってすぐ焼くわけにもいかず、かといって身元もわからず、何日たっても誰が引き取りに来るわけでもなく、しかたなく亡骸を雨戸にのせては山道を引きずって行き、大きな穴に落として焼いていたのをぼくは風景として記憶しています。
両親は、この人にも親兄弟があるじゃろうにと思うと、わが子のことと重なって、たまらない気持だったそうです。母はせめて賛美歌を歌ってあげたのだそうですが、
「ゾッとするような弔いじゃったよ」
そう言っていました。
その焼き穴は鬱蒼とした、暗い杉林のそばでした。ぼくはさすがに凄惨な現場からは遠ざけられていましたが、人を焼く臭いを嗅ぎ分けろと言われれば、いまでも間違いなくそれはできます。
その臭気は、それを生じさせた国家の死臭であると思います。
父による、戦争を是として滅びた国家への挽歌は以下のとおりです。

我が敵は この国の指導者と喝破して 死せる人あり戯言(たわごと)ならず

欺かれし 意識はつよし国民(くにたみ)の 怒りを棄つる泥沼や何処(どこ)

死に損ないの 汚名あびつつ敵人の 輸血さえ受け恥じぬ指導者

特攻も 玉砕もみな犬死と なりし日に生き聴く虫の音や

人間の 愚かしさこれも殺しあひ 破壊しあひて得しはなにもの

「原爆を落とせしめたるトルーマン、戦争責任者たる天皇、軍指導者を憎むの情切なり」
これは生涯記にある文章ですが、愚かな戦争で家族を失った国民の、当時のごくふつうの感情であったろうと思います。
けっきょく広島の弁護士は二十三名が一挙に亡くなりました。裁判所とその近辺に位置する弁護士の住居、事務所が爆心地からそう遠くない場所にあったためです。
父は被爆当時、広島弁護士会の副会長(のち会長)として物故者の法要を行いながら、壊滅的な広島の司法制度の回復に奔走しました。公のために立ち働くことがむしろ良薬となったのではないかと想像します。
父を含め、同じ物理的条件にあっても生き残った人。逆に亡くなった人。
軍都広島ですから、姉婿のようにわざわざその頃に他所からやって来て被爆した人も相当数あったでしょう。そうではなく、その日にかぎって広島を離れていた人も大勢いたことでしょう。
一つ一つの死には生き残った人に向かって遺されている意味が何かあるのであり、また死なずに生き続けることにも、必ず生かされている理由があるのだと思います。
父も、子どもの死が突き落とした断崖の底から、そこに遺されている石を一つ、二つとなんとか拾い上げねばなりませんでした。言葉で言うのは簡単なことですが、「いまあるおのれの状況を否定せず、あるがままに受け容れる」ということです。生死は偶然ではないと、すでに教えられているのですから、それは時間がかかろうとも果たさねばなりませんでした。

廃墟のなかを七つの川が流れ続けます。
幾万もの死骸が洪水のように川面を膨れ上がらせ、死臭を放っていたあの日はしだいに遠ざかってゆきます。広島には七十五年は毒が漂い、草木も生えないと当初は言われました。が、広島の人々の多くはその廃都を去りませんでした。父もその一人ですが、それぞれにそこで生まれ、そこで生きた根を簡単に断ち切るわけにはいかないのです。いや、そこで家族を失ったからこそ、その地を去らなかったのだろうと思います。家族が死んだ同じ地で自分も死のうと、どなたもが考えたのではないでしょうか。
そういう日々を父は以下のように歌い遺しました。

我になほ 幼き子等ののこりおれば 生きねばならず狂おしくとも

見のかぎり 瓦礫のなかゆ啾々(しゅうしゅう)と 鬼(き)哭(こく)すとやいはん廃墟ひろしま    
(鬼哭啾々=浮かばれぬ亡霊がしくしくと泣いているさま)

累々と 瓦礫の廃墟ひろしまの 七つの川は月に冴えたり

親と子の 絆はつらし喜びに はた悲しみに亡き子思へば

ビルの窓 みな壊たれて落日の 光を孕む焼け跡に立つ

誰彼の 死したる噂子とせしが その子もいまや死にてしまへり

夕ざれて 白壁のへに物の影 きえゆくころは亡き子偲ばゆ

竝(な)みよろふ 山青けれど麓には 瓦礫の廃墟海につづけり

しんとして 月ぞ冴えたるこの廃墟 死臭ただよひただ秋の風

逝くものは 逝く運命(さだめ)とぞ手短に かたらふ人に怒りおぼゆる

焼け跡の 瓦礫のひまにあやしくも 茎立ち咲けり紅ばらの花

しみじみと 水のながれに聴きいりぬ 夜更けてひとりかなしみにつつ

ともすれば 自棄と自嘲のこころ湧き 空みあぐれば雲のなつかし

亡き吾子と 疎開荷物を運びにし 道にまた出ぬ秋風さびし

原爆が奪い去ったものは、子どもの命だけではありませんでした。
法医学の学位を取ろうと働きながら勉強をした九年間の論文、それを発表した専門誌、資料などもすべて灰燼に帰しました。「精神病学的法医学」という論文を発表したと生涯記にありますが、それを読むことはできません。社会運動の代わりにおのれの背筋をまっすぐに立ててきてくれた、その背骨まで突然に折られたことになります。
これには、文字どおり身体がへなへなと崩れ落ちたと思います。長男の死と二男の誕生によって取り戻した信仰さえ、このとき放棄したくなったとしても当然だと思います。

吾子逝きて わが桑(そう)蓬(ほう)の志(こころざし) ついえる秋を山にこもらふ
(桑蓬の志=男子が天下に雄々しく羽ばたこうとする志)

また、財産もほぼすべて焼失しました。家は借地でしたから、疎開した荷物のほかは何も財がなくなったのです。ただこれは戦災に遭った人、誰しもに起こったことではあります。
人生とはほんとうに思いどおりにゆきません。
だけど、洋の東西を問わず神話というものでは、人間の愛してやまない富や権力や名誉、それらを失う話が肯定的に書かれています。
つまり「それらを手放すんだ。執着するんじゃない」と教えています。
現代では、その神話の教えがこのように形を変えて訪れるものなのでしょうか。第三者的な感慨で申し訳ないことですが。

              ★

草木も生えないと言われた広島には、再び夏草が繁りました。
しかし、人間の命は生えてきません。
一年後の昭和二十一年八月六日。午前八時十六分。
生き残った家族だけで執り行われた一周忌の祈り。父は我が家の焼け跡に立ち、こみ上げる痛恨の情にあらためて肩を震わせ、そして絶唱ともいえる原爆歌を遺しました。

天地(あめつち)の 死(し)塊(かい)となりて生きものの みな滅びなば慰むものを

再び戦争への参加が可能なように憲法を改めようとしている昨今。そのなかの誰が、この慟哭への返歌を作れるのでしょうか。