父の遺した三十一文字 3

●社会的弱者の代弁者であろうとした時代。または歌のない時代。

父の短歌を紹介する趣旨からすれば、この章は横道にそれることになります。
しかし、その後の時代に迸り出る慟哭歌を理解するためには、そこに至る二十年近い精神生活をどうしても継続して語っておく必要があります。
しばらくご容赦ください。

さて。
青島での父は、極貧生活の間に明治大学の校外生となり、法律学を独習。やがて超スピードで校外生の卒業試験に合格しています。
そして、いよいよ大正七年(1918年)のこと。
ぎりぎりまで切り詰めた生活によって、なんとか当座の学費を懐にすると、待望の上京を果たし、明治大学の法科に入学します。同時に、中央大学法科の聴講生ともなっていますが、当時の両校が弁護士になりたい若者にとって、いわば予備校的存在だったことを考えると、合格したい一心から少しでも多くの講義を受けたかったのだろうと思います。

この大学生活の間に父は母と出会っています。
母は東京の女子美術専門学校高等師範科(現女子美術大学)で洋画を学んでいました。
出会いの年月日は聞いていませんが、東京から広島に帰省する車中のことだったと母は言っていました。母は姉の嫁ぎ先、呉市の歯科医のもとに身を寄せていたので、偶然同じ列車に乗り合わせたのです。ご承知のように、呉と広島は隣同士の町です。
父と出会ったとき、母マサエはすでに受洗しており、卒業したら某牧師と結婚することが決まっていたそうです。結果としては、そこに父が割って入る形になりました。
「度の強い眼鏡をかけて、色も白いし、あんまり好きなタイプじゃなかった」
そう母は語っていました。第一印象はペケ。が、父は違いました。最初から、母の陽気さ、飾り気のない率直なもの言い、前向きなバイタリティ、そういったキャラクターに強く惹きつけられたとのことです。
さぞや、と思います。なにしろ父は真反対の性格。負けん気や向上心はあくまで内奥深くに秘められ、何か主張すべきことがある弁論は大得意でも、いわゆる世間話はできない寡黙な人でしたから。
年功を積んだ老年になったあとも、いわゆる世間ずれしたところがなく、子どもたちに対してさえ、何か言い間違えるとポッと顔を赤らめるようなシャイな性格をしていました。
が、ともかく交流らしきものが始まるには始まったのだそうです。それは少なくとも父にとって、生まれて初めて人生の支えを得た、いや得られるかもしれない、そういう一大事でした。

父は大正十一年(1922年)三月、明治大学を卒業すると、まずは南満州鉄道株式会社京城(現在のソウル)鉄道局に就職し、生活の足場を固めます。
ちなみに朝鮮は明治四十三年(1910年)に日本に併合されており、そのさらに四年前には南満州鉄道会社も設立され、島国日本が着々と大陸に足がかりを築きつつあるさなかでした。ですから、当時の若者が朝鮮に渡るということは、そういう日本の国際的上げ潮ムードに乗るということでもあったようです。
父は就職した年の秋、首尾よく朝鮮総督府弁護士試験に合格し、さっそく京城で弁護士を開業しました。そしてその数か月後の翌年二月には、続けて日本の司法省の弁護士試験にも合格し、ついに子どもの頃からの宿願を果たします。
官立の中学校、高等学校をへて帝国大学へというエリート・コースから外れざるを得なかった人間の壮絶な十二年間。
働きながら独学で、各段階の検定試験をクリアしていくというゲリラ戦でした。ふるさと瀬戸内海とは真反対の、嵐のマゼラン海峡をまるで手漕ぎ船で進むような航海でした。
が、とにかくついに荒波を乗り超える日が来たのです。
もはや、まだなじめない養母と手を取り合うしかなかった心細い少年時代も、いじめに遭いながら独学した悔しさも、食うや食わずで必死にお金を貯めた中国での孤独感も消し飛びました。すべての過去に光が射し込んだのです。その達成感、そして高揚感は、いったいどんなだったでしょうか。
父は、そのすべてを母にぶつけました。
それは…。
自らの指を突いて書いた、母、藤本マサエへの熱烈な血染めのラブレターとなって京城から東京へ送られました。

母はそのときもう卒業していましたが、講師として母校に残っており、婚約者のいる呉市にはまだ帰っていませんでした。
「なんか寂しげな、それに一生懸命で真面目な人じゃけえ、まあ、何かにつけて励ましてあげとったんじゃが…」
父に対しては、あくまでも婚約者のある身という立場からは出ない接し方をしていたのだそうです。
しかし、父が養父に死別して今日に至るまでの苦悩と、それを懸命に撥ねのけてきた挑戦心の強さが一滴一滴の血潮となって躍るラブレターには、心動かされないわけにはいきませんでした。
某牧師との婚約を解消するのは容易なことではなかったそうですが、母はなんとか周囲を説得し、そして女性が職業を得ることはむずかしかった時代に得たせっかくの職までも辞し、父のもとに向かう決心をしました。
結婚は大正十二年(1923年)十二月二十六日です。
父二十七歳、母二十一歳。
これまで日の射さなかった父の湿った暗い部屋に、待望の大きな南向きの窓が開けられた瞬間でした。

              ★

もう一つ。
父は、この京城での人生で特記すべき出来事に遭遇しています。
それは、後の人生を形づくる重大な仕事上での出会い。「三・一独立運動」とも「万歳事件」とも呼ばれる朝鮮の民族独立運動、その逮捕者の弁護人となったことです。
その独立運動は、言うまでもなく日本による韓国併合と、それに伴う諸政策の強要に端を発しているのですが、父髙橋武夫は弁護士になったとたんに、朝鮮の人々の権利と自由の獲得運動を擁護する法廷闘争を経験したのでした。
父は、メモ的に遺した鉛筆書きの「生涯記」でこのように言っています。
「万歳事件の弁護に立ちしことが、階級運動(貧民階級の権利を獲得するための運動)の実践に入る機縁となる」と。

物事にはすべからく対立する視点が存在します。
どちら側から見るかは、その人の社会的立場や個人的信条などによりますが、父は運命的に社会的弱者の側に立つ人生を選んだ、そのように思えてなりません。
ここであえて運命的と言った意味は、その苦学力行した生い立ちで培われた弱者へのシンパシーであり(逆に言えば強者の横暴に対する反骨精神であり)、また、ちょうどこの時代に日本本土ではなく、日本すなわち権力を持つ者から虐げられていた朝鮮の人々の間で弁護士という仕事を始めた、それらの偶然のことです。
当時の権力側にある者はもちろん、マスコミ、世論も圧倒的にこの事件を不届き千万な暴動と見做し、憲兵や軍隊による朝鮮人虐殺(死者七千五百余名、負傷者約一万六千名)が行われても、それを虐殺ではなく、正義の行いのように受けとめていました。なぜなら、日本にとっては朝鮮民族の独立と自由を認めることより、朝鮮の民を力ずくでも日本化して、欧米列強と肩を並べるために新たな領土を増やすことが必要不可欠だったからです。
そういうなかで。
父は、これが「暴動」ではなく、正しい「運動」であることを見抜いたのだと思います。言い換えれば、日本政府が力を背景に不条理を行っていることを人間の生身感覚として許せなかったのだと思います。
が、(実際の感情や理性には明確な線引きができないとしても)、厳密に言えば、父は何も朝鮮の民を守りたい一心から弁護を始めたのではないだろうとも想像するしだいです。その弁護に民族的、政治的な動機はなかったのではないかと。
父を衝き動かしたのは、「つねに正義が行われるべきである」という一種義侠的倫理観、そもそもはそれだったのではないかという気がしてなりません。自分が敵に回したのは日本人で、擁護したのが朝鮮の民であったのは、結果にすぎなかったのだろうと思うわけです。

五十代前半までの父は、同世代の人が見れば、弁護士である以上に政治の人であり、その世界で権力を求めた人に映ったのではないかと思います。
しかし、共に暮らしていて何の鎧兜も着ていない父を見てきた立場からしますと、父を行動に駆り立てていたものは政治的野心ではなかったように思います。
世の中に公然と不条理がまかり通っている、そのことを許してはおけない。自分に累が及ばないからといって見てみぬふりはできない。おれがみんなに代わって火の粉をかぶろう。そういう素朴な義侠心に近い衝動に生きた人ではなかったか、そういう気がしてなりません。
父、髙橋武夫は冷徹な法律家でしたが、理屈の芯に「感情の論理」を、つまり「その話は人間の情理としてよくわかるな」、そういう共感に基づく納得感を大切にしながら論理を操る人でした。
その体質と義侠心とは不可分の関係にあります。
事件をただ事実のモザイクとして見ず、その中心に皮を剥がれた兎のような赤い肉質をさらした人間を見るのです。
人間を見据えるから、けっきょく「真の実」がぶれないのだと思います。結果、私的利益で事実を歪めるようなことにもなりにくいのだと思います。

明治末から大正時代、弁護士が世人から尊敬されるに至ったのは、私的利益のために正義を曲げるようなことはしない(ことを標榜した)からこそでした。
万歳事件の場合の私的利益とは日本の国益ということになりますが、父はその本質を冷静に見極め、自分が正義と信ずる側に体重を置いたのでしょう。
それこそ、つまりその打算のなさこそ、髙橋武夫の真髄だったのです。
もしかしたら反骨をする者は、しない者から見れば、はなはだしく現実認識に欠けた者、あるいは理性で感情を御し得ない未だ幼児性を抱いた人間のように映るかもしれません。
「もっと利口に立ち回れ。現実を見ろ。あとさきを考えろ」
そういうことでしょうか。
私事ですが、ぼくも何度かその種のことを言われてきたからわかるのですが、仮にその指摘が当たっているとしても、反骨精神というのは損得で働いたり働かなくなったりするものではないのです。
それは身に滲みついて生まれてくるもので、打算や理屈では御せない性情なのです。いや、性情というよりも自尊心の問題、そこを曲げると自分が生きている意味が損なわれる、そういう種類の問題なのです。おわかりいただけますでしょうか。

               ★

大正十三年(1924年)五月、父は仕事の場を東京に移します。
同時に、必然のごとく自由法曹団に加わり、すぐさま社会的弱者の側に立つ活動を開始します。
自由法曹団とは大正十年(1921年)に結成されたばかりの弁護士の団体で、あらゆる悪法と闘い、人民の権利が侵害された場合には人民と手を取り合って民主的な日本の実現に寄与しようとするものです。
それこそ父の義侠的体質を躍動させるにはぴったりの団体でした。
たしかに政治の体制としては、民意を(制限的にではありますが)反映する選挙がいちおうあり、議会があり、複数の政党があるわけですから、民主主義が行われているにはちがいないのですが、「政治の内容」という面からすると、民主主義はまだまだ未成熟な、つまり社会に多大な不公平を残している歪(いびつ)な段階でした。
父は自由法曹団に加わって、そういう歪さを正すことに加勢しようとしたわけですが、それは髙橋武夫という人間の生得の条件からすれば、ごく自然に至りつく結論でもあったでしょう。
なぜなら髙橋武夫という人は、幼児期より舐めた辛酸によって、権力が強制するこの世の不条理、道理に合わない法と諸制度のあり方への反発を養い、それによって、まるで地衣類のように自身の心身を反骨精神で覆い尽くした人でしたから。

が…。
すぐにそれだけでは飽き足らなくなりました。
それがまた髙橋武夫の髙橋武夫らしいところです。
父は突然に活動の場を東京から郷里広島に移すと、社会的弱者の代弁者たりうる政党を組織し、単なる加勢役ではなく、自ら運動を生み出す主体になるところまで人生を転換させたのでした。

大空の もとゆ山なみ脈々と つらなるうへをわれ飛ばむかな

なぜ、そこまでのことを?
そう思います。同業の士からも、さぞかし引き止められたのではないかと想像します。それは、権力や名誉や富の獲得を競い合う社会にいる者としては、あきらかに愚かしい決断だったからです。
もちろん父だって人格的に発展途上人ですから、さまざまな欲心に何度も迷ったことでしょう。
なにしろ父は、最初にご紹介したとおり、(一歳で養子に出されたのは当時の世渡り法として幸運だったとしても)養子先がなんと男所帯、しかも養父の早世という逆境にもがき苦しんだ人ですから、裕福な暮らしや高い社会的地位、そういったものへの憧れがなかったはずがありません。それどころか、
「ナニクソ! いまにみてろ!」
自分の対極にあるものへの希求の強烈さだけを支えとして、荒れ狂う激流に逆らい、ようやく最初の難所を渡りきったはずです。いまこそ長年憧れ続けたものに手を伸ばすべきときだったのではないでしょうか。
しかし。
帰郷した第一の理由として、先ほども言いましたが、父が性根の部分に養っている義侠的特質をあげざる得ません。
表現を換えれば、髙橋武夫とは損得で動く人ではないということです。正邪で動く人だったということです。もっと言えば、いわゆる「上手に立ち回る」ことをしない人でした。弱きをくじき、強きにおもねることができない人でしたし、黒を白とは言えない人でした。父は自分の内心の声に、その生得のDNAと生い立ちがあげる身の内を軋ませるような叫び声に、従わざるを得なかったのだと思います。
では、いったい何がその声をあげさせたのか。
引き金を引いたのかは何なのか。
それが次に述べる当時の広島県の特殊事情、すなわち第二の理由です。

              ★

父を早々に帰る気にさせた広島県とは、じつは全国で一、二を争うほど民主主義が未成熟…といってもよいような県でした。
明治、大正から昭和初期、日本は第一次大戦で一時的かつ局所的な好況はあったものの、すぐに大戦後の反動恐慌、次いで昭和初めの金融恐慌などに襲われ、それに加えて偏りのある税制と慢性的物価高によって国民の生活破壊がじわじわと進行していました。そして一度も立ち直ることなく、ついにアメリカ発の世界恐慌にすっぽりと呑み込まれてしまったのでした。
なかでも広島県。
広島は全国で二番目に貧民層と呼ばれる人口が多い(九州全域の合計よりも多い)県で、工場や商店の倒産、休業、首切りなどで失業者があふれ、家を失い駅構内で夜明かしするしかない者、夜逃げする者、学費が払えず学校に行けない子どもたち、病気になっても医者に行けない家庭、そういった食うや食わずの人々が町や村にあふれている状況だったといいます。当然の成り行きとして、巷には強盗、窃盗が横行していました。
生まれ故郷がそういうどん底状態だからこそ、父は活動拠点を広島に移したのでした。
「自分は念願かなって弁護士となった。やっと貧民層を脱し得たのだから、これ幸いと、このまま東京で弁護士先生を続けるぞ。広島のことなんか知ったことか!」
とは考えませんでした。
社会の底辺から浮かび上がるためのこれまでの苦心惨憺、忍耐であったにもかかわらず、いざ自分がそれを脱すると、いまなおその泥沼に脚を取られている人々のまっただ中に戻って生きようと決意したのでした。
そういえば。
父は弁護士としても、訴訟の依頼人のつらい立場に激しく感情移入する人で、ときに冷静さを失い、ぐったりと疲れ果てていました。それを母から
「いいかげんにしんさい。他人のことじゃないね。たかが仕事でしょうが。うちの子どもが困っとるわけじゃないでしょうが!」
と叱りとばされながら励まされているのを何度も目にしたことがります。
それと同種の情動にこのときも呑み込まれたのではないでしょうか。虐げられた労働者農民の身になれば、
「自分が声を上げるしかない!」
損得を超えた、理性のコントロールの外にある、おそらく大脳の根幹に巣食っている原初的な生命に父は衝き動かされたのではないかと思うのですが、言い過ぎでしょうか。

               ★

広島に帰ると、父はまず全国の耳目を集めていた労働争議の法廷闘争を手がけました。
父の生きた時代を知るために、当時の企業主と労働者の関係資料を読んでみて、非常に驚きました。未だ封建制度の尻尾が切れていないのです。
経営者は封建時代の親方的感覚をそのまま引きずって、採用、昇進、賃金、労働条件、クビきりなどは自分の好き嫌いやご機嫌一つ。しかも従業員に対して、多くはこういう態度だったといいます。
「工員ふぜいで手なんか洗うな! おまえら、飯は油まみれの汚い手のままで食やぁええんじゃ。工場に来るときも、きれいな服なんか着て来るこたぁない。べとべとの作業衣で這いずり回っとるのが、おまえらの分相応というもんじゃ!」
あまりにも絵に描いたような悪徳親方像なので、信じがたい気がする話ですが、事実だったようです。
そんな企業主のもとでまともな雇用関係が生まれるはずがありません。だから労働争議の発端は、待遇改善もさることながら、日頃から卑しめられ、虐げられてきたことへのうっぷんが爆発した、それが実情であったといいます。
地主と小作人の関係でもまったく同じことが言えるのでした。
「地主は小作人を奴隷視していた」
これは当時を語るどんな資料にも出てくる、ごくありふれた表現です。。
ただでさえ全国屈指に耕地が狭く、おまけに痩せた土壌の広島のこと。作高が三十年も前の全国平均並みというわずかな収穫米から、60%もを小作料として搾取されたあと、さらに重税が待っているのですから、食っていけるわけがありません。まるで合法的に略奪されているようなものでした。だから来年のタネモミや肥料を買うために娘を売る。そういうことまであったようで、江戸時代に逆戻りしたのかと錯覚してしまいます。
ハワイやブラジルの移民に広島県出身者が異常に多い理由はこれでわかりました。海外に出るまでの決心がつかなかった人々は、筑豊の炭鉱や関西の紡績工場にかろうじて新天地を求め、結果、広島は全国第三位の出稼ぎ県になっていたということです。

話が長くなってすみません。
この貧民層を構成する人々とは、工場労働者、農民、仕立屋、印刷工、ペンキ職人、大工、左官、石工、仏壇職人、小商人などなど。その彼らには、さらに最悪なことがありました。貧民層の必死の待遇改善要求が、ことごとく官憲の力によって弾圧されたのです。
全国を荒れ狂った米騒動の鎮圧には軍隊まで出動し、しかも政府がその新聞報道を禁じたといいます。泣きたいほど民主主義でした。
「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉がありますが、これほどの状況にもかかわらず、貧民層の待遇改善要求運動を対岸の火事とできる人間がいるとすれば男じゃないよ、いや女だって女じゃないよ、そう言いたくもなろうというものです。しかし、
「お上から弾圧されちょるやつらの肩を持つアホがおるか!」
貧民層に属さない人々は、そのように考えるのがふつうでした。
父はアホだったのでしょう。

以下、父が広島に帰ってから最初の十二年間で行った社会運動、階級闘争を簡単にまとめます。

①労働者農民党呉支部を結成し、その支部長となり、海軍工廠(こうしょう)(海軍の戦艦・武器などの製造機関)の工員を組織して待遇改善を目指しますが、これはお上から強制的に解散させられます。求めた待遇とは、たとえば八時間労働であったり、失業手当の要求だったりしました。
②それでは…と中国無産党を結成。執行委員長となり、国と企業を相手に法と雇用制度の改善を求めてさらに闘い続けます。
③小作人争議、荷馬車引き争議などを担当し、貧民層の運動を支援します。
④借家人同盟を結成し、委員長として家賃や借家人の権利、市営住宅を廃止して無料宿泊所にせよ、などの運動をします。

無産者、つまり生産手段の無い賃金労働者と貧農のための全国組織は、時を重ねるとともに「全国大衆党」から「全国労農大衆党」、さらに「社会大衆党」と姿形を変えていきますが、父の中国無産党もそれに連動して変わりながら、その広島県支部の委員長を続けていきます。
その間に本業の弁護士では多数の労働争議で法廷闘争に携わっています。
他方、社会運動家としては結社禁止令もあって、演説会は解散を命ずる官憲との小競り合いが常であり、訴訟相手の企業の雇った暴力団につけまわされて生命の危機にさらされたりもするなど、まるで維新の志士そこのけの劇的な時間を積み重ねていたといいます。
「この頃は、いつも興奮状態、緊張状態にあった」
そういうことだったそうですが、若い頃から高血圧に悩まされていた父が、よくぞ倒れなかったものだと思います。
官憲とのやりとりがたとえばどんなものであったのか。ある集会で父が時局批判の演説をしているときの新聞記事がありますから、ちょっとご紹介します。
父は演説妨害でやじる私服官服の巡査に、
「双方、同じ無産者であるに、無産者のための演説をやじるとは無自覚もはなはだしい」
そう叱りつけたと書かれています。すると、たちまち会場は敵味方入り乱れての大乱闘になったとか。
傍目には非常にエキサイティングな人生に見えて羨ましいほどですが、もちろんそういう感想は不謹慎このうえないでしょう。

そういう社会運動の一環として、父は昭和八年(1933年)、広島市議となりました。
ただでさえ波乱万丈なのに、このうえ市議にまでなぜなったのか、といいますと、
「市議会で糾弾するのがいちばん効果的な案件なら、市議になるしかなかろう」
理由はそういうことでした。
その、わざわざ市議となってまで父とその仲間が糾弾したこととは何だったのか。
それは、広島市政空前の大疑獄事件でした。
そもそもは市当局の内部告発から始まった事件だったといいますが、検事局に告発されるや、事件はたちまち市長をはじめとする市役所の役人、癒着している業界・企業を巻き込んでの大騒動となり、新聞には連日大見出しが躍りました。
父はそのとき自らを「市政浄化の爆撃機」と称しています。
「みんなからバクダン男と呼ばれたもんじゃ」とも言っていました。「あいつに触ると爆発すると恐れられた」
爆撃機、バクダン…ですか。
時代背景がうかがえます。同時に、父のエキサイトぶりも充分にうかがえるように思います。

              ★

この年(昭和九年・1934年)の秋、しかし、父の今後を揺るがす出来事が起こりました。
陸軍省が50ページものパンフレットで、日本の政治経済改革の必要を訴えたのです。
その第一章はなんと、
「戦は創造の父であり、文化の母である」
から始まっています。現在なら噴飯ものの記述ですが、当時の日本ではこれが多方面に賛同の拍手を呼び起こしました。
しかも。
父にとってもっと衝撃的だったのは、所属するその社会大衆党の中央組織までもが、そういう陸軍省の考え方を支持するコメントを発表したことでした。
これには唖然、呆然としたことだろうと思います。父の広島県支部は中央の考え方にすぐには従いませんでした。
社会大衆党が、全国の支部まで一丸となって積極的に帝国主義侵略戦争を支持するに至るにはさらに二年を要します。が、その間の党内の意見の対立は相当なものであったろうと推察されます。
この混沌のさなか。
父は衆議院議員選挙に広島一区から立候補しています。そのときの党での役職は中央執行委員でした。
しかし、この選挙は落選しました。定数四のところ立候補者七名。結果は六番目でした。が、通らないことが父の人生には必要だったのだろうとぼくは思います。父も立場上立候補しながらも、心の内では何十%かはそう願っていたのではないかとも。
というのは。
社会大衆党は、時の権力者に賛同する「親軍派」が無産者を助ける闘争から離れつつありまして、そのことに父は強い憤りと失望を覚えていたからです。だから、そういう党を代表する国会議員になど、けっしてなるべきではなかったからです。
言論弾圧の厳しいさなか、どの程度自説を表明できたのか定かではありませんが、父が軍国主義にも侵略戦争にも大反対の立場であったことは明らかです。敗戦後に作った短歌には、その思想がよく顕れています。

そうして…。
さくらの花びらが枝から離れるように、いやむしろ、咲いているさくらの枝を折るようにという方がニュアンスとして当たっているでしょう。父、髙橋武夫は、ついに大きな方向転換を決意しました。
無産者の直接的な代弁者である人生を①党の変貌ぶりからしても、②全国民が戦争に真一文字に突き進んでいる国家の状況からしても、いっとき懐深くしまうことにしたのでした。
新たに父が目を向けた先。
それは岡山医科大学法医学教室の研究員になることでした。
昭和十一年(1936年)十月のことです。現役の弁護士としては全国で初めてのことだと新聞に大きな見出しで書かれています。
父は弁護士を続けながら週に一回通学し、法医学の学位を取る準備を始めたのでした。働きながら学ぶのは、少年時代からの十八番でした。父はこうして社会大衆党から離脱しました。その意味するところは、(圧制的な言論弾圧下、そう言いたくても言えなかったでしょうが)党の支持する軍国主義、侵略戦争への「否!」の表明にほかなりませんでした。

そしてさらに。
引退表明後の翌年。
こんどは無所属、無色であることを前面に出して市会議員に立候補し、再選されたのです。
何を思っての再度の立候補だったのでしょうか。その選挙で訴えたビラが残っています。それを読むと、主眼はもちろん「大都市に後れをとった広島市をどうやって発展させるか」、その具体的施策に置かれていますが、その前段として、
「広島市に根強い市議会内の抗争が、そして市議会と市当局の抗争がいかに不毛なものであるか」
「市会議員が、懸命に生活の向上を望む市民一人ひとりのために果たすべき役割は、そもそも何であるのか。いまはそこから出直すべきではないのか」
そのことを切々と訴えています。
十二年間、組織政党に属して行ってきた社会的弱者のためであったはずの運動が、党ごと軍国主義に呑み込まれて挫折した落胆。それをこんどは市政の場で、違う形でなんとか挽回しようとしていた、そのことを読み取らねばならないのだろうと思います。
しかし。
軍靴の音が日本中に轟き始めていた昭和十年代。
父はそのような「原点に立ちかえろう」という理想論の虚しさを、内心では初めからわかっていたのではないでしょうか。

              ★

弁護士になり、社会的弱者の代弁者としてその牙を立てた最初の十二年間。
父はエネルギーのほとんどすべてを外に向かって吐き出し、歌を作るといった、おのれの心をノミで穿(うが)つような心境にはなかなかなれなかったようです。
一年に一首から五首。「主に鑑賞者の側に身を置いていた」と生涯記には書いています。
たまに作られた歌は出張先での旅情を歌ったものか、運動のもどかしさ、社会への憤りなどを直接的に述べたものが多いようです。
たとえば旅情歌ですが。

くろかみに 椿はな挿す島の娘 島(ここ)に生まれて島(ここ)に死するか

けむり吐く 火口のそばに我が立ちて 思ふは人の世のすがたなり

無産運動のさなかにいて、その運動に背を向けたくなったときに生まれ出た歌には積極的にご紹介したいものがあります。

なにもかも 打ち壊してみたきこのこころ じっとおさえて子の寝顔みる

白紙(しろかみ)に 一筋くろく線をひき 意味あるもののごとく眺むる

生きている こと何となく味気なき 夕べにあれば子の爪を切る

欧米に追いつき追い越せ! アジア大陸の侵略!
それに向かって国民が総動員される時代にあって、無産者の権利を少しでも確立しようという運動など、流れに逆らって泳ぐに似た行為であったかもしれません。しばしば疲れ果て、独り無力感、脱力感に沈んだことでしょう。
「バクダン男」と称せられるほど爆発力のある言動で流れのなかを突き進んでいった父でしたが、じつは鋼鉄製でもなんでもなく、とても脆(もろ)い心をした人だったことをその人の子として言っておきたいと思います。
そういう脆さを叱咤激励して支えたのは、陽気で率直で現実的で、何事にも怖れず立ち向かう前向きな母で、母の存在があったからこそ十二年間の運動を維持できたのだと思います。
たしかに。
父の、歪められた正義に対する憤りと、その犠牲になっている弱者の痛みへの感情移入、そこからほとばしる改革へのエネルギー。それらは激烈です。
しかし、その情動は陽に透きとおって見えるほど純粋だけれど、しかし薄い氷のように割れやすい。そういう印象を持ちます。
けっきょく思いどおりにはならなかった十二年間でした。
その不充足感。そして、弁護士の資格を取ったこと以外、子どもの頃からずっとあるべき自分であれないできたことへのヒリヒリとした飢餓感。
だから父の短歌の底流には、四十代に入ってもなお十代の頃と同じやりきれなさが漂っています。

さらに。
歌としての出来栄えはともかく、父の人格特性を語るために、父が弁護士という生業をどう思っていたか、それを覗き見させる歌をご紹介しておきます。
これは、なぜ本業の枠から出て、金銭面でも権勢欲の実現の面でも得のない社会運動に注力してきたか、そのもう一面の理由でもあります。

金のため 人の紛争(もめごと)ひきうくる 我がなりはひを悲しみにけれ

あさましき 人のこころをあらはにも 見つつし暮らす業のかなしも

ただ一人の男児のぼくに、父は弁護士になれと小学生の頃から奨めていました。が、高校生になった頃(父が六十代に入った頃)から、
「この仕事はゴミタメに手を突っ込むようなもんじゃけえのう。ろくな仕事じゃない」
だから、おまえは他の仕事に就け。そんな言い方に変わりました。
その萌芽は、憧れの弁護士になったはずの初期からすでにあったのでした。
それは、医者が病を持つ人と接するのと同様、弁護士も揉め事や悪事に関わる者にしか接しない宿命、そういったどろどろとした人間の性(さが)を覗き込むような所業からは、しょせん人生の満足など得られないものだ、そういう感慨だったのでしょう。それ以外には考えられないと思います。
父は誰かの我欲に加担するのではなく、この世の桎梏にあえぎながらも懸命に生きている、なのにどうしてもうまくいかない、そういう人の手助けになることをしたかったのだと思います。それが弁護士を目指したそもそもだったのですから。
「しかし、現実には…」
そう。そういうことだったのでしょう。

ところで。
すぐに人生の意味を問う癖がぼくにもあります。
これでいいのか。人はなんのために生きているのかと立ち止まる。それは父からぼくに引き継がれたDNAです。この世をスムーズに渡るにはむずかしい性向の一つです。