クリーン・エア・アクト

その画期的な法律、通称「クリーン・エア・アクト(路上喫煙者特別処分法)」が施行されたのは、今からちょうど一年前のことだった。

歩行喫煙、いわゆる「歩きタバコ」を現行犯で見つけた場合、市民はあらゆる鈍器を用いた「超法規的殺害(撲殺)」を認められる。

かつて街の美観や健康被害をめぐって泥沼の議論が続いていたが、政府が放ったこの極論すぎる劇薬は、驚くべきことに一瞬で治安を「清浄」へと導いた。

今や、街行く人々はみな背筋を伸ばし、携帯灰皿すら持ち歩かない。誰もが法を恐れ、あるいは「合法的な狩り」の標的になるのを恐れていた。

自称ハンターの青年、歩(あゆむ)は、手になじんだ特製のカーボン製バットを握りしめ、真冬の繁華街をパトロールしていた。この時代、歩きタバコを仕留めることは一種のスポーツであり、正義の体現でもあった。

「チッ、今日も空振りか……」

誰もが怯えてタバコを吸わない。それは良いことのはずなのに、歩の心にはどこか物足りなさが燻っていた。
街が綺麗になればなるほど、人々の目は血走り、誰かが過ちを犯すのを今か今かと待ち構えている。ディストピア的な静寂が、街を包んでいた。

その時だった。
すれ違った男から、微かにカチリ、とライターのような音が聞こえた。歩の身体が、条件反射で緊張する。
男はうつむき、震える手で紙巻きタバコを口に咥えた。そして、白い煙が夕暮れの冷たい空気に細く立ち上る。

「おい、嘘だろ……」

歩の周囲にいた通行人たちの目が、一斉にギラリと輝いた。誰もがカバンから、あるいは懐から、警棒やレンチ、鉄パイプを抜き出し始める。
獲物を見つけた猛獣の群れ。それが今の、この「クリーンな社会」の市民の姿だった。

「ま、待て! やめろ!」

男は目を見開き、悲鳴を上げた。しかし、歩行喫煙をした瞬間から、彼は法律によって「人権を持たない害虫」へと格下げされている。

周囲の人間が鈍器を振り上げ、男に襲いかかろうとしたその瞬間。
歩はなぜか、男と周囲の狂気の間に割って入っていた。手にしたカーボンバットで、迫り来る他人の鉄パイプを弾き飛ばす。

「な……邪魔すんなよ! そいつは歩きタバコの現行犯だぞ!」

割り込まれた市民が怒号を上げる。

「……見ろよ」

歩は静かに、咥えタバコの男を指差した。
男は地面にへたり込み、ボロボロと涙を流していた。その手にあるタバコは、よく見ると火がついていなかった。立ち上っていたのは煙ではなく、男の激しい呼吸が生み出した、冬の冷たい「白い息」だった。男が咥えていたのは、ただの禁煙グッズの電子吸入器(ダミー)だったのだ。

「こいつは、吸っちゃいない。ただ、どうしてもやめられない癖で、咥えていただけだ。……あんたらは、火も煙も見ていない。ただ、人が人を殴り殺せる大義名分が欲しかっただけだろ?」

市民たちは、バットを構える歩の鋭い眼光と、男が持っているプラスチックの筒を見て、忌々しそうに武器を収めた。
「チッ、紛らわしい真似しやがって」「時間の無駄だ」と吐き捨て、蜘蛛の子を散らすように去っていく。
静まり返った路上で、男は歩を見上げてガタガタと震えていた。

「た、助かった……のか……?」

歩はカーボンバットを肩に担ぎ直し、自嘲気味に笑った。

「ああ。だが、次はダミーでもやめておけよ。この街じゃ、煙が出ようが出まいが、他人の血の匂いに飢えてる奴らばかりだからな」

歩は男に背を向け、再び歩き出した。

空気を綺麗にするために作られた法律は、自分も含め、人の心をすっかり濁らせてしまったのではないか。
この国の政治家どもは、こうなることを予測できなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。だとしたら、一体なぜ……?

懐のバットの重みを感じながら、歩は一人、この世の終わりのように赤く染まる空を見上げた。