父の遺した三十一文字 2

●髙橋武夫、十代の短歌。

そのように四面楚歌の状態に耐えながら、ともかく父は広島駅での電信掛を五年続けました。そして、十七歳の春から短歌を作り始めました。
父が短歌を作り始めた背景には、明治の末から興った自然主義文学の脈動があります。
陸続として現れた漱石、藤村、鴎外、龍之介などの巨星の、なんとまぶしかったことでしょうか。また短歌の世界でも啄木、牧水、白秋など日本を代表する歌人が世人の心をときめかせていました。
そんななか、父も満たされない懊悩を三十一文字に凝縮させる試みを始めました。
それらの短歌は「詩歌」(前田夕暮主宰)、「水郷」(郷土の短歌誌)に載り、また地方新聞の短歌欄にも「芽」と題して毎日のように取り上げられました。
そのほとんどは原爆で灰となりましたが、幸い手元に父が遺した筆文字の歌集があります。そのなかに当時の短歌が少々入っていますので、後ほど一端をご紹介いたします。
歌集の表紙は次のようになっています。

髙 橋 蒼 點 著

        過 ぎ に し 日
歌 集     點 滴
        足 跡

蒼點とは父の号です。
そしてタイトルですが、「點滴」がひときわ大きな字で真ん中に書かれていますから、最初につけられたのでしょう。が、それに赤い太い線が定規で美しく平行に二本引かれ、他の二案も同様に消されています。
迷った末にとうとう決まらなかった?
いや、そうではないのだと思います。
父は病的なほどのきれい好きで、汗を拭くハンカチ、手を拭くハンカチ、眼鏡を拭くハンカチと、それぞれ別々に持っていたほどの人です。いまは多機能便座が普及しましたが、当然それのない時代ですから、父は排便のあと風呂場で尻をまくって石鹸で肛門を洗っていました。
ズボンもシャツも必ずきちんとアイロンがかかり、靴もピカピカ。頻繁に床屋に行き、真夏でも上着を脱がない。机の上もつねに整然として、本棚の全集は1から順に正しく並んでいる。裁判所に提出する書面も几帳面な楷書体で書かれ、最後の一字まで最初の一字と同じにまったく乱れがない。
そういう人でした。
いちばん目立つ表紙を結果として下書き状態で放置するなんて、まったく考えられません。性格からして、つじつまが合わないのです。無題なら無題で、タイトルなしのきれいな白紙の表紙にさっさとつけかえたはずです。
なぜ、それをしなかったのでしょうか。
想像できることは、一つです。
つまり、無題の新しい表紙につけ替えては、最初から無題であったのとの見分けがつかなくなります。だから、三つのタイトルを消した状態で残した。
ということは…です。
タイトルを消した、そのことにじつは大切な意思が潜んでいるのだぞ、と伝えようとしている。そう思えてなりません。
これについては、後に原爆で何もかも失って、そして社会から身を隠すように暮らし始めた父の晩年の変化を語るとき、もういちど詳しく触れたいと思います。どうぞそこをご笑覧ください。

表紙の裏側にはこう記されています。

(この歌集は子々孫々に伝ふべし)

この歌集を
いまは亡き
一驥、瑠璃子、紅子、李羅子
眞吾、眞也
の霊に捧ぐ

伝ふべし、と命ぜられたのは跡取り息子のぼくだろうと思います。
六人の名は、水泳および原爆で亡くなった子どもと娘婿、そして孫ですが、原爆で死をまぬがれた子どもたち、すなわちぼくと、ぼくのすぐ上の二人の姉の名はありません。
原爆によって一挙に喪った子どもたちへの慟哭がいかに大きなものであったか、この一事を見てもわかります。
七人の子をなしましたから、たしかに父にはまだ三人の子が生きて在りました。しかし、精神的にはこのとき父も共に亡くなったのではないかと思います。そのことについても、後に触れます。
では髙橋武夫が十七歳、十八歳(大正三、四年)の頃の短歌を少しご紹介します。

               ★

山を見ず 河の水見ず海を見ず 五月となればさらに寂しき
(世間的な幸せとは切り離された、いや、それに背を向けた毎日だったことが想像されます)

わずかなる 昇給にさえ喜べる 我らのまえに咲ける夏菊
(賃仕事をする養母と髙橋少年との肩を寄せ合ったつましい暮らしが見えます)

裏町の 床屋の鏡にうつりたる 貧しきわれの姿かなしも
(絶頂期の写真にも写し取られた哀しみ。それが鏡のなかにすでに…)

やつれたる 女乞食の物陰に 身動きもせで海を見入れる
(その視線は父自身のものである気がします)

いとせめて 病めるならねば幸福と 言ひて二人はさみしき顔しぬ

ひだまりに 昨夜買いこし樹を植えて 日光(ひ)を吸うさまをしみじみと見し

おそろしき 心ふと湧きあわただしく 上げし瞳を母に見られつ
(その心は職場でのいじめからか、あるいはどうにも動かせない運命を呪ってのものか)

履きなれし わが古靴を売らむとて ある夜靴屋の前に立ちけり

ほのぐらき 藪(やぶ)の径(こみち)をつといでし 男の瞳けはしかりけり
(これはきっと自画像です)

足傷の その傷口を初秋(はつあき)の 陽にひたしおれば涙こぼれぬ
(傷は足だけに負っていたのではないのです)

春の陽に 吸はるるごとしわがこころ 暗がりに入ればほっと息づく
(春の陽の温かさ、明るさを求めながらも、だけどいまは暗がりの方がちかしく感じられる逆境)

膝の猫 寝息をぢっと聴きており 夜更けしに母いまだ帰らず
(その不安は、少年の、生きて在ることの不安だったと思います)

真実に ひとりとなりてうちまもる 鏡のなかのわれが泣き顔
(必死で生きていようとする自分が、鏡のなかで半べそをかいている。だけど、その自分を生きるしかない)

思いどおりにならない人生でもがく飢餓感が、歌の底流に漂っているように感じられてなりません。
それにつけても思い出されるのは…。
ぼくは、大学入試の得点力を上げることに熱心な学校に通っていましたが、そこの教師も生徒たちも大嫌いでした。ぼくは「もっと違う生き方があるはずだ!」とひそかにあがき、その気持を初期エルヴィス・プレスリーの歌声に潜む、爪を我が胸に突き立てるような飢餓感と重ね合わせていました。中学二年か三年頃のことです。
ある日のこと、ぼくがラジオから流れるプレスリーの「監獄ロック」にしがみついていると、裁判所から父が帰って来ました。叱られることを覚悟でぼくは頑なに背を向け、父が通り過ぎるのを待っていたのですが、父は通り過ぎません。すでに充分反抗的であったぼくは、かまわずそのままピアノの高音部に心をかきむしられ続けていました。やがて「監獄ロック」は終わりました。
と、父がぽつりと言ったのです。
「ええ歌じゃのう…」
驚いて振り返ると、父の目にもぼくと同じように涙が浮いており、ぼくはそれでさらに深く驚きました。
いまになって思うのですが、父の「あるべき自分であれないことの飢餓感」は、おそらく一生消えなかったのではないでしょうか。
父はそのときもう六十歳に近い年齢でした。

               ★

父には、この年頃にふさわしく異性とのことを歌った短歌もあります。
その対象は母(父にとっては妻)ではありません。母に出会うのはもっとあとですから。恋心を抱いた相手はなんと若い尼僧だったのです。
尼僧、ということは…。
そうです、最初から破局となるとわかっている恋、ということではありませんか。
では、さっそくに歌でその顛末を。

うら若き 尼ひとり住む山寺の 暗き厨(くりや)の小さき鏡
(出家してなお鏡を見る尼僧。その鏡がしかも遠慮がちに台所に置いてある。その片隅的女心が父の心に忍び入ったのでしょうか)

君が手紙(ふみ) 乱筆なればうれしかり ゆっくりゆっくり読んでいしかな

桐の木の まへの日向(ひなた)に赤き布 ほす娘かもひるの鶏なく
(赤い布に十七歳の父は何を心に宿したのでしょうか)

しらじらと ひんがしの空あかるめば 月かと女ためらひにけり
(空のいろをも映して女ごころが震えています)

おとづれば いつもさみしき笑みをする かの山寺に住める尼はも
(お互い、崖っぷちを歩いていることがわかっていたのです)

小夜(さよ)衣(ぎぬ)の その帯解けとたはむれに 言いにしものをよわき君かも

ただふたり 闇にひたりてあるものを あまりによわき君が眸(ひとみ)かも
(尼僧にはもう終末が見えていたのではないでしょうか)

来は来ても 逢うすべもなく手に染みし 草の匂ひをかなしみにけれ

君がすむ 村の小径を陽にぬれて 行けば愛(かな)しきいのちなりけり

君が家の 木犀(もくせい)の香にあらずやと 秋風のなかひた恋いにけれ

落日の 赤きに向かひ放埓(ほうらつ)の 子は瞳(め)を閉じぬ野の草のうへ
(自らを放埓の子と揶揄して、この恋を無理やり閉じようとしたのだと思います)

太陽よ 汝(な)がにくたいを抱かんと 願へる吾れのこの瞳見ね
(しかし、叫ばずにはいられない。天地を、神を、敵に回してでも!後に社会運動に身を投ずる純な激しさがすでに宿っています)

そして大正三年(1914年)。
日本は日英同盟のよしみでドイツに宣戦布告。むこう四年にわたる第一次世界大戦に突入しました。
日本はドイツの植民地だった中国の青島(ちんたお)と南洋諸島を攻略。
それをうけて大正四年(1915年)、十八歳の父は養母を広島に残して独り中国に渡りました。中国は青島守備軍民政部の鉄道部に電信掛として転職したのでした。
それは、この先の東京での勉学専念に備えて、短期間でよりいっそうの貯蓄をするためでもありましたが、破局を迎えた恋情の、未だ濡れそぼる衣を脱ぎ捨てるためでもあったのではないでしょうか。
青島では百数十首の歌を作ったとのことです。が、それらを記したノートはすべて原爆で失われました。「愛誦した歌が相当含まれていたのに」と父自身が残念がっていました。もったいないとぼくも思います。
なぜもったいなく思うか、以下、息子なりの理由を記します。

我が家には「ワーン大将」と称する料理がありました。
ひき肉と拍子木に切ったキュウリを炒める料理で、ニンニク、ショウガ、タカノツメをたっぷりきかせ、味つけは酢と醤油と酒。中国の家庭料理なのでしょう。父が青島に単身渡って自炊していたときに作っていたそうで、それを母に口伝し、ときどき食卓にのぼらせていました。
それを口に運びながら、父はよく中国に渡った頃の話を始めたものです。が、よほどつらい思いをしたらしく、世間には筋金入りの闘士でとおっている父が、いつも決まって途中から幼児のようにワーッと泣き出してしまうのでした。
大げさに言っているのではなく、ほんとうにそのつど顔を真っ赤にして、ザアザアと涙を流すのです。
姉とぼくは、当時読んでいた子ども雑誌に「ワーン大将」という、何かというとすぐ大声をあげて泣く主人公の漫画がありましたから、それでその料理のことをワーン大将と呼ぶようになりました。
けっきょく、話そうとして言葉にならず、肝心の中国での苦労話はよく聞けずじまいでした。
短期間で学資を貯えるための中国行きは、その目的を達成しようという強い意志の力だけで、寒さ、ひもじさ、孤独に耐える生活だったのだろうと思います。くじけそうになるたびに、おそらく何度も己が命を痩せた指に握り締めたことでしょう。
そこから滲み出たみずみずしい生活歌。あの毎度の泣き方から、十八歳の若者が覗き込んだ断崖の深さを想像すると、ほんとうに読んでみたかったと思います。残念なことです。

この中国での暮らしの間に父は一度故郷に戻り、広島市己斐(こい)のメソジスト教会で、スミス牧師により受洗しています。
父がキリスト教に心を向けたのはどうしてなのか、それはいつ頃からなのか、そしてなぜわざわざその教会で洗礼を受けたのか(己斐は広島市の西のはずれ。中心部にある住まいからは相当離れている)、それらのことはわかっていません。
ただ想像できるのは、「おまえは正しく生きているのだぞ。この困難を受け容れて精一杯生きぬくのだぞ」、そう言って力づけてもらえるのが、牧師の言葉、言い換えれば聖書のなかにしかなかったのだろうということです。ふだんの人間関係からは、そのような支えは得られなかったのだろうということです。
そういえば、父の好んで口にした聖句は「艱難(かんなん)、汝を珠にす」でした。
独り中国の片隅で聖書に向かい、そのなかの一言一句にすがりつき、そして信じ、噛みしめることにしかこの自分の境遇を肯定するすべがなかった、そういうことだったのだと思います。