父の遺した三十一文字 4
●わが子の溺死。再び歌の時代へ。
吾子(あこ)の亡き はじめての朝あめつちの 裂けなばこころ安けからまし
物見遊山も 酒も煙草もみなやめて 亡き子の霊にただ詫びてあり
かばかりに 生を欲(ほ)りにし身なりしに いまは思はず死こそ願へれ
生くる身は 死せしものより幸いと いふ人の言葉(こと)われ諾(うべな)わず
「昭和十四年七月二十八日、長男一驥(いっき)、泉邸裏河川において溺死す。ために痛惜措くことを知らず…」(生涯記より)
これまでページを割いて、二十代から三十代の髙橋武夫像を紹介してきましたが、その父が価値観を根底で変えたのは、じつは、これほどまでに心血を注いできた社会運動でもなく、あるいは世間の耳目を集めた華々しい法廷闘争でもなく、それは養父の死と、子どもの死。二つの死でした。
養父の死は、現実として惨憺たる貧困生活に父を突き落とし、そこから這い上がる努力が人格形成、ものの考え方、そしてその後の生き方に大きな作用をまず及ぼしました。それはすでにお話したとおりです。
そして、その次に訪れた価値観変革の契機が、養父の死から二十九年後、長男一驥の死でした。
両親にはそのとき六人の子どもがありましたが、上から女、女、男、女、女、女。男児は一驥ただ一人でした。それだけに両親の衝撃は大きかったのだと思います。
その死は広島が一年でいちばん光り輝く季節に起こりました。
広島の土は関東と違って白いのですが、そのカチンカチンに乾いた白土が太陽を足元から照らし返して、真夏の広島は目を開けているのが困難なほど明るくなります。
そんな光のなか、父と一人息子は水浴に出かけました。
ご存じかどうか、広島市は三角州の上にできた街です。当時は七本の川が流れ、ちょっと歩くと川にぶつかります。自宅から川までも数分の距離。父はその日、法廷での仕事がなく、久しぶりにのんびりと休日らしい休日を過ごそう、そう思ったのでしょう。泉邸と呼ばれる旧浅野藩の庭園を横切り、その裏手の川で二人は水遊びを始めました。
最初は子どもが危ない場所に行きやしないか、注意深く見守っていたと思います。
が、やがて父は遠い夏空に視線を放し、その心に休日らしい穏やかな時間を行き来させ、やおら、安らいだ視線を再び愛する我が子の方に戻した…。
その瞬間です。
音が、色彩が、時間が、すべて消え去ったことでしょう。そこには静まった川面があるだけで、目の前で遊んでいるはずの我が子の姿がなかったのです。
それは信じがたい、受け容れがたい、あるはずのない、あってはならない光景でした。
そこは猿(えん)猴(こう)川という名の、あそこで泳ぐと川底から猿の化け物が足を引っ張る、たしかそう言われている川でした。
「まさか、我が子が!」
我に返ると、父は忽然と消えた子の姿を求めてすぐ深みに潜りました。古式泳法ができるほど水の達者の父でしたが、しかし、探せど探せど我が子の姿はありません。浮かんでは潜り、潜っては浮かび…。我が子のいないことが、それでもなお信じられなかったことと思います。
「父ちゃん、何しよるん?」
そう言って、泉邸の繁みからキョトンとした顔を覗かせないものか…。庭園のなかも大あわてで走り、探しました。
奇蹟は起こりませんでした。
後に長男一驥の亡骸が発見されたのは信じがたいほどの下流でした。それほどに川底の流れが速かったということです。
わずか九歳の死でした。
その夏は、もはや暑さも明るさも何も感じなかったことでしょう。
長男の死を境に父はすっかり変わりました。我と我が身を咬むように、自分を責め続けたといいいます。死のうとした、といいます。
それが前の四首の背景です。
「あのバクダン男が、火が消えたようになったわい」
「さしもの爆撃機もとうとう墜落したのう」
弁護士仲間も市議仲間も、新聞記者たちもそう噂しあったとのことです。
逝きし子が せかせ買わせし下駄の歯の 禿(ち)びおらざるに涙あたらし
亡き吾子が 種子(たね)を蒔きたる唐黍(とうきび)の 実の熟れたれば見るに堪へずも
亡き吾子と 同年輩の少年が 街路(みち)ゆくすがた淋しくも見ゆ
めざむれば わが逝きし子にいちはやく 心のはしる習慣(ならひ)かなしも
子のうせし 悲しみもたぬ友人(ともびと)のに 妬心わきくる吾をあはれむ
亡き兄の 顔をおぼえてありぬやと 問ふ習慣(ならひ)こそ悲しかりけれ
蝉をとる 亡き子の姿ともすれば 庭に求むる吾れとなりしか
吾子逝いて はじめてみたる夢なれば 顔かがやかし妻に語れる
冬となれば しもやけすなる吾子なりし その手いまはも握るすべなし
長男の死はこのように悲嘆にくれる日々をもたらしました。
そして、それはまた、社会運動という現実を追うあまり神(キリスト)から遠ざかっていた生活をも猛省させるきっかけともなりました。
二十歳前後の三年間、中国青島での孤独を「その生き方でいいのだ、おまえは正しく生きているぞ」と唯一力づけてくれた聖書からも、教会からも、長い間心を離していたことに強烈に思い至りました。
吾れをして 悔い改めの生活に 入らしむため死にしか吾子は
親にして 子に先立たれし悲しさは ただいっさんに神を求むる
そして、その心はこのような歌も生み出しました。
けがれたる わが霊(たましい)を洗ふごと なみだ湧ききぬ天(そら)あふぎおれば
父は再び神に心を預け始めました。
解説者のような立場からものを言うつもりはありませんが、人は苦しむためではなく、幸せになるべく生まれてくるのであるとすれば、言い換えれば、人生に起こるすべてのことに、なんとかプラスの意味を読み取るべきであるとすれば、両親をこのような淵に突き落とした長男一驥の死とは、いったいどんな意味を帯びていたのでしょうか。
父に信仰生活を取り戻させるためだったのでしょうか。
社会運動にのめり込んでいる間に、人として大事なことを見落としていた(それは父のみが知ることですが)、それに気づかせるためだったのでしょうか。
結果から見れば、そのいずれでもあったのだろうと思います。
こうまで歌っている一首もあります。
演壇に 聲たからかに叫びたる われを道化といまは卑しむ
その気持の変化に驚かされます。長男一驥の死は、それほどまでに大きかったということです。
社会運動に血と肉を捧げた髙橋武夫は、すでにいなくなりました。
★
この時期。
両親を支えたのは一心の祈りでした。
「一驥を返してください。哀れと思い、返してください。お願いです!」
二人して叫ぶように祈り続けたのだそうです。
とくに母は、道を歩くときも口のなかで呪文のように祈りの言葉を唱え続け、
「気の毒に。髙橋の奥さんは気がおかしゅうなった」
そう陰口をきかれたとのことです。
父は父で、毎日必ず教会に寄り、手を合わせてから裁判所に向かったそうです。
我が子の死んだ川辺にも何度も立ったことと思います。
ぼくもその岸に立ちましたが、その川は深い緑色をしていて、静まりかえっていました。流れというよりも、静かな湖面を見るようでした。父があの日、夏空に放していた視線を川で遊んでいるはずの我が子に転じたときの、あの衝撃。何もない川面。それを想いました。
岸辺から見るその川面がひそやかであればあるほど、静まっていればいるほど、父は、母は、どんなに狂おしい気持になったことでしょうか。
亡き吾子と 同級生の子の背丈 いよいよ伸びしが堪へられなくに
吾子逝いて ひととせ経にしわれなるに 神にちかづく幾歩なるぞも
あの山は 妙なかたちと亡き吾子が 言ひにし山も見えてかなしも
亡き吾子の 二分刈り頭をよく撫でし その感触をいまだ忘れず
亡き兄が 履きなれし靴妹が 履きて羽根つく元旦の朝
亡き吾子を 膝に抱きてもの言ひし 夢を見しといふ妻を羨む
その昔(かみ)は 六つ買いにしみやげもの 五つにて足るいまは悲しも
そしてちょうど一年がたった頃のことです。母は不思議な夢を見ます。
教会の祭壇で見るのと同じキリストが黄金の光のなかに現れて、
「子どもは返してやるぞ」
そう言われたというのです。母は跳び起きてキリストの足元にひれ伏し、ぼうぼうと涙を流したといいます。思わずた叫びました。
「その子は男の子でしょうかっ」
「男の子であるぞ」
母は九十七歳まで生きましたが、その年齢まで
「あのときのお声はいまでもこの耳の底に残っとる」
そうはっきりと言っていました。
しかし、この逸話でさらにおもしろいのは、そのあとのキリストと母のやりとりです。
母は何事にも飾らず、率直なもの言いをする人だと何度も言ってきましたが、そのキャラクターは驚いたことにキリストに対してさえ変わりませんでした。
「もしそれがほんとうのことなら、十月(とつき)十日(とおか)後に生まれさせてください!」
そう注文をつけたのです。
「そのかわりと言うとなんですが、その子は必ず神様のお役に立つ子に育てますけえ」
なんと交換条件まで持ち出したのでした。
さらに。
「一驥には右の腿に大きな痣がありました。たしかに生まれ変わりじゃいう証拠に、生まれる子にも痣をつけてやってください。ただ、半ズボンをはく夏になると恥ずかしがって、いつもズボンの裾を引っ張っておりました。こんどの子には見えんところにお願いします」
苦笑されるキリストのお顔を見たのは、この世でおそらく母だけではないでしょうか。
母はその日から、手は舞い、足踊り、近所の人に会うごとに
「わたしゃあ必ず男の子を産みます!」
そう言わずにはいられなかったといいます。もちろん近所の噂は
「髙橋の奥さん、ほんとに気の毒にねえ」
でした。もっともなことです。
しかし。
母の夢は正夢でした。
ちょうど約束の十月十日後。昭和十六年四月二十八日も終わりにかかる午後十時二十三分。
これもまた夢枕でキリストが約束してくださったとおり、男の子が産まれました。
父、四十四歳。母、三十八歳。
痣も約束どおりにあり、それも他人には見えにくいところ、右の腋の下にありました。
亡き吾子の いのち承(う)けてぞ生(あ)れたるや この児は男(お)の子われはおろがむ
その子の名前は同じ一驥にしたかったのだそうですが、さすがにそれはできず、一字違いで読みは同じ、「一起」となりました。
母は長男一驥が亡くなる一か月前、「どうしても夏の喪服が必要になる」と、いてもたってもいられない気持に急かされ、呉服屋にそれを注文していたそうです。喪服は一驥の葬儀にちょうど間に合いました。
そのことと考え合わせ、母は、父もですが、死ぬことも生まれることも、けっして偶然ではないのだろう、そう痛感したといいます。
我々人間は神との黙契により生き死にしているという考え方があります。人間はその黙契を記憶から去らせて生まれてくるが、じつは我々の生には神の見えざる摂理が働いているのだという。
ぼくも、この顛末を知ったときから、そういう考え方を受け容れるべきであろうと思うようになりました。
これは宗教にはつきものの、一種の奇蹟譚であるかもしれません。なかなか信じがたいことだと思います。お聞き苦しかったでしょうが、お赦しださい。
二男一起の誕生した年、日本は太平洋戦争に突入しました。
やがて広島にも空襲警報が鳴り響くようになると、広島女学院大学の修練道場(広島市の牛田町)に父、母、父の養母、末子の一起の四人が疎開しました。上の姉たちはそのまま裁判所近くにある八丁堀の家にいましたが、それは配給を受ける都合でもあり、父の仕事の都合でもありました。
代わりの男の子を授かり、なんとか心の落ち着きを取り戻しかかった疎開先での山暮らし。それは食糧難から誰もが畑仕事を始めた時期でもありました。
両親も山の谷あいを開墾してサツマイモ、サトイモ、トウモロコシ、キュウリ、カボチャ、ジャガイモなどなど、作れるものはなんでも植えたようです。父にとってそういう農作業は、週一回の岡山医科大学での法医学研究とあいまって、久々に訪れた、いや激動の人生で初めて訪れた小休止であったように思います。
次に、その心境を歌った何首かをご紹介しますが、
「しかし…」
なのです。
この数年後。
突然に背中を押され、底の見えない暗黒の洞をどこまでも落ちていくことになろうとは! それは人間髙橋武夫を根本から変える人生第二の転機となります。でもまあ、そのことはまた後ほどに。
山ふかく ひとりし入りて堆肥とり しばしがほどは何もおもはず
ひそやかに 枕にかよふ虫の音は なんの虫ぞと思ふゆとりや
溜め水に 黄色く映る月影は 砕けて散りぬ柄杓(ひしゃく)入るれば
人の世の わずらひ事や心おもく 深山に入りて樹に對(むか)ひ居り
鶯の 鳴く音に目覚め梟の 聲にわが寝(ぬ)る山辺よろしも